5節「暁闇」


夏至祭の翌日―――デリス大陸はかつてない緊張に晒される事となった。


白虎帝国時報の紙面に掲載された内容は、機関フロンティアのロビーに貼り出されており、それを見た候補生達の、信じられないような表情のざわめきは今朝から収まらない。



『青龍王国の中部にある要塞都市《士桜廟》が原因不明の異変により“消滅”―――完全なる荒野に。死傷者及び行方不明者の数は1万人を超える見込みか』



報道の一面はこれであった。


公式発表こそされていないが、異変をもたらした正体は浮遊型ネメシスであり、『メルクリヤ』と学会で命名された。外見は圧倒的な巨体の空翔ぶ鯨のようで、特殊性の口内に飲み込んだ物質をこの世界から“抹消”するという。


事実、山のように巨大な要塞が、まるでアイスのように巨大な球状にくり貫かれたような写真は青龍出身の生徒たちは勿論、他国の者たち、上官となる指揮官や職員を戦慄させるには十分すぎる程の絵面だった。


そして、そんな中、立て続けに王国より正式に発表された情報が以下の内容である。



『現青龍王アーデルハイト・フォン・ドラグノフ氏(61)、電撃辞任を表明!―――異界生物の侵略や外交の圧力に耐えられなかった?国家の舵取りを放棄して…………』


『…………王室は急遽、王選の開幕を決定。早期の次期青龍王の可能性は、候補者達がもたらす次は安定か混沌か。危うさばかりが目立つ青龍政界に国民からは厳しい指摘も、「このままでは国家が破綻してしまう」』



二つ事件の因果関係は現時点では憶測の域を出ないが、明らかな意図を感じれずにはいない。気が動転して悲鳴のような声を上げる王国の生徒もいるなかで、辻本や月光、カグヤにヴェナなどの指揮官も血相を変えており、とくにイシスは忙しくなく暇を告げて早足に立ち去っていた。それは青龍の王室親衛隊に真偽の確認をするためである。


辻本も魔導携帯端末COMMの外国との通信手段において使用許可をソフィアに取ってはすぐに、記者として活動しているシエラや狩猟団の荒井を中心に《零組》の人脈もつかって、渦中の青龍だけでなく、朱雀、玄武、白虎の対応について現状確認と情報交換をしていた。


そんな中、ロストゼロの6名の候補生。


各々どこか不安を押し隠すよう、そしてなによりアーシャを気にかけるようにして無言で立ち尽くしている―――。


「これが、アルテミス様の言ってた……?」


堪えきれずに朔夜がポツリと呟く。


そこでようやく緊張感が解けた少年少女たち。そして、まさに昨夜の夏至祭で女神が語っていた「意志」が、いま青龍王国を混沌とした状況にしていることを思い知った。


どうやら昨日の時点で少なくともここ帝国は、王国の異変についての情報は掴んでいたらしい。あの恐るべきネメシスの出現もだが、ドラグノフ王の突然の辞任に関しても。


「閣下自身の先見の明……それに月の虎や主戦派の情報収集能力……とんでもないな」


信じられないといった感じでオズ。


「多分だけどロランっていう宰相が関与してたんだと思う」


シャルロッテが深刻そうに頷いた。


一方メアラミスや玲も厳しい表情で黙り込み、アーシャは心ここに在らずといった様子である。今朝から王国方面では「打倒王室!」「野党の脅威に備えよ!」などのデモ活動が繰り広げられているらしく、家族がいるアーシャの胸中のなかの不安は計り知れないはずだ、と仲間達は窺う。


「……………………っぅ」


アーシャの唇が震えている。それは戸惑い、怖れ、または憤りか。


白虎人割合が最も多い機関で、況してやシャルロッテや朔夜の前でこのような事は口が裂けてもいえないが、民主主義を掲げる青龍王国は主義的にも覇権的にも経済的にも白虎とは相容れず、たとえばこの機会に朱雀、玄武と結託して王不在の青龍に侵攻してくる……そんな最悪のケースも考えれた。


現にそういった話までまことしやかに世間に流れている可能性もある。情報はメディアが取り上げずとも、いずれ噂という形で確実に広まるものであると、アーシャは重々理解していた。


「…………なにが、起こっているというのだ…………」


苛立たしげにアーシャが口を開く。そして荒々しく掌を握る。


「いや…………これから何が起ころうとしているのかを慎重に判断して見極めねば…………」


言い聞かせるように、焦燥の滲む咆哮を静かに上げた。



―――夏至祭直後の混乱。それでもなんとか平常通りの授業や訓練に戻った機関だが、午後のHRの時間、辻本は職員会議の場でを正式に依頼したことをロクサーヌ所長から伝えられた。


その翌日、白虎国は国外資産(青龍方面で)の凍結を声明。青龍経済は大混乱を来たし始めた。このままでは不渡りを出す企業が後を絶たず、大量の失業者が出かねないだろう。


中立的立場の《機関》を介入させつつ、対外的優位を常に構築する白虎、ひいてはアルテミス閣下やロラン宰相のやり方に今後ますます大陸が深刻な局面を迎えるのではないかと予感せざるを得ない指揮官たちであった。



次の日。講堂で七日間の「青龍演習」が行われることが候補生全員に言い渡された。


合わせて「王選」の情報や「視察団」の名目で月の虎の柱から三名が王国入りするなどが説明され、先月の玄武演習での一件も踏まえ、


「いざという時は機関一丸となって視察団の方々を守るのだ!」


と鼓舞するモーガン副所長。白虎軍憲兵からの出向という身分でどうしても帝国贔屓をしなくてはならない彼の心労を察する中で、辻本は担当部下のひとり、朱髪の娘の方を見た。


「青龍に…………私が…………」


複雑な心境の表情になったアーシャは、同国の知り合いであるイシスに目で問いかけ、微苦笑を浮かべるイシスがいた。



そして―――青龍の一報を受けてから三晩が経過した。


金曜日の夜19時。


四聖秩序機関のフロンティアに延長された貨物ホームには、玄武の遠征でも使用した魔術亜空間潜航特殊車両《インビジブル》が停車している。


前回よりもスムーズに物資の積み込みは完了し、人型有人兵器の魔導機甲兵などの格納を行う指揮官と候補生たち。


しばらくして集合した全機関員たちは部隊ごとに整列。こちらも前回同様にロクサーヌ所長とマノ姉妹が見送りに現れた。


いつもの儀式、軍隊式の挨拶のためだ。


「今回、そなたらが向かうのは戦国の地―――すでに王選は始まっている。その意味では機関はまさに四面楚歌のなか騒動に対処せねばならない、青龍軍および王室親衛隊が最大限に警戒しているらしいが…………何が起こっても不思議ではあるまい」


ニィと嗤って脅しをかける魔術王ロクサーヌ。


(シャレになってへんで……)


と左眼に眼帯をするヴェナ指揮官が肩を竦める。


「また《九尾》と呼ばれる九つの野党陣営、王の候補者たちの主張やイデオロギーをここでとやかく言うつもりもない。我々機関は政戦への参加が目的でなく、あくまでネメシス討伐こそ至上命題であることを忘れるな」


言葉に、イシス指揮官が心を研ぎ澄ますよう瞳を閉じる。


「大陸の至る所で導火線は燻っている、あとはきっかけさえあれば世界は揺れる。だが想定外の状況こそ人を大きく成長させる好機でもある事をそなたらはもう解っているはずだ」


所長の確認には、カグヤ指揮官、そして今回の演習では観察と研究のため、機関側と現地まで同行する手筈になっているルナ博士が、


(今回も所長は来て下さらないのですね……そういえば、ルナちゃんから所長に極秘依頼をされたとか)


(あぁ……閣下の使令でな。まさかこの流れを見越してという鎖に孔雀を繋いだ……?いや、考えすぎか……)


囁きで疑念を溢しかけだが、女神への忠誠心が勝り呑み込んでいた。


「人事を尽くして天命を待ち、事変にあっては大いに狼狽え、足掻くがよい。―――革命の暁に、己の存在証明を掲げよ!」


語気を強めて言い放たれた檄を聞いて、ようやく気を引き締める若者たち。ここまで奇妙に静かだった候補生アーシャ、さらには指揮官月光もその激励は不思議と胸に響き、力強く頷く。



その後。全ての準備を完了して出発したインビジブル。


実家の特別列車を見送ったロクサーヌは、獰猛に微笑んだ。


「……やや、所長ってばいつも以上に悪い顔してますねぇ。でも大荒れ必至の青龍でどれだけ生きて戻れることやら☆」


職員アネットが無邪気に冗談めかすと、


「フフ、獅子は我が子を千尋の谷にともいう。それに本来ならば私が着いていかねばならないレベルの事態だったのだがね」


改めるロクサーヌに、釘を刺すよう、


「例の会場の建設、どうされるおつもりですか?ちなみにバックレは無しです」


ソフィアが冷静に告げた。ロクサーヌは一呼吸置いた後に。


「―――形だけであれば二日もあれば。魔術の展開でさらに三日……微調整に一日で……これならばギリギリ…………」


「むむ?」


とアネットが所長の顔を覗き込む。


不穏に微笑みつつ踵を返したロクサーヌは、絢爛な装飾が施された灰色のコートを靡かせ足取り早めながら、カッと金眼を見開いた。銀灰の髪が滝のように舞い広がり、「覇王」のごとき凄惨な魔力を魅せている。


「アネット、ソフィア、人を集めろ。早速取りかかるぞ」


喜悦を漏らしつつ立ち去った機関の所長に、マノ姉妹は唖然と顔を見合わせては、それでも涼しげな秘書のように付き従うのであった。




到着地点を青龍王国中部にある都市に定めて、特別列車は虚数空間を疾走していた。


二度目になる乗車だが、相変わらず今自分達が何処をどう経由して進んでいるのかは分からない。感覚ではひたすらトンネルを抜けて行っているものに近いのは同じだ。


朱雀の魔術家筆頭クラリスが開発した、現実空間の狭間にある魔術的虚数空間に事象干渉した転送装置―――インビジブルの内装や仕組みを一通り見て回っていた科学派ルナ=ウィズダム博士は、魔術王の生み出した“無限”の魔力機構に、どこか不愉快でつまらなさそうであった。



列車内「エントランスホール」で、明日からの活動を前に生徒たちが思い思いに過ごしていた。


その間、各部隊の指揮官と副所長はブリーフィング室に集合して、今回の実習地が青龍王国ということで、モーガンが概要を説明し、王室親衛隊からの出向となるイシスが補足する流れを執っていた。


現在、青龍の要所は王国軍によって「国境」のカバーをされているという。だが完璧な水際対策というわけではないようで、他国や狩猟団による諜報活動・破壊工作、《アンセリオン》や《クラウディア》のような未知の勢力もだが、此度の王選という状況下で最も危惧されているのが―――


「《九尾きゅうび》。青龍を牛耳る九人の代表者、野党の総称だ」


壁に埋め込まれた巨大テレビモニタに情報を映し出し、それを見てイシスが静かに告げる。


「中でも反王政勢力「辰組」と古王蘭クルアーンと呼ばれる王家の谷を占領している「女帝派」が近年で台頭してきている。つまり今回の演習、最大の敵はにある……王国の軍人としては恥ずべき事だが……」


姉弟子のどことなく物憂げな表情と、引き結んだ唇から時折、疲れたような溜め息が漏れることを辻本はこの数日間で何度も目にしていた。


(……俺たちロストゼロの特務活動による広域哨戒の意義も前回より高くなりそうだ。昔からずっと師姉には支えて貰ってきたからこそ、こういう局面で恩を返さないとな)


概要を了解しながら、辻本は気遣うような素振りを見せる。他の指揮官たちもそれは同様であった。が、ここでモーガンがいつにも増して厳粛な表情でイシスに向き直る。


「イシス指揮官。判っているとは思うが……」


「ああ、《騎士団の槍》としての使命もだが、何よりは機関《ファースト・ワン》の指揮官として力は振るう。心配せずともそのくらいは弁えている」


釘を刺されるも、肩を竦めては涼やかに返した。


どうやら機関の要請の“王選への不干渉”による行動の制限は、青龍出向の将軍イシスにも付くようであった。


この扱いに彼女本人も当然だと納得しているようだったので、実質機関の最高位になる白虎サイドのカグヤも余計な口出しはせずだった。そして、演習予定の細かな概要と段取りが語られ、青龍王国軍から正式に、との要請も確認した上で、


「正直、今の青龍ほど危険な国はないくらいだ。王座を巡る戦い―――これは大陸を巻き込む大きな“嵐”になるぞ」


と、言い残してイシスは退出してゆく。


モーガンとヴェナもこれから、ルナと合流して、採取した彼岸花サンプルの解析とネメシスの対策を練るための準備にかかるため、作戦室を急ぎ気味で去った。


残された辻本、そしてツインズオウル指揮官の月光とカグヤ。


「ふぅ…………イシスさん、やはりあのニュース以来、どこか落ち着きがないですわね……」


カグヤの悩ましげな言葉に、辻本が頷く。


「ええ、あの人の事ですから演習に支障をきたしたりは絶対にしないでしょうが……それでも心配だな」


デリス四大国が新設されたばかりの機関の特命を受けて、英雄や名うての軍人らを、指揮官や職員として召集したのが三月が終わる直前のこと。


つまり自分たちが白虎に来てから、まだ二ヶ月余りしか経っていない。そんなわずかな期間に、候補生ともども何度も死線を潜ってきたという事実に、辻本は今さらながら奇妙な縁を実感する。その中で生まれた、確かな絆が身に染みてあったのだ。


「………………」


「……月光、大丈夫か?ずっと静かじゃないか」


先程の会議から同じ空間にいながらも、殆ど何も喋らずにいた金髪の指揮官、同僚の月光に声を掛ける。普段ならば誰よりも他者を気遣う優男であるのに、いまはイシスの話題よりも自分の内心を優先しているように思えた。


「あ、あぁ、ゴメン。なんか……この列車に乗るたびにさ……」


月光の淀んだ瞳の理由は、前回の玄武演習の時にも話していた頭痛のせいである。彼はどうにか抑えようとしているのだが、特別列車の振動に合わせて伝わってくる微妙な魔力の刺激が、けっこう辛いと言う。


このクラリス家製のインビジブル。そのチート性能をもって異空間移動を可能にしている反面、目標座標と現実認知の誤差のため、嘔吐や目眩といった症状を起こしてしまう場合があるという欠点も。その辺りは一般的な乗り物酔いに近く、どうしても生まれながらの体質が影響する。


しかし、ここまでの反応を示すのは月光くらいだった。


「……そういえばずっと聞きそびれていたんだが。月光、お前夏至祭の時にひとり怪しく歩き回っていたよな」


「妙に人目を忍んでいたように見えたが、まさか恋人と会っていたんじゃないか?」


辻本は月光に気を紛らわせてもらうためあえて大袈裟なニヤけ顔を装って、その裏で彼の不可解な行動の深意を探った。となりでカグヤが赤面しているのは多分、同僚の月光に、そのような逢い引き相手がいたなんて! と無意識に変な想像を掻き立てているからか。


月光は、そんな黒髪の青年、同期なのに遥か高みにいる朱雀の英雄に、もっと大袈裟なため息をお返しすると、


「本当に君は、よく人を観察しているというか」


「実はロクサーヌ所長に呼び出されてね、ちょっとした検査を受けていたんだ。ほら、僕が記憶に関することで、一月前くらいから所長と相談していたのはダイキも知ってるだろう?」


ささやかな疑問の答えを口にした。


記憶喪失。月光が機関に来る前の過去をすべて失っていることは以前、まさしくこの列車内で告白してくれていた。それまではありふれた高等学生としての日常を過ごしていたのか、それとも白虎帝国軍剣士としての英才教育を受けてきたのか。


無論、現在の職に至るまでの経歴で張り合うつもりはさらさら無かった辻本は、ふむ、と月光の説明を素直に聞いた。


「……君の《英雄》としての功績と比べれば、僕の昔なんて、全然大したことないから気にしなくていいよ」


なのに彼は、そんな辻本をじっと紺碧の瞳で見つめ、他人事のような真顔で訴えてくる。


「月光……」


不安そうに呟く辻本に、月光はチャリン、と鞘に納められた剣を鍔に指をかけ弾いては、剣士たる強い想いを胸に断言した。


。ほら、ちゃんと大事な事は覚えてる。君のクサい台詞は僕の脳にとっくに刻まれちゃったみたいだ」


その言葉で、辻本は心を打たれたようにしばらく固まるも所在なげに黒髪を掻きながら、黒い瞳を向けた。


「ああ、忘れさせるもんか。明日からの青龍演習も必ず為し遂げてやろう!」


言って、月光の鳴らした音の後を追うように、左腰に差してある太刀をわずかに抜いては、リーンと音を立てた。


二人をここまで運命的に導いた、誓いを乗せた剣たちが傍らにある限り、僕たちは決して挫けることはない。


「うん。そうだね、ダイキ!」


一抹の疑いもなく、月光はそう信じた。


「ふふ、お二人を見ていますと新生零組だった時のレオさんやキリトさんを思い出してしまいますわね」


不意に、零組というワードを入れたカグヤの呟きが至近距離で発せられた。艶やかな唇が形つくる笑みは、青年同士の世界に浸ってしまっていた二人を、はっと引き戻した。


「はは……実はすでに王国には元零組が数名いまして、ケンタロウやフローラさん、それから」


辻本はそのままの流れで、零組メンバーの動向についてカグヤと盛り上がるなかで、月光がそれを聴きながらグリーンの瞳をしばらく窓の外―――広がる漆黒の夜空を思わせる景色を見つめると、無自覚にぽつりと零れた言の葉。


「…………ゼロ組か、みんな元気にしてるといいな」


―――ってあれ……僕ってば、なにを言っているんだ…………。


分厚いガラスに反射した、驚愕する自分を瞳に映す月光は食い入るように向こう側を見つめていた。正確には、彼がひたすら探し求める一人の青年を。


月光は発した独白に、大いに戸惑いつつ、その事象は脳にちくりと鋭い痛みをもたらした。深呼吸でそれを呑み下し、今度はガラスに背中を預け向き直り、零の重心の青年へ、強い感情をこもった眼差しを注ぐ。


(……僕が知ってるのは、一月前の玄武演習で出逢った5人だけのはず。なのにどうしていま、僕の記憶に“全員”が……)


本当に、わからないことだらけだ。まだまだ、この世界には。


僕の正体は何者で、一体何のために生きているのだろうか。





その夜、辻本は久しぶりにあの頃の―――なにも知らない、アルテマ軍学校に入学したばかりだった頃の夢を見ていた。




「―――適合率、58%―――」

 



機械的無機質な声に、月光が薄く眼を開けると、暗闇のなか、ベッドの傍らに長身で筋肉質な男の影と、長髪で玲瓏な佇まいの女の影が立っているのが見えた気がした。


「…………ううーん…………まだ夜中だよ…………」


寝惚けながら呟き、月光はもう一度瞼を閉じた。かすかに空気が動き、硬い足音が遠ざかり、ドアの開閉音がそれに続く。


 再度の眠りの淵に落ちていく、その直前に―――。


「―――誰だ!!?」


月光は息を詰めながら飛び起きた。心地よい微睡みは一瞬で消え去り、心臓が早鐘のように喚いている。どこまでが夢で、どこからがうつつなのか、とっさに判断が出来なかった。手探りでリモコンを探し、部屋の照明を点ける。


六号車の指揮官用客室は個室だった。また月光に割り当てられたこの部屋は窓のない船室、しかし空気中にかすかに何者かの残り香が漂っているのを感じた。


(……違う、これは廊下だ。四号車のラウンジ側……もっと前!)


ベッドから飛び降りると、壁に掛けていた紫夜の剣をベルトに装備して、ドアまで駆け寄る。操作パネルをもどかしく叩き、ロックを外すと、スライドしたドアの隙間から通路に走り出た。


すでに消灯時刻は過ぎているため、オレンジの薄暗い照明のみに照らされた列車通路と各車両区画は、右も左も、視界に入る限りどこまでも無人だった。


(候補生の皆も、ダイキ達も寝ている……僕の勘違い……?)


そう思ったが、しかし耳の底には確かに謎の声の残響が漂っていた。


無意識のうちに駆けるスピードは速くなり、月光は左手で、先ほど武装した剣のしまわれた鞘を強く握り締める。闇夜に輝く剣は、まるでそれ自体が冷気を放っているかのように、ほんの少し掌を凍てつかせた。


 そして、第四車両のラウンジ、食堂と併設された広間に辿り着くと、そこにはある指揮官とある候補生が、蝋燭に火だけを灯りにして、神妙な面持ちで、最低限の声量で、話していた。


「…………なぜ……のタイミングで……が」


「……信じるしかない。ああ、陛下も、そして……様も私が命を賭して御守りする……フッ、いまはそうであったな」


そこに、はぁはぁ、と息を荒げる月光が現れて、射貫くような視線で、


「!……月光か、一体どうしたというのだこのような時間に」


イシスがきびきびとした口調で訊ねてくる。


「イシスさん……それに君は、ロストゼロのアーシャ」


月光は反対になぜ二人が就寝時刻を過ぎてもここに?と質問を質問で返しかけるも、それどころじゃないと自分に言い聞かせかぶりを振っては、逼迫した状況を伝える。


「あのっ!あっちの方から何かを感じませんか!?」


指差したのは先頭車両。しかし武術の才に恵まれたアーシャにも、風読みの探知を得手とするはずのイシスにも、特に異変は見受けられないようであった。



―――だが、抱いていた違和感は間違いではなかった。


第一車両・機関車制御室。そこに至るまでの通路に点在するやけに分厚いドアの前で、“白基調の法衣姿の二人組”がいた。


その内のひとりが、「錬金術」によって人差し指をフックピック状に変形させ、ドア脇のスリットに差し込み、そのまま内部を弄るようにセンサーとおぼしきパネルを強引に押し当てた。約一秒後、ドアは破錠による誤作動で軽いモーター音とともにスライドし、インビジブル中枢部への入り口が開く。


「……ん?どなたでしょうか?」


機関所属の車掌は、かん、かんと後ろで響くヒールの足音を意識して振り返った。


「ハァイ。あたし、六道一家にお仕えするゼータでーす♡」


「わたし……シータですぅ、夜勤お疲れ様ですぅ……♡」


中等部生くらいだろうか。薄茶髪の少女が二人、全身で男を誘うようなポージングをどや顔できめている。簡素な白い服は修道服によく似ており、それが件の「錬金術士集団クラウディア」であることは、明白であった。


瞳の紫は、何かを暗示するような深い闇に包まれており、車掌は完全に動けなくなってしまう。


小さな頭がふたつ、四つの瞳がじっと凝視する。


「ひぃ……!」


ふと気がつけば、二人は両隣にいた。左右の耳許で、不意打ち気味に、くすぐるように囁かれる。


「「ねえ、この列車をぶっ壊す遊び、していいですかぁ?」」

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