第17話 Kiss:キスして

「おいで、二見さん――」


そう優しく私を呼び寄せた相馬くんは、少し屈んで私に“Kiss”と命じる。私は恐る恐る目を閉じ、顔を寄せてコマンドを遂行する。


何でこうなった。私にもわからない。

ただ、あの一件を機に、二週に一度のプレイにこの珍妙なコマンドが加わった。

私がきちんと従うと、相馬くんは嬉しそうに微笑んで私の頭を撫で、首元の菫色のカラーをなぞる。私にとって慣れない“Kiss”のコマンドはハードルがとてつもなく高かった。そのせいか、言われた通りにそれをきちんとやり遂げ褒められるという一連の流れだけで、頭がくらくらする程に従属欲が満たされる。


「そうまくん」


「どうしたの」


相馬くんは私の頭を撫でながら返事をした。


「この借りは…どうやって返せばいいの」


「別に貸しを作ってる気はないけど。言ったでしょ、僕もこうして支配欲が満たされるんだから」


「でも、親切心じゃないって…」


飲酒した経験はないけど、酩酊感というのはこんな感じだろうなと思うふわふわした心地良さの中で、自分の声がやけに遠く聞こえた。頭がろくに働いていない状態で会話すると、何か変なことをうっかり喋りそうだ。


「何だ、そんなこと気にしてたの。忘れてくれていいよ」


「でも…」


「じゃあ、キスが二見さんからの見返りってことで」


「……相馬くんにとって、何の利益もないのでは」


「面白いこと言うね。今に分かるよ」


相馬くんの言葉の意味は、さっぱり分からなかった。――少なくともその時は。





約一ヶ月後。バレンタインデーがやってきた。


「あーもう、こんなイベント消えちまえ」


モテない男子みたいな物騒な発言をしたのは他でもない、文佳である。バレー部のマネージャーである文佳は今日のため、もう一人のマネと割り勘で全部員分のチョコレートを買ったらしい。スーパーに売ってるような安いお菓子とはいえ、四十人以上いる部員に配るともなれば手間も出費も地味に痛いだろうと思う。


「やっぱこういう意味のないイベントはさっさと断絶するべきなんだよね。私たち消費者がただ企業に踊らされてるだけ」


「まあねー。でも後輩ちゃんたちの手作りスイーツは美味しいんだよなぁ」


私は天文部の女子の後輩から貰った、ショコラマドレーヌを齧りながら言った。見た目も味も店に売っているものと遜色ない出来栄えで驚いたけど、彼女曰く普段は料理などサッパリらしい。ネットで調べて出てくるレシピ通りに作ればこれしき普通に作れますよなんて言われたけれど、器用なんだろうなと思う。


私はと言えば、バレンタインで手作りに腐心したのは小学生まで。レシピ通りのはずなのに上手くいったことなんてないし、中学に上がってこの手のイベントごとに関しては市販のもので済ませている。


「菫はもうその後輩とかには配ったの?」


「うん、朝休みのうちに一年生の後輩を一人捕まえて、まとめて任せておいた」


「え…後輩に面倒ごと押し付けるなんて酷い」


「バレー部と違って五人しかいませんから〜」


その時、他のクラスの女子から呼び出しを受けていたノアが教室へ戻ってきた。


「ふっふっふ……告白されちゃった」


「わ、すごいドヤ顔。腹立つ」


「顔と身長だけはいいからねぇ。中身がアレだけど」


「二人とも酷い!俺に何の恨みがあるのさ!」


ノアは不満げな顔をして椅子に腰を下ろす。その手には今貰ってきたらしい小さな紙袋――いわゆる本命チョコというやつだろう。


「――でも、断っちゃった」


「いつもそうだよね。保留して一考くらいすればいいのに」


「いーの、今の環境で十分楽しいしさ。それよりすーちゃん、もう本命には渡せたの?」


「ば……っ!!ノア、ちょ――」


「えぇーっ!?菫!私聞いてないけど!」


「語弊…っ!そういうのじゃないし、ってか文佳だけにはってあれほど!!」


この展開だけは是が非でも避けたかった。

他のみんなに配るのとは違う、ちゃんとした洋菓子屋で買ったチョコレートの紙袋。私の鞄に忍ばせてあったのを今朝、運悪くノアに見られてしまったのだ。

これはいつも迷惑をかけている相馬くんに渡そうと買ったものだけど、まさか本命とか好きとかそういう気持ちが込められている訳でもなく、だからノアには適当にお茶を濁しておいて誰にも――特に文佳だけには話すなと釘を刺した。が、口の軽いノアには通じなかった。薄々そんな予想はついていた。


「知ったからには詳しく聞かせてもらうわよ、覚悟しなさい菫。で、誰なのよ、先輩?後輩?同級生?」


「だから別に…」


「もしかして同じクラス?」


「や…違う」


「へぇ。誰に渡すの?二見さん」


「…っ!?」


突然の真後ろからの声に、私は驚きのあまり声にならない叫びを上げた。弾かれたように勢いよく振り返ると、ニコニコと微笑む相馬くん。彼は思い出したように付け加えた。


「後輩の子から呼び出し、って伝えに」


「あ、ああ…どうも」


出入り口の方に目を向けると、天文部の一年生の女子がこちらを伺っているのが見えた。私は逃げるようにして席を立ち、後輩の元へ向かった。


相馬くんはどの辺りから話を聞いていたんだろう。放課後までに渡そうと思っていたけれど、なんだかやりづらくなってしまった。

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