第13話 樹洞

 遊歩道を辿ってゆくと、植物園のゲート前に出た。噴水を中心にして飲食店のブースやキッチンカーが並び、コンサートの前に軽食を買い求める人らで賑わっている。

 月の輪号を見つけたジリアンは、少しばかり鼻白んだ。彼のドーナツを求める人の列に並ぶのは初めてで、どうにも落ち着かない気分になる。

 ふたり前に並んでいた女性がディディエに「ハイ、最近どう? 新しいフレーバーはある?」と親しげに話しかけているのを目にして、列を作っているのは全員が若い女性だと気づいた。他の女性たちより頭半分ほど背が高く、ラフなマウンテンパーカーを羽織り化粧気のない――少年めいたジリアンが異色の存在であるとも。

 ディディエのドーナツ、もしくは彼自身にファンがついているのだった。これまでその可能性に思い至らなかった自分に驚いたし、お気に入りの店が繁盛しているのだと喜ぶべきなのに、少しも嬉しくないことにも驚いた。むしろ気まずく、ノエルとの約束がなければ逃げ出していたかもしれない。

 ディディエは白い鳥の巣めいた髪をバンダナに押し込めて、ジリアンにも愛想良く笑いかけてくれた。ドーナツ屋さんと客なのだから当たり前だけれど。

「……こんにちは」

「ああ、来てくれたんだ、ありがと。今日も元気みたいだね、よかった」

 そう見えたならいい。前もって決めていたレモングレーズがメニューにあるのを確認して、レモングレーズ、シナモンシュガー、チョコレート、それから「本日のスペシャル」と掲示されているミルクスノウを選ぶ。

 ミルクスノウはホワイトチョコがけのリングドーナツにアラザンを散らしたもので、ココア生地と白いデコレーションの対比が冬めいている。コーヒーに合いそうだと注文を追加して支払いを終えると、ディディエはコーヒーマシンを操作しながら、「植物園の樹洞、見たことある?」と軽い調子で言った。

「樹洞……?」

「樹のうろってやつ。大きいのがいくつかあってさ、絵本ならここに木の実をためてるリスがいたり、賢い梟が長老って呼ばれてたり、周りにファンシーなきのこが生えたりしてるんだろうなあって、わくわくするんだ。秘密の場所っていうか、日常と非日常の境界っていうか、そういうイメージ。おれはドーナツ屋さんだから、ドーナツだなって思うんだけど、お姉さんはどうだろうなあ。……はい、お待たせ」

「ありがとう。樹洞……見てみます」

「お姉さんは、樹洞のリスっぽいよ。いい場所でしっかり冬眠して、気持ちよく春を迎えられるといいね」

 彼がどうして突然、うろの話を始めたのかはよくわからなかったが、ジリアンは礼を言って列を離れた。

 こうなるとコンサートどころではない。上の空で演奏を聴いてすぐさま引き返し、植物園のチケットを買った。

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