第19話 恋と信頼

相馬くんに対する恋心を自覚すると同時に、彼に寄せていた全幅の信頼が少しずつ失われ始めた。

後者のことに気づいたのは私よりも相馬くんが先だった。


「二見さん、コマンドに応えるの…下手になったよね」


「え…?」


「この主従関係は全部、Subきみからの信頼ありきなんだよ。コントロールを渡すかどうかも君次第」


言われてみればプレイが始まってから私は落ち着きがなく、ずっとそわそわしていた。ふわふわする感覚や気持ち良さもさほどなく、こんなのは初めてだ。


「二見さん。Kiss〈キスして〉」


相馬くんは椅子の上から上半身を屈めて、地べたの私にも届くような姿勢をしてそう命じた。

身体はコマンドに従おうとするのに、抗おうと思ってしまった。今までなら考える隙さえなく身体が反応していたのだから、やはり信頼が足りなくなったせいだろうか。


咄嗟に私は相馬くんの手をとって、唇ではなくその指に口付けを落とす。言われた通りにできなくて、途端に悲しさと申し訳なさでいっぱいになった。


頭がズキリと痛んで、何故だか眩暈がしてくる。

呼吸までが次第に乱れ、私は相馬くんの膝の上にぐったりと伏せて「ごめんなさい」と震える声で呟いた。


「ほら、逆らったからしんどくなる。二見さん、Look〈こっち見て〉」


相馬くんの顔がどうしても見れない。


「二見さん、お願いだから。この調子じゃサブドロップしちゃうよ」


サブドロップ。薬物で言うバッドトリップと似たもので、Subの精神状態が最悪の状態になるとパニックの発作を起こす。

信頼していないDomから強いグレアを浴びせられて陥るだけでなく、れっきとしたパートナーのDomの命令に無理やり背くことでドロップすることもある。私も高校二年生になったばかりの日に、軽いそれを体験した。もう一年近く前の話だ。


相馬くんの前ならサブドロップしてもいいや。

きっとたくさん心配されて、撫でられて、「いい子」って褒めてもらえるから。あの春の日に、私の家の玄関で相馬くんがそうしてくれたのを思い出す。


相馬くんは観念したように椅子の上から降りてきて、正面から私を抱きかかえた。


「大丈夫だよ、二見さん。いい子だから」


私の身体中の震えを収めるかのように、相馬くんは力を込めて抱き締めてくれた。それが辛くて切なくてしかたがない。

相馬くんが恋に敗れて、私が入り込む隙ができたりしないだろうか。そうしたら躊躇うことなく、包み込むようなこの温かさに全身を預けられるのに。

罪悪感や劣等感が邪魔をして、ちっとも幸せな気持ちになれない。苦しいだけだった。


だいぶ落ち着いてから、私は呟いた。


「…もう帰る。今日もありがとう」


「え…二見さん?でもまだ」


私は喉元の留め具をいじって自らカラーを外し、相馬くんに渡す。それからよろよろと立ち上がり、呼び止める相馬くんに見向きもせずに荷物と上着を持って教室を出た。


――相馬くんの馬鹿。

好きな人がいるんだったら最初っから主従を持ちかけないでよ。知ってしまっても、今更離れがたく思うのは当たり前だ。

あと一年はこの関係を許して欲しい、と誰にともなく願った。私のせいで誰かが不幸になりませんように。キスとかその類のコマンドは嫌だとちゃんと伝えよう。





「…具合りぃのか」


ハッと我に返って、正面で両手に試験管を持ってこちらを見据える柏崎くんと目が合う。


「ごめん、眠くて」


「いいけど。ガスバーナー、危ないから」


柏崎くんは形の良い眉をひそめて、手元の試験管に視線を戻した。彼の長いまつ毛が瞳に影を落とす様子をただぼーっと眺めていたら、いつの間にか意識が遠のいていたみたいだ。

化学の授業で、今日は二人一組になって実験を行っている。最後に相馬くんに付き合ってもらった日から一週間、やはりプレイが不十分だったせいか体調が優れない。特に今日一日眠気には負けがちである。


「柏崎くんって相馬くんと仲良いよね」


「…まあまあ」


「相馬くんの好きな人って知ってる?」


「あ?恋愛相談なら管轄外だ」


「ち、違くて!そういう噂を聞いたというか…」


「へー。“色事には興味ねえ”みたいなツラしてるあいつが」


「意外に思わない?」


「別に。相馬みたいな人畜無害そうな奴が一番、何考えてるか分かんなかったりするもんだろ」


柏崎くんはバーナーの青い炎を見つめながら言った。

ただでさえ綺麗な顔に普段は不機嫌を張り付けて、近寄り難い印象がある柏崎くん。修学旅行では同じ班だったとはいえ必要最低限しか話さなかった記憶があるから、普通に喋るのは初めてかもしれない。


「…まあDom性の強い奴だから、執着は凄いだろうな。諦め悪そう」


「相手ってやっぱり、みやこちゃんとかかな」


「や、あの女はないだろ。うるさいし、相馬も適当にあしらってるし。あいつはもっとSubっぽいというかマゾっぽい奴が好みなんじゃねぇか」


「…まぞ」


まさか柏崎くんの口からそんな単語が出るとは思わなくて、呆気に取られてしまった。





無事に実験を終えて流しで器具を洗っていると、隣で同じく作業をしていた人と手が触れた。見上げると相馬くんだった。


「放課後、いつもの教室」


私にだけ聞こえる声量で相馬くんは呟く。


「え、でもまだ約束の日は――」


相馬くんは私の言葉をスルーして、さっさとその場を離れてしまった。その空いた蛇口にノアが入り込む。


「すーちゃんのとこ、銀鏡反応できた?」


「ああ、まあ」


実験の手順はほとんど柏崎くんに任せっきりで、私はガスバーナーの操作しかしていない。成功したのはそのおかげだろう、自分が主体になって行った実験で上手くいったことなどない。


「うそー!俺の、真っ黒になったんだけど」


ノアは不満を口にしながら、それでもなお楽しそうにケラケラ笑った。

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