2-9節「暁月」
「―――適合率、65%―――」
―――不思議な方たちですね。
あどけなさの残る寝顔を眺めていると、不意にそんな思考が生まれた。古びた納屋の床に、分厚く積み重ねた干し藁をベッドにして熟睡する青年。髪は亜麻色、今は閉じられている瞳は深緑色。
対して、“あちら”は髪も瞳も漆黒。体格は、目の前で横向きになって眠る青年とまるで双子ででもあるかのように瓜二つ。
計画性・規則性の不足はすなわち、旺盛な好奇心や探求心の裏返しだ。ことに、黒髪の青年の発想力や行動力は、英雄としては大きく逸脱する所があるも、人間としての在り方に於いてはむしろ驚かされてばかりだった。
考えてみれば、そうでなくてはそもそもあんなことができるはずはないのだ。《ゼロ》の呪いの権化である《黒キ太陽》をわずかな可能性を紡ぎ合わせ、破壊してのける、などということが……。
と、眠る青年が、何の夢をみているのか左腕を大きく動かした。
また干渉が発生した……?有り得ない。非論理的だ。これではまるで二人の不規則性が伝染しているようではないか。
もう考えるのはやめよう。いますべきことは、同行し、見届けることだけ。英雄の歩みが辿り着く、その場所まで。
おっと、そろそろ“
私にはよく視えないが……たぶん“あれ”、似合ってないかな。
穏やかさ、落ち着き、安堵、それらの奥でほんの少し高鳴るのはきっと我々のアイデンティティだろうか。
―――まったく、不思議な方たちなんです。
再びそんなことを思いながら、右腕をそっと振り上げた。
浅いまどろみから解放された月光が、ゆっくりと瞼を持ち上げた。少し乱暴に揺さぶられた月光は、髪と同じ色の睫毛を小刻みに震わせてから、目の前を見ると、何者かに剣を振り下ろされる直前の光景が瞳に飛び込んできた。
「―――!?うわぁ!!」
途端、それが夢であったことに気が付く。自分に掛けれていた藁を摘み上げ、勢いよく上体を起こした。びっしょりの手汗を拭うための首の動作で、意識は完全に覚醒し、グリーンの瞳にようやく光が浮かぶ。
「…………ここは」
いちど強く瞬きすると、壁際の大きな木桶のある入り口から、眼鏡の少女が歩いてきた。
「あら……?月光指揮官!お目覚めになられたんですね」
まだ昇っていない朝日、薄暗い月明かりが差し込むなか、正面から二つの眼に射られる。月光はぴちくりと瞬きし、次いで微かな笑みを浮かべた。
「君は……ロストゼロのレイ……だね。もしかして僕を介抱してくれていたのかい?」
雨月
それはたぶん、記憶を持たない自分だからこその、同族嫌悪のようなものなのか―――無論、玲は記憶喪失ではなく月光とは出身も立場も異なるのだが、“張りついたような笑み”がどうしても人工的な仮面のように感じられて、また自分が周りによくする愛想笑いのようで気味が悪かった。
「僭越ながら♡といっても私も気が付いてまだ一時間ほどなのですが、たまたま近くにあったこの納屋が空いていたのでレンタルさせて戴きました。その上掛けもちょっぴし不格好ですが藁を集めて……風邪を引いてはいけませんので」
ニコッと微笑む、もちろん、月明かりだけでは前髪の根本からの宿主の顔は見えないが、玲のその悪戯っぽい表情はありありと推測できた。
「そっか……君はこんな緊急時でもすごいな、僕はまだ……頭が混乱してるよ」
言って、月光はそれでも現状を整理する。
錬金術士に襲撃を受けた際、列車内に大多数の候補生がいたため、彼らは同じ地点に堕ちてるはずだ。となれば散り散りのメンバーはあの時甲板に出ていたダイキらロストゼロとイシス、先頭車両にいた自分に加えカグヤとルナ、また各部隊の精鋭組もおのおのの指揮官や副所長をフォローしていたため列車から振り落とされている可能性は十分にあるだろう。
仮に、崩れた指揮系統を早期に回復する手段があるとしても、この不時着は機関側にとっても王国側にとっても予定外だ。最悪の場合は不法侵入として問題になるかもしれない。なぜならいまは王選の真っ最中……嵐の前兆のようにネメシスまで顕れているのだから、青龍軍にとっては大きな問題になる。
青龍軍、王室にとって機関は「救世主」であって「侵略者」でもある。機関の戦力抜きに恐ろしい異界の化物に立ち向かえたとは到底思えないし、そもそも演習名目の派遣の目的はネメシスの討伐なのだが、機関の内包する「戦力」は国家にとっても度外視できるものではないのだ。
金髪の房に隠れたまま、そんな思考を巡らせる間に、玲は夜靄を吸い込むと、誰にともなく言った。
「大丈夫です、私たちには英雄がいますから」
同時に月光に目を向け、またもや笑顔の表情を作る。
「君は本当にダイキが大好きなんだね…………、とにかく街道を辿って街に行き情報を集めよう」
小声の、しかし力のこもった言葉に、玲も紫紺の髪を揺らして深く頷いた。
「はいっ!若輩者ではありますが、よろしくお願いしますね」
誑かしにも感じられる彼女の台詞に、青年はうん、とだけ返すと代わりに淡く笑う。たった一言ずつ交わされていただけの会話だが、そこには興味深い情報が幾つも含まれている。
そして、二人の最終的な到達点―――《零》という名のそれはまだ遥かに遠く、あまりに儚い。
先に準備を終えた玲に呼ばれ、月光は慌てて駆け出した。その振動によって思考が中断し我に返る。月光の左手が動き、腰の辺りで片手剣の鞘を握るような仕草を、玲は眼鏡のレンズ越しにじっと見つめ続け、睫毛がゆるやかに伏せられ、唇で無音で何かを囁いていた。
***
「……、相変わらずここの空気は澱んでいるな。竜頭蛇尾とはまさに青龍のための言葉だ」
ユアン=リーは思わず呟いた。
王国軍駐屯地の地下通路は実用重視のため狭くて暗い。
すると、ユアンの隣を歩いている少女が声をかけてきた。彼と同じく錬金術士のリーゼロッテのものだ。両者ともクラウディアの証である白亜の法服を纏っている。
「ねえねえ、こんなゴミ溜めみたいなところに監禁してるっていうの?クサいしキモいんだけど」
「彼らには玉座を明け渡して貰う必要がある。『王選』は火をくべるための釜の役割に過ぎん」
「ぷぷ……にしてはユアン兄、やけに王室に固執してるように見えるんだけど……“まだ
軽口を叩く妹に、ユアンはシニカルな笑みでのみ応えた。そして一つの扉の前で立ち止まる。水分を吸って黒く重たくなった分厚い木の扉だ。
ユアンはイシスの槍技により左腕を失った状態のため、代わりにリーゼが扉に手を伸ばす。
ノックもせずに開けると、その先にあるのは五メートル四方のとても狭い小部屋だ。ここはまだ尋問室なので、青龍王国の多民族問題により発生する宗教裁判にありがちな拷問器具はない。ある物とはいえば、床に直接ボルトで固定されたテーブルを挟んで、同じく床に直留めしてある椅子が二つずつ設置されているくらいだ。
左側の椅子は剥き出しの粗相な板だけだ。おまけに肘掛けの部分にベルトや金具があり、人間を固定できるように作られている。対して向かって右の椅子には、クッションがついている。
その、右側の一脚には、ひとりの人間が拘束されていた。
呑み込まれていた、といった方が判りやすいか。
「ひゃだあああ!!食べられちゃう、たすけてええ!!」
「よちよち……ぼくはだあれ?……そう、私の赤ちゃん」
絶叫するのは、先日退任を発表したドラグノフ王の側近である大臣のマーロン。青龍王室の中では特殊なポジションであり、いわゆる重役である。
彼が座らされているのは普通の椅子ではない。先に女性がそこに座り、ぎゅっと太ももを閉じてそのまま上にマーロンを跨がらせ背後から抱きしめているのだ。対面ではなく、背後から、ぎゅっと抱き寄せる。
「うっわー、奈落ママの人間椅子……あいかわらずやられてるオスが可哀想になるんだけど……てかおっさん顔キモすぎっ!調教受けてるのに悦ぶとかマゾ豚じゃん、さっさと人間辞めれば~?」
リーゼロッテは左側の椅子に座りつつ、罵声を浴びせた。だが当人の大臣は体をビクンビクンと震わせ、ただ白目を向いている。そんな弛緩しきっている男を抱きしめさきほどよりも苛烈に、念入りに、身体中を細い指で這い回す。
「まあまあ……リーゼちゃんまた汚い言葉遣いして。それにママのこれは調教ではありません―――子育てです、ねぇぼく?」
その光景は、さながら母親が赤ちゃんをゆするようだ。泣きわめいている側がそれを生理的欲求のコミュニケーション手段としているのも同じだが、どうみても母性を燻る愛らしいものではなく、醜悪なオスの雄叫びによる痴態であることに兄妹は、
「……ママのあれ、絶対リーゼのよりエグいわ」
「お前の痛みによる支配ではなく母上は快楽による支配、まあどちらにせよ傀儡になる運命と思えば哀れなものだが」
六道一家の母親、《地獄》の紋章「イータ」を刻む『奈落』に呆れ果てたような声を放った。既に着席したリーゼロッテは多少手持ち無沙汰な感じ、傍らのユアンは奈落に固定された中年の男をじろりと睨みつける。
その視線を直接は受けていないリーゼロッテの方が怯んでいたが、当の奈落は気にも留めない。家族内の序列を把握しているためだろう。
娘からはママ、息子からは母上と呼ばれる女性は魔族めいた角や翼が付いている。常に糸目で微笑んでいるがその顔の裏にはどこか陰鬱で冷酷さが垣間見える、年増で妖艶な風貌の奈落。オフショルダーで露出した肩や、豊満な胸からは童話の魔女のようなイメージを受ける。
奈落は人間の脳を弄ることに長けており、いまのように圧倒的快楽を与え続けながらも、おあずけを適度に挟むことで廃人にしていく。彼女の柔らかい身体が、男に容赦なく押し付けられる。その体格差から、男の体が奈落に吸収されてしまっているかのように見えた。
まるで咀嚼、餌を与えないと生きていけない身体に開発され退行していき、やがて同一化する。それがイータの搦め手だ。
健康を害さない程度に、かつ精神を徹底的に削る。マーロン大臣の顔色は悪い。髪や肌の艶も吸われているようにパサパサとした質感に変化しつつあった。
「ぜぇぜぇ…………」
荒い呼吸を整える。だがユアンは不遜な態度を崩さず訊ねる。
「こちらが聞きたい事は分かっているな?……言え」
「ほーらぼくちゃん、おねんねはまだはやいですよ……錬金開始」
奈落はうっすらと笑い、ゾッとするほど酷薄に、耳許で囁く。その瞬間、マーロンの背後で女性が変態していく。本人はその仮定を視覚出来ていないが、今の奈落の姿は「蜘蛛」だった。
錬金術によって増やした腕を四本、計六本、三十の指が同時に男の胸を這っていく。カサカサカサ……触れるか触れないかの瀬戸際でさわさわと、絶妙のフェザータッチで、刺激する。
「ぬわぁああああんん!!!」
別に拷問の過程で死のうが知った事じゃない。
―――大臣の吐いた機密内情はこうだ。
ドラグノフ王と騎士団の《槍》の動きは駐屯地でも把握していてないらしい。どうやら俺達の暗躍に気がついた切れ者が、いち早く王を安全な場所に連れ出したようだった。恐らく王城で引き籠るつもりだろう。
そしてさらに、国王の遠縁にあたる“姫君”の存在。裏で評議会が擁立した次期王候補は「暁の末裔」と呼ばれる少女で、その名は『■■■■』という。……“あちら”で聞き飽きたせいで今の俺の耳には入れたくもなかったが。
王政を破棄して成り行きを小娘に委ねるとは、あの病弱なだけの前王も存外やるようだと俺―――ユアンはようやく興味を持ったように、眼球だけを動かしてじろりと大臣を見る。
「……憐れだな、誰が王になろうとも、青龍はもう終わりだ」
暫く沈黙が流れた。ユアンはその間に、思索に耽る。
人間は欺瞞で構築されている。表に出る正の感情行動には必ず裏がある。だが、負の感情、憎悪や殺意は偽りない真実なのだ。そこから生まれ落ちた成果こそ、“本物”である―――だからこそ、釜の底で相克させることで錬成される《アルスマグナ》に多様性の青龍はぴったりだ。
強者が弱者に適合する矛盾を破壊する、万物の霊長が進化の歩みを止めるのは有ってはならない。
「俺達の願いを成就する御業は掌の上にある、あとは空の鍋に贄をくべ、火にかけるだけ……」
兄の愉悦のにじむ笑みに、リーゼロッテは特に気負いもせず、面倒な作業を前にするような億劫そうな声を出す。
「ユアン兄の計画なら
言って、外に出ながら、最後に小さく呟いた。
「……それよりもあの機関の金髪女……玄武でリーゼに一度でも逆らったことをここで後悔させてやる……!あのツインテールを引きちぎってお尻にぶっ刺そうか、あっはぁ!!」
その言葉に反応したのは、奈落ではなくユアンだった。リーゼロッテのあっさりした妥協、むしろ本懐は個人的因縁だとばかりの態度に、ユアンは苛立ちげに、唾でも吐くようにして舌打ちした。
「糞ガキはお前だ、六道の恥さらしが」
一方、奈落は余裕の顔で、椅子の肘掛けから両手を伸ばし起き上がる。拘束から解除された男はもう、人間とは思えないくらいに酷い顔で、ばたりと地面に倒れてしまった。
「さぁて……私はジータちゃんとゼータちゃんを“修復”してきますね、《複眼》を通してお外の情報は共有させますから心配はいりませんよ」
彼女はユアンの顔を見て、続ける。
「ユアンちゃんのその左腕も、私が縫い直してあげましょうか」
「必要ありません。俺の力は“カルマの法則”……それに、二の腕を削ぎ落としたあの竜帝乙姫の槍からは修羅の素質が感じられました、次はぜひ俺と母上の用意した地獄の釜で溶け合うまで愉しみたいものです―――“死合”を。スパイスはそうだな……暁の娘が丁度いい……!!」
滑らかに唇を動かし、ユアンは隻腕のまま地下を後にした。
「―――、」
リーゼロッテもユアンも、幽谷狂善も、やはり兄弟。同じ事を考えている。そして、わずかにユアンの方が頭が良いだけなのだろう。
錬金術士の目的は明快で、唯一無二だ。
しかし、そこへセカイを至らせる創造や導き者は、六道一家のだれであっても問題はないのだ。
暗い尋問室に、奈落=イータの嘲笑がいつまでも響いた。
我々の世界は闇に包まれた。
崩壊は止まらない、月光だけが絶望を照らし出す。
しかし嘆くことはない、お前の思うがままに翔べばいい。
この世は揺らめく炎だ、その熱に身を委ね、激情とともに吼えろ。
そして、夜明け―――。
淡く輝く赤い光―――太陽を遠目に見ながら、『シャロン』は周囲には気づかれないほどささやかな吐息をこぼした。
美しい少女だった。腰まで届く朱色の髪、理知的な瞳、柔らかな面差しには艶と幼さが同居しており、どことなく感じさせる高貴さが危うげな魅力を生み出していた。
身長は百六十センチ後半。白を基調とした服装には華美な装飾はなく、シンプルさが逆にその存在感を際立たせる。唯一目立つのは彼女の羽織る蒼いコート。龍を象った刺繍が施されており、荘厳な印象を与える。
強い風が吹き、シャロンの赤い前髪が踊る。
その隙間から空を見上げ、すでに月の沈んだ央都の上空、太陽が浮かんでいる。
「夜明けの手を取り高く羽ばたく日まで―――安らぎの
昔、母が歌っていた子守唄を、シャロンは口ずさむ。切ない歌声が胸に響き、切実な想いが綴られた歌詞が、ひどく心に染み渡っていた。
「…………落ち着いて朝を迎えられるのは、今日が最期かもしれないな」
やがて、瞑目し囁いたそれは、彼女を見下ろす暁だけにしか届かなかった。
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