第20話 まだ、あと少し

化学の授業の時に言われた通り、放課後すぐ私はいつもの空き教室にやってきた。


「相馬くん?何で急に――」


後ろ手にドアを閉めようとした途端、一瞬だけ意識が飛ぶ。

一拍遅れて気づいたのは、自分がコマンドもなしにKneelの姿勢をとってしまったということ。膝がじんじん痛む。Subの本能を呼び起こす、むせ返るようなグレアの匂いに頭がくらくらする。冷たい床が、両脚や手の指先から熱を奪い取っていく。


「グレア強いって…手加減してよ」


嗅覚までがそれを捉える経験は初めてだった。初めてなのに、それが相馬くんの香水や柔軟剤なんかではなくグレアが纏う香りなのだと分かったのは、やはり自分の本能だろう。果実や花の蜜のような、あるいは砂糖を煮詰めたような、何とも形容し難い甘い匂い。


「さほど強くないよ。普段より少し、ってくらい」


相馬くんはそう言いながら、私が触り損ねたドアを閉めて鍵をかける。


「二見さんの感受性が上がっちゃってるんだよ、欲求不満のせいで。今のままだとその辺の知らないDomに屈することになるけど」


「…それはやだ」


そんな過ちを犯せばきついお仕置きは免れないだろうし、何より相馬くん以外のDomに従う自分自身を許せない。我ながら従順なSubに躾けられてしまったものだと思う。


「じゃあそんな顔してないで、大人しく言うこと聞いてな。ほら、“Come〈おいで〉”」


「……っ、ちょっと待って。頼みがあるの――キスのコマンド、それからこの前の跡つけるの、しないで…」


「…分かった」


相馬くんは少し驚いたようだったが、それでも約束通りにそれらのコマンドは出さなかった。代わりに簡単な命令を私が上手くこなせば、たくさん褒めて甘やかした。

やはりいつもよりかは時間がかかってしまったけれど、それでもほんの少しずつ体調が回復していくのを実感する。


「ねぇ相馬くん」


「どうしたの」


「相馬くんの好きな子って、やっぱりSub?」


「気になるの?」


相馬くんは困惑したように笑って、私の真意を探るようにじっと見つめてきた。


「……分かんない」


確かにおかしいと思う。好きな人が心を寄せる別の相手の話をわざわざ聞き出して、自分の傷を抉ってどうしたいのだろうか。明確な理由なんて自分でもよく分からない。

ただ間違いないのは、相馬くんを目の前にするとばかりが頭の中を埋め尽くして、他の話題なんて思い浮かばないということ。


相馬くんは「分かんない、って?」とまた笑い、今度こそ私の質問に答えた。


「Subだろうね」


相馬くんは私の髪を手櫛でさらさら梳く。ちょっと伸びたね、と言う声が優しくて柔らかくて、また近頃のプレイ不足の影響も相まって瞼が重くなっていく。鼻の奥にはまだ甘ったるい匂いがこびりついていて、身体の奥が変に疼いたままだった。





「何これ、クッキー?」


はしゃぐような甲高い声に、私は微睡まどろみの中から引き摺り出される。

朝休み。教室にいる生徒たちは談笑したり勉強したり、思い思いの過ごし方をしている。学年末試験が先週終わったばかりだけど、やはりこの時期から受験を意識する人が増えてきたのだろう。


「そう、妹と作ったんだ」


「うまー!今年はマシュマロじゃなくて良かった」


離れたところから、みやこちゃんや相馬くんたちの会話とその周りの人の笑い声が聞こえてくる。


「でも相馬、さっき他の人に箱のお菓子渡してなかった?いや、クッキーも美味しいから嬉しいんだけど」


「あぁ、あれは本命に高いチョコくれた人にだよ。手作りの分じゃ足りなくて。みやこのは義理チョコだったでしょ」


――あ、聞きたくないことを聞いた。

私は机に突っ伏したまま、そっと唇を噛む。


パズルのピースを一つずつ当てはめるように、“相馬くんの好きな人”と“みやこちゃん”が頭の中で一致していく。

柏崎くんはみやこちゃんはないと言っていたけれど、でも彼女はSubで、そしてバレンタインに義理チョコを渡したのだ。


「チョコの総数なら俺の勝ちなのに、本命の数で言えば相馬の方が明らかに多いんだよなぁ。あの一日でお前、何回呼び出されてたよ?」


「バレンタインは勝負じゃないよ、中村」


「そういうところだよな。余裕ぶりやがって」


軽快な笑い声が沸く。

私はまだクッキーを貰ってない。妹と作ったってことは、愛ちゃんだろうか。小学生ながらしっかりとした受け答えをしていた彼女の姿が瞼の裏に浮かんだ。



♦︎



「なぁ」


その声と同時に背中を叩かれ、振り返ると柏崎がいた。

柏崎は特によくつるむ友達の一人に挙げられるけど、人付き合いのほとんどを受け身で貫く柏崎の方から僕に話しかけてくるのは結構珍しいことだと思った。


「何、まだクッキー食べる?」


虚を突かれたような表情から察するに、彼の狙いはクッキーではなかったらしい。が、差し出したタッパーから無言でつまみ取って口に運ぶ。サクサクと小気味良い咀嚼音が微かに聞こえた。


「なぁ、あんたが好きな奴って、二見さんだったりする?」


「へ?」


彼は何の前置きもせず、いきなり本題から話し始める節がある。元から分かってはいるのに、本題の内容が内容だけに僕は呆気に取られた。


「去年だったか、…何でこんな話題にすり替わったのか――とにかくあんた、好きな奴いるって言ってたろ。その時はまたいつもの気まぐれな冗談だって受け流したけど」


「あー…っと、ちょっと待って。なんで?…僕、二見さんとほとんど絡みがないのに?」


「それって肯定ってことでいいのか?…まぁ確かにあんたらが喋ってるとこほぼ見ねぇし、あんたの態度からは何も分かんねぇけど。二見さんにこの前訊かれたんだよ。相馬の好きな奴を知ってるかって」


口数の少ない柏崎が、一息でこれだけの文章をすらすらと話しているのを滅多に見ない。

けれどそんなことより、その文章の中身が僕にとっては重要だった。


「え…二見さんがそれを訊いたの?柏崎に?」


「あぁ。なんか死にそうな顔してた。あの人、いつも何考えてんのかさっぱりだったから、ちょっとびっくり」


「…そう」


溢れそうな数多の感情を、僕はその短い返事に込める。

そっか、少なくとも二見さんは妬いてくれてるんだ。嬉しいとか幸せとか、そういう月並みの言葉に表すのは不可能だった。何となくそんな気はしていたけれど、他人の口から聞くと僕の欲目じゃないことを実感できる。


長い睫毛に縁取られた柏崎の目に、面白がるような光が浮かんだ。


「随分嬉しそうな顔するんだな」


「柏崎が楽しまないでよ」


「大目に見ろよ、マトモな恋愛してる奴は俺の周りにいねんだ」


それは確かに柏崎の言う通りだ。僕たちの周りにいる友達は部活バカ、もしくはセフレ持ちの二択に大体絞れてしまう。例えば高峰は前者で中村は後者。ちなみに言っておくと、柏崎も後者である。


「告れよ」


「うーん、まだ」


「は?あっちも確実にお前に気ィあるのに」


「でもまだダメなんだ」


「…訳わかんね」


柏崎は形の良い眉をキュッとひそめて、不快感を全面に押し出す。彼はプラスの感情はあまり表に出したがらない癖に、こういうマイナスの感情だけ顕著に顔に出るのだ。


「普通に好きになってもらうんじゃ足りないんだよ。二見さんはチョロいから、例えば今この弱ってる状態で、万が一他の男から好意を寄せられたら簡単に落ちちゃうと思うんだ。だからあと少しだけ、悶々としながら僕だけのことを考えてもらって、どん底まで弱らせて、他の奴を一生眼中に入れられなくなるまで――」


「ストップ落ち着け、分かった。いや分からない。怖えよあんた。前言撤回だ、マトモとは一番程遠いじゃねぇか」


知ってるよ、僕はまともなんかじゃない。

二見さんが結構鈍いのと、それからSubによくありがちなネガティブ思考のおかげだろうか、僕の曖昧で遠回しな“好きな子”の話が自分のことなどと二見さんは微塵も思っていない。決定的な一打はまだ食らわせるつもりはない。あと少し。

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