第18話 本命チョコ

今更気づいたことがある。

バレンタインの日の相馬くんは、いつにも増して一人でいるタイミングが少ない。休み時間の度に呼び出され、教室のすぐ外で女子と話している相馬くんを見ると、さすが人気者だと痛感する。


せめて今日プレイの約束があれば良かったのに。

とうとうやってきた放課後、また誰か他のクラスの女子と談笑しているらしい相馬くんの声を聞きながら私はため息をついた。


今日はもう無理かもな。買ってきたチョコレートは消費期限が今日というわけでもないし、明日の朝一番にでも来て机の中にでも忍ばせようか。

私はすっかり諦めて教室を後にした。今日は私も部活があるし、いつまでも粘るわけにはいかないからと心の中で言い訳をしてみる。


「渡せた?」


ばったり鉢合わせた文佳がニヤニヤしながら聞いてくる。楽しんでるでしょ。


「渡せてないです。文佳もさっさと体育館行きな」


「へいへい。明日聞かせてよね、せめて相手が誰なのかだけでも」


適当に返事をしてさっさと切り抜けたその時。

後ろから腕をぐいっと掴まれ、人気のない暗い空き教室へ放り込まれた。


「ひっ……何!誰!?」


後ろから抱きつかれ、引っ張られるようにして地べたにへたり込む。頭の上に顎が乗せられるし強い力で押さえ込まれるしで、逃げようにも逃げられない。


顔も見えないし声も出していないのに、どうしてだか犯人が分かってしまった。


「…相馬くん。これどういうつも――」


あろうことかシッ、とコマンドで遮られて口をつぐむ。命じられた通りにきちんと黙ったからか、“いい子”の言葉はなくとも律儀に頭を撫でられた。


壁を挟んだ廊下の方から、「相馬先輩この辺にいた気がしたんだけど」「見間違いじゃん、教室行こうよ」と女子の話し声が聞こえた。

みんなが探している相馬くんを自分が今独り占めしているのだと思うと、胸の奥がぞくぞくする。これが優越感というものなのだろうか。


「…行った、か」


相馬くんの呟く声が頭上から降ってきた。


「…後輩たちのところ行ってあげなよ、相馬先輩」


私が揶揄うようにそう言ってみれば、「それ本心?」と耳元で囁かれる。身体中の皮膚が粟立った。


「ねぇ二見さん、本命の人がいるの?それ僕じゃダメ?」


相馬くんは私の髪をそっとかき上げて、露わになった首元に吸い付いた。得体の知れない感覚に数秒間全身を強張らせている間に、ちゅ、と音を立てて唇が離れた。


「…待って相馬くん。今何したよ」


「え?キスマーク」


「何をいけしゃあしゃあとっ――ぅあ」


今度は刺すような痛みと熱さがうなじを突き抜ける。もしかして、噛まれ――


「痛い…相馬くん待って…」


クリスマスの日にもらった菫色のカラー。あれは普段相馬くんが所持して、プレイの日だけつけてもらう約束になった。今は無防備で首には何もつけていない。噛み跡を相馬くんの舌がなぞると、じくじくとしみた。


「…ごめんね、痛い?少し血の味する」


キスしたり舐めたりを繰り返す相馬くん。


「震えてる。可愛い」


「な……何かのお仕置き……?」


「違うよ。強いて言うなら…マーキング?」


相馬くんは「こっち向いて」と向かい合うと抱きしめ直して、頬を擦り寄せる。

心臓がバクバクして痛いくらいだった。こんなに身体を密着させていたら、激しい拍動が相馬くんに伝わってしまうかもしれない。顔も熱くてたまらないけれど、教室が暗いのがせめてもの救いだ。相馬くんに見えるまい。


「そうまくん…相馬くんに渡そうと思ったの」


私はすぐそばに放り出された私のカバンから、小さな紙袋を引っ張り出した。離してほしい意を込めて、肩をトントンと叩く。


「…僕に?」


「うん」


「本命?」


「違うよ、そういうのじゃなくて…」


言いながら、胸がズキリと痛んだのはきっと気のせいだ。


そういうのじゃない。本命じゃない。…好きじゃない、よね。

相馬くんは私と秘密を共有して救ってくれた優しいDomあるじだ。それ以上でもそれ以下でもない。今日だけで何度見かけたのか分からない、相馬くんに熱を上げる他の女の子たちとは違うはず。


その時、再び廊下の方から話し声が聞こえて私たちは顔を見合わせて黙った。


「えー、相馬?俺にじゃないの?」


よく通る楽しそうなその声は、中村くんだ。


「違うし、あんたにはさっき義理チョコあげたじゃん。どこ探してもいなくてさー。ユキ、知らない?」


「先に部活行ったんじゃん?」


「そっか!体育館」


二人の声が遠ざかってから、相馬くんが私を抱きしめる腕の力が緩んだ。


「二見さん、これありがとう。すごく嬉しい」


「…うん」


「…そろそろ行かなきゃね」


相馬くんは部活に行ったら、今の女の子からも本命チョコを貰うのだろうか。何人目だろう。見かける度に可愛い女の子ばっかりだったけど、相馬くんは心が揺れたりしないのかな。


それともチョコを貰いたい特定の人がいたり――?その可能性にやっと気がついて、恐る恐る尋ねた。


「そうまくん」


「ん?」


「好きな人、いないの?」


「えー?いるよ。三年…いや四年かな、片想い中」


それはまさに、稲妻が目の前に落ちたかのような衝撃だった。そういう噂を聞いたことはなかったから、微塵も考えたことがなかった。

けれど相馬くんだって普通の男子高校生だ。恋愛だってするに決まってる、なんでそんな当然のことに私は今更ショックを受けているんだろう。


「…この学校の、ひと?」


自分の声がみっともなく震えた。


「そうだよ。チョコ貰った」


返す言葉が見つからず、私は黙りこくった。


「って言っても義理なんだけどね。まぁそろそろ振り向いてくれるかなってところ」


「…そっか」


「応援してくれる?」


私は何も返さなかった。返せなかった。

応援なんてできるはずがない、と今やっと気づいた。


聞きたくない、と強く思った。

相馬くんが好きな人の話なんて聞きたくない。

理由は明々白々、私が相馬くんを好きだから。


遅いとかそういうレベルの話じゃない、数年片思いの相手がいる相馬くんに対して、ぽっと出の私が何かできるわけもなく。黙って遠巻きに見ているだけだ。

ごちゃごちゃしていた頭の中が突然すっきりと片付いた。


「私のは本命じゃないから」


重ねて念を押したのは相馬くんにだけじゃなくて、きっと自分に向けての言葉でもある。

何度も言わないでよ、と相馬くんは笑って私を解放した。


「二見さんも部活だよね。ごめんね、引き留めて」


私は頷いて、相馬くんと別れた。

本当に、相馬くんは何故私を引き留めたの。好きな人が他にいるならその必要もないし、キスしたり抱きしめてキスマークつけるのもどうかと思う。諦めているならまだしも、そろそろ振り向いてくれそうなら尚更良くない。


「二見先輩、こんちは〜」


「あ、鹿野かのさん。お菓子美味しかった、ありがとう」


「そりゃ良かったです。それより髪ぐっちゃぐちゃっすね、結んで差し上げましょうか」


「いい!平気!やめて!!」


「え?めっちゃ拒否するじゃないですか。何でよ」


怪訝そうな顔の後輩から距離を取って、首元をガードする。

相馬くんのつけたマーキングとやらはまだズキズキと痛くて、同時にこの学校のどこかにいる相馬くんの片想い相手への罪悪感で、心までキリキリと締め付けられた。

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