第48話 夜明け

     ◆


 気配を感じて目を覚ます。

 自分が社の賽銭箱の裏にいることに気づき、そして近づいてくるのは老人のようだ。

 身なりは商人のようで、剣は持っていない。

 時間はわからないが、空は明るくなりつつある。夜は明けたのだ。

 老人が杖をついて、しかししっかりした足取りでやってきて、懐から財布を取り出し、賽銭箱へ銭を投げようとして、こちらに気づいた。

 短い悲鳴をあげて、手から杖が落ちる。軽い音を立てて、それが転がった。

「いえ、怪しいものではありません」

 そう声をかけると、老人はまだ言葉もないようだったが、ゆっくりと注意深くこちらを見ながら杖を拾い上げた。

「怪しいだろうよ、お前さん、こんなところで何を?」

 それほど怯えた様子でもなく、老人に訊ねられては正直に答えるしかなかった。

「旅をしております。昨夜、街道で日が暮れてしまい、夜露をしのげれば、とこちらの軒下を借りていました」

「信心深いとは言えないな」

 それほど否定する響きでもない。老人らしい忠告、といったところか。

「少しでも賽銭を弾む方がいいぞ、神のご加護は信心深いものにだけ、注ぐものだ」

「ええ、そうさせていただきます」

 老人が頷き、財布からやっと銭を取り出し、賽銭箱に落とすと、手を合わせ始めた。じっと見ているわけにもいかず、明るい中で社を見上げてみた。するとこの神社の名前らしいものが板に書かれているが、字が崩れすぎているのと歳月で薄れていて、よく読み取れない。

 そのうちに老人が「では」と頭を下げて背中を向けたので、言われた通り、銭をいつもより少し多く、賽銭箱に投げ込んだ。老人の真似をして手をあわせるが、何を念じるかは、いつも迷う。

 そもそもこんな神様を模したものではなく、実際の死者の墓の前で手をあわせるべきではないか。

 しかしそれは、残された家族が許さないかもしれない。

 殺された方も、殺しておいて手をあわせるなど、あるいは筋が通らないと墓の下で思うだろうか。

 結局、旅の安全というぼんやりしたものを祈願して、社の前を離れた。

 階段を降りようとすると、その姿が目に入り、足が止まった。

 階段の一番下で、先ほどの老人が立ち尽くし、こちらを見上げているのだ。

 ゆっくりと階段を下りていくと、老人が眩しそうに眼を細める。実際、眩しいのだろうか。

「旅をされているということだが、剣士かな、そちらは」

 声を向けられて、そのようなものです、と頷く。

「少し話をしたいと思ってね、この先で旅籠をやっているものだ。店は息子夫婦に任せたが、一部屋くらいは都合してもらえるだろう。それとも、先を急ぐ旅かね?」

「先を急ぐ理由はありません。ただ、旅籠に泊まるような懐具合ではありませんので」

 半分は嘘だったが、老人も先ほどの姿を見ているからだろう、財布が軽いという嘘は信じたようだ。

「神社で夜を過ごすのだからな」

 これもまた、老人らしいからかい方だ。こちらが曖昧な顔になると、老人が声を上げて笑った。

「話を聞きたいと言っているのは私だ。銭は取らんよ。まあ、話がつまらなければ、一晩だけになるが」

「一晩だけでも嬉しく思います。ぜひ、お願い致します」

 うん、と老人が頷いて歩き始める。杖はやはり形のようなもので、足腰がしっかりしているのが見て取れた。あるいな何か、杖は印象を植え付ける道具かもしれない。

 少し歩くと、街道沿いに大きな建物が見え、その周囲に小さな建物がいくつか並んでいる。

 一番大きな建物が旅籠だった。屋号は、西湖屋、だった。

 老人に連れられて中に入ると、店のものが老人にへりくだっているので、どうやら老人の話は本当だとわかった。それでも店のものに名乗る必要はあった。スマ、と名乗ると、老人が目を丸くする。

「北の地で聞いたことがある名だ」

 老人にもこの時、初めて名を告げたのだった。

「北から参りましたが、あるいは、関係あるかもしれません」

「ますます楽しみになった。とりあえずは、飯かね、風呂かね」

 風呂に入れさせてもらえるように頼むと、店のものは慌ただしくなり、どうやら湯を温め直しているらしい。申し訳なくなったが、老人は平然として、「部屋で待とう」と言った。

 建物は二階建てで、角の部屋に案内された。

 一間でも一人で使うには広すぎる。女中がやってきて、老人にキセルを一式、そしてお茶の用意をした。

「さて、北の地からの旅で、面白い話もあるだろう。何を聞かせてくれるのかな」

 女中が去ってから、老人が促す。

 既に話す内容はおおよそ決まっていた。

 もっとも新鮮な、イチキの街、オリカミ家にまつわる話をするつもりだった。

 しかし、どこから話せばいいだろうか。

「あるところに年老いた剣士がいました」

 そう切り出すと、キセルにタバコを詰めながら、老人がこちらをチラッと見る。

「切ったのか?」

「いえ、手合わせすることもできませんでした。しかし一流の剣術家でした」

「どのような」

「片腕と片足が不自由で、片目が潰れておりました」

 ふむ、とキセルから吸い込んだ煙を吐き出しながら、老人が目を細める。

「それだけの傷を負うのに、一流なのか」

「剣術にはいろいろとございます」

 どこまで話すべきか、迷ったが、先へ進むことにした。

「話をしただけで、あの方は一流でした。私がその剣術家を知ったのは、偶然でした。やはりかなりの使い手の剣士が、自分が切れない相手がいる、と言ったのです。その時、老剣士はただ、朽木、と呼ばれていました」

「朽木……」

「既に朽ちた木、衰えた木ということでしょうが、とてもそうは思えませんでした」

 老人が黙って煙を吐き、何度か頷いた。

「話を続けなさい、スマ」

 それから、イチキの街であったことを話したが、それは風呂を挟み、昼食を挟み、夕食を挟んで、夜に及んだ。

 老人はずっと耳を傾け、時折、質問し、退屈もしていないようだった。

 夜になり、どこか別の部屋から笑い声が聞こえてくる。

 フゥっと、老人が煙を吐き、それが溶け、消えていく。



(続く)

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