4節「《女神》はかく語りき」

どうしたの?


怖い夢でも見た……?


……おいで、そこは寒いでしょう。




―――優しげな声で気が付くと、ぱぱっ、と柔らかい音を立てて光が灯された。


先刻までいた僧院の内部、女神の寝所めいた場所ではなく、まるで宇宙空間をイメージさせる無限の光景が広がっている。月や太陽を含めた数多の天体も、大陸も、大気圏も、いずれにも属さずそれでいて支配している異端空間に、辻本はいた。


(ッ…………なんだ、ここは)


俺は痺れるような感覚と、それを倍にする渇望めいた空虚に翻弄されながら、懸命にしがみつくよう周囲を見渡す。




これこそが私の領域《テレサ》。


私があなたを愛してあげる。だからあなたも私を愛して?


悲しいことも何もかも忘れて、私を貪り尽くして……?


私だけを信じ全てを捧げると念じながら、いっらっしゃい。




伝えてくる命令は、鋼鉄の鞭のように厳烈ないっぽうで、最上の蜂蜜のように甘美だった。その蜜を舐めてしまえばもう二度と自分を取り戻せずに、やがて魂すらも失うだろう。


(…………ロストゼロ、俺の教え子たちは!)


そこでようやく、同じ場所にいたはずの彼らの姿がないことに疑問を抱いた。




ウフフ。おかしな子ですね。


みんな、お前が殺してしまったじゃないの。“深紅の執行者”。




突然、掌にぬるりと嫌に滑った。


俺は、目の前に持ち上げた左右の手を広げる。


暗闇の中なのに、十本の指からぽたぽたと粘っこく滴る真っ赤な血がはっきりと見えてしまう。


(な…………うぁぁぁあああ!!!!)


絶叫とともに、辻本はべたつく両手を、無我夢中で上着、深紅色のコートに擦りつける。悲鳴を上げながら何度も何度も拭ったところで、自分の手を濡らしていたのが、血ではなくただの汗であったことに気付けた。着ていた服装も指揮官用の灰色のコートに戻っている。


夢、いいや……いまのは俺自身の罪を見ていたのだ―――と思い至っても、早鐘のよう鳴り響く心臓も、滲み出る脂汁もしばらく収まってはくれなかった。とてつもなく恐ろしい夢の余韻が、いつまでも背中に冷たく貼り付いている。


怖い夢…………。


(…………この言葉をどこかで聴いたことがあるような、誰かにおいでと呼ばれていたような…………)


胸の中でそう呟き、きつく両眼を凝らす。また声がした。




可哀想な坊や。愛を知らない憐れな《英雄》。




《女神》が巨大な「弓形」にも視えるベッドの上で、まっすぐ伸ばしていた両脚を、揃えて右に折る。細い体の重心を傾け、左手をついて支える。


そのグラビアのよう艶かしい姿勢のまま、女性はまっすぐに辻本を見た。月色の燐光に縁取られた、純銀の瞳。不可視の力に引かれるように靡く長い銀の髪。そのどちらもとつてつもなく美しいが、万華鏡のように全てを反射し心の奥を一切覗かせない。


何という造形美の完璧さだろう。もはや人とも思えない。


辻本は目の前の女性に視線を落とすと、再びねっとりとした重い眠気のようなものが頭に忍び込んでくる。純銀を鋳溶いとかした容貌、薄闇の銀河の蒼と月光の白を映して、冷たく煌めく淡い紫の女体。


(………………執行者………………英雄………………俺は……………………)


ぼんやりとした表情で眺めていると、女性の艶やかな真珠色の唇が妖美に動いた。蜂蜜のように甘く、水晶のように清らかな中に、ひと垂らしの艶めかしさを持つ声が、囁いた。




私の愛で縛ってあげましょう。




無垢なる清廉さと、触れれば溶ける危うさを等しく孕んだ、聞く者の心をかき乱す響き。


女神は焦らすようにゆっくりと、《テレサ》の領域に心の深奥に魔力を注いだ。その微動で胸のふたつの膨らみが、熟れた果実のように柔らかく弾む。蕩けるような微笑を浮かべる。


漆黒の緞帳が幾重にも織り成す空間に立つ辻本に、じり、じりと複数の鎖や枷が生物のよう這いずり始める。濃密な甘い香りを放つ蜜の泉に呼び寄せるように、超然とした渇きを与える。


(いきたい…………いきたい………………いくな…………いきたい…………)


一欠片だけ残された理性も堕ちようとしたその瞬間。




ウチの前で、ダイキくんに手出しはさせない!




重く痺れる頭の片隅で、泥沼に浮き上がる泡にも似た、何かがぷちりと弾ける。


女神の世界を、鬼が刹す―――。


「ぁ…………!」


自分の口から零れた吐息が、なによりも、ずっと遠くで叫んでくれた「相棒」の声が、俺の意識を覚醒させた。小さな火花が頭の芯で弾け、意識を包み込む濃密な霧を払った。


辻本は両眼を見開き、反射的に鞘から黄昏の太刀を引き抜いた。


「うおおおおおぉ!!!!!」


自分の不甲斐なさに怒りが満ちた声で叫びつつ、這い寄る鎖を思い切り一閃する。紅色の刀身が陽炎のように揺れ、完全支配された女神の世界からの意識離脱に成功した。




「…………はッ!?」


甦る思考力と現実、自分の置かれた状況を確認するため辻本は左右と後ろに首を振った。


「し、指揮官?」


「顔色が悪そうですが……」


後方で不安げにこちらを眺めるシャルロッテとオズの声。どうやら篭絡のイメージを脳に与えられていたのは自分だけだったようだと、苦悩の表情のなかに安堵を滲ませる。


しかしそれでも、直火で炙られていたかよように未だじりじりと疼く左胸、大粒の汗が額や首筋にとめどなく流れ、荒い呼吸を繰り返していると、


「手、まだ繋いでてほしい?」


「え……?」


掠れた声で視線を落とすと、メアラミスが辻本の手をしっかりと握り、やや顔を蒼ざめさせてこちらを見上げていた。


(そうか、この子が干渉してくれたんだな。)


その表情は幼いながらも、台詞は完全に包容や庇護を感じさせる印象があり、ついつい甘えたくなったのだが、そんな場合ではないと思い直す。


「いや、もう平気だ」


ぎこちなく離した右手で、隣にいる相棒に軽く合図してから、後方にいる教え子たちにも頷いてみせた。


その視線のながれの最中、右斜め後ろの位置にいた玲の眼鏡に、月の光が反射して写ったように感じた。


(…………あれが虎達の飼主、月の女神ですか…………)


心中で呟かれた独白。


クスクス。


ひそやかな笑いの混じる甘い声が、かき消した。


「―――愛。それが引き出す力の片鱗はどうでした?侵略国家の主が愛なんて語るな……そんな意地悪はいわないでね」


ベッドの上から、すたり、と素足で降りたアルテミス閣下が、薄紫の絹の寝巻きの胸元を止めるリボンを思わせぶりに弄りながら、ロストゼロに語りかけてくる。


「どんな高潔な存在であろうと人の行動の原動力は愛だけじゃない……月の光で陰が生まれるように、愛の裏側には憎しみという感情があると思うの」


ひたひたと歩きながら、蜜をたっぷりと含んだ芳香を放つ女神が銀の髪と瞳を艶やかに煌めかせつづける。


「世界平和を願うのは愛だけかしら?いいえ、戦争を憎むということ、怒りのエネルギーも欠けてはならない。」


何を言っているのか、理解するのにしばらく時間がかかった。辻本たちは一様に眉を寄せ、不思議な言葉の深意を理解しようとする。女神の言葉には、何かしら心に突き刺さる棘のような痛みを呼び起こすものがあった。


「……フフフ。面白い人材が揃っているようですね」


アルテミスは少年少女を、そして彼らを導く英雄にも、労うような口調で言った。国家間の垣根を越えて全土で活動する四聖秩序機関の特務部隊に、すなわちロストゼロの7名。


「シャルロッテちゃん、朔夜くん、アーシャちゃん、オズくん、レイちゃん、メアラミスちゃん」


候補生たちの名前を順々に言いながら、銀糸を編んだリボンの端をしなやかな指先でつまみ、少しずつ引っ張っていく。


「そして、辻本ダイキくん」


最後に指揮官を呼ぶとともに、広い襟くぐりから半ば以上露になった白い膨らみが、誘うように揺れる。


「少しの間、お茶会に付き合っていただきましょう」


その囁きは、聖母の声のようでも、狩人のようでもあった。




※※※




古びた寺院の中とは思えない程に豪華絢爛な間取りの部屋。面積的にはそこまでだが、装飾的には贅を尽くした設計だと改めて感じる。


アルテミスは寝巻きの上からカーディガンを肩に羽織って、L字のソファーに腰掛けるロストゼロとは独立した、こちらもかなり高価そうな椅子に座した。


「…………それで、アルテミス閣下。お話というのは」


女神の席に最も近い位置で辻本が目を視て訊ねる。一方隣にいるメアラミス以下、オズ、シャルロッテ、朔夜、そして位置的には閣下と対面になる玲、アーシャは眼を合わせれずにいた。


だが、鏡の双眸は有無を言わせぬ力で少年少女の視線を吸い寄せる。自らの内面を窺わせず、しかしそれを覗こうとする者の考えを統べて、見透かすような瞳が妖しく輝く。


「どうやらあたしたち《ロストゼロ》については大抵のことは知ってるみたいですけど……?機関のことならロクサーヌ所長と話せばいいんじゃ?」


シャルロッテが口を開く。いつもの威勢のいい声までとはいかなかったが、こういう場面でも臆面しない性格は本当に助けられているな、と部隊全員が感心した。


「私はただ簡単なおしゃべり、意識調査のようなものがしたいだけなの。クラリス嬢でないのは単純に若者の視点に興味があるだけ……」


永遠とも思える数秒の果て、閣下は小さく唇を動かす。超越的な美貌と、全智を見透かす瞳でじっと見詰め、囁いた。


「直裁に問いましょう―――キミたちはこの先、デリスはと思う?」


刹那の沈黙のあとの質問に、一同は驚愕した。


「な……!?」


「…………まぁ、また随分と露骨な内容ですね、アルテミス様」


鋭く息を呑み込んだ辻本、短く喘いでしまう部下たち、そのなかで玲が瞼を懸命に持ち上げ、氷点下の冷気に包まれたかのような声質で反応する。


「ごめんねレイちゃん。でも他意はないのです」


「栄枯盛衰は歴史の常、滅びなかった国は存在しないわ。ましてや《深紅の零》によって「外界」と繋がり、あらゆるものがこの時代」


「この世界は、どこまで現状を維持していられるかしら?」


まるで式句を唱えるような口調で、女神は語り、尋ねる。


「貴女は……」


「な、なにを言って……」


辻本に遅れて、オズが続いた。半年前、朱雀聖都の内戦の渦中に引き起こされた天災について触れた白虎首脳。当然、そこに至るまでの、またその戦いの仔細は生徒達は知らない。


たが、いま、この瞬間、無防備に素肌を晒しているアルテミスの突き刺すような言葉に、辻本は確信する。


のだと―――。


「…………フフ、明らかに危険な方向に大陸の舵を切ろうとしている白虎帝国の総帥本人が言うのもなんだけど、ロラン宰相の政治手腕は完璧です。彼は彼の誇りを賭け、よくやってくれているもの。それは彼に確かな“意志”があるため」


「では我々白虎人は生来、侵略を好む残虐な気質を持っているのでしょうか?いいえ、質実剛健で生真面目、誇りを重んじる気質、武を尊ぶもいたずらにそれを振り回さない美徳もある」


「そのような人の可能性と……愚かさ、それらがデリス大陸でぶつかりあった時、果たして?」


「小さな意志はより大きな意志に呑み込まれ、その火勢をより大きくする。そうして生まれた業火が地上にいくつも放たれたとき、あらゆる正義と倫理は灼熱に溶けるのみ―――そんな光景が簡単に幻視できなくて?」


 女神の演説が、7人の心を揺らし、認識を狂わせる。


歪み、眩暈さえ起こさせるほどのイメージ。


女神の薄い笑みには、いかなる感情も能わない。


「ぅぅ……!女神様……それはあまりに……」


全身にのしかかる威圧感に耐えて、朔夜が声を漏らす。明白な宣戦布告。これがもしデリス四ヶ国の首脳が集う席ならばそう受け取られ剣呑な雰囲気にさせても仕方無い程の過激な発言であると。


しかし脅しではあるまい。やると決めれば、アルテミス閣下や主戦派は躊躇いなく実行するだろう。それは朔夜とおなじ帝国民のシャルロッテは無論、他国の生まれの者でも解っていた。


その時。


「……………………敗けない……………………私たち朱雀はッッ」


玲が激しくかぶりを振って、胸中に込み上げてくる感情を押し殺せずそう叫ぼうとした、まさにその瞬間―――。


「たしかに。…………連合軍という呈で三国から戦力を根こそぎ奪いとった機関の総本山たる白虎国と比べたら、今の周辺国は小さな意志なのかもしれませんね」


玲の代わりに辻本が静かに言う。


「…………先、輩………………」


玲らしくない感情を剥き出しにした、彼女の思考をせめて鎮静する助けになればと玲の瞳に笑みを送ってから、数秒間の苦慮を経て言葉を続けた。


「ですが……たとえ大きな意志であろうが、俺たちだって簡単に呑まれるつもりはありません―――幾度となくそちらの侵略を退けた国家の、人どうしの、「絆の強さ」がある限りは!」


女神の青い炎の如き視線を受け止めながら、英雄は言い切る。


「辻本指揮官…………あははっ」


「絆の強さ、ですか。フッ…………」


指揮官の言葉に何がしののものを感じて、朔夜やオズが瞳の奥に光を宿らせた。また今度はアルテミスも、彼らの言葉に数秒間の逡巡してから、仄かに微笑んだ。


「ウフフ……ええ解っています。朱雀、また玄武の民にはその強さがある。《炎》や《盾》、それらは白虎の大きくも乱れた《牙》に打ち克つだけのね」


嘲笑を含んだ声で、ロストゼロの光を厭うように両眼を細め、冷ややかさを増した声で言う。その双眸は対面に座るアーシャに向けられていた。


「ですが―――青龍はどうでしょうか、アーシャちゃん。様々な民族の移民を受け入れ拡大し続けてきた元自治州、そのような多文化主義かつ王政国家の龍國程度に、果たして白虎ほどの誇りと意志や彼の言う絆の強さは、……在るのかしら?」


「っ…………それは…………」


アーシャの口から、掠れ声が低く零れた。


「………………ある…………私の故郷にも…………あって………………」


半ば自分に向けて発せられたような呟きのアーシャ。


「少なくとも俺たちは、アーシャやイシス指揮官、青龍出身の候補生たちの気高さは知っているつもりです!」


真っ直ぐな声の辻本に、


「そうよ!アーシャ姉なんて指揮官より頼りになるもん!」


「ん、それに関してはウチも同意見、アーシャは安心できる」


「たまにダイキ先輩の方が年下に見えちゃいますよね♡」


今度は女性陣が負けん気を奮い立たせつつシャルロッテとメアラミス、続いて玲も普段の調子で応えた。辻本が「こらっ」と突っ込もうとするも、流石にアルテミスの前なので遠慮する。


「………………すまぬ」


仲間たちの懸命のフォローで、アーシャは未だ全身を刺し貫くような月の冷気に耐えながら、かろうじで動く口で哀切の笑みを滲ませたまま、短く感謝を伝えた。


「フフフ、そうですか。いいですわ《ロスト・ゼロ》―――四聖秩序機関、でしたら示して貰いましょう」


歯牙にもかけぬ鷹揚なセリフのなかで、示す、という言葉に、辻本は虚を衝かれたように反応する。


「!…………また、外国演習を執り行うつもりですか?」


と真っ直ぐ見据え、凛とした眼差しの辻本。


「それに関してはここでは言えません。しかし明朝には大方の予想はつくはずです……ウフフッ」


静かな緊張が漂うのを感じて、固唾を呑む他の者たち。


先に視線を切ったのは、アルテミスだった。


「各々の立場を明確にしておくと良いでしょう―――激動の時代、その奔流に呑まれないために……いずれ来る、戦争の無い世界が訪れる時まで、ゆめゆめ忘るることなかれ。」


 こうして、月の女神アルテミスとの対談は、意味深な忠告を残して幕を閉じた。




本堂と寺院の入口をつなぐ建物間の渡り廊下、ちょうど満月のやや青白く輝く光が射し込む回廊まで帰還したところで、ロストゼロの一同はようやく重苦しい空気から解放される。


そして休憩所のような広間、外側に張り出した木々の雲海が埋め尽くす絶景ポイントに立ち寄ったところで、


「はぁぁ~~!!生きて帰ってこれてよかったぁ…………」


「クス……なんだか先ほどまでの楽しいお祭り気分が台無しになってしまいましたね」


朔夜は大きな溜め息のあとに、間抜けな台詞とともにぐったりと壁にもたれた。玲もそれを見て、ちょっぴり不服そうに微笑む。


「あれがこの国のトップ、さすがに凄かったかも」


「君でもそう感じるのか。……傑物、いや怪物だったな……僕たち程度なら簡単に呑み込んでしまいそうだ」


メアラミスの率直な感想にオズが頷く。


《羅刹》の背景まではまだ知らないとはいえ、ロストゼロも日々の訓練や玄武演習を経て、メアラミスの戦闘能力の異常な高さは肌で感じていた。ゆえに、その少女に、凄かったと言わしめた《女神》はもはや立っている次元すら違う気がした。


「………………」


そんな途轍もない存在に唇を噛み絞めつつ、何かを呻きそうになるアーシャ。月の光と同じくらい蒼白の顔にみえたのは気のせいか。と辻本は然り気無く一瞥する。


「でもいい経験にはなったじゃん!それにあたしもべつにあのアルテミス様のやり方を完全に認めてるわけじゃない、それはサクヤ君もでしょ?」


「ま、まぁ同じ白虎人としても戦争を起こすのは…………って!たとえそうだとしてもこんな中途半端な場所では言えないよ!女神様っ今のはボクの意見じゃありませんから~!」


シャルロッテの豪胆なのか意地っ張りなのか、どちらにしても巻き添えを食らう形となった朔夜が夜空に半泣きで叫ぶ。


対して「あぁ!この裏切者めぇ~!」とシャルロッテ、ニヤリと口を歪ませながら両手をわしわしすると、朔夜をくすぐり攻撃!半泣きが泣き笑いへと変わった他称弟系マスコット男子。


何をじゃれあってるんだ。という呆れ感を最大限にオズが左右に頭を振る。


「はは……でもこれでロストゼロは玄武、そして白虎の首脳と繋がりが出来たことになるのか」


「言われてみれば……指揮官は零組時代に四大国の首脳がた全員と?」


オズが、辻本を見返し確認する。


「いや、朱雀のティズ皇妃とは面識があるが青龍王とはないかな」


辻本は腕を組んで説明すると、再度ちらりとアーシャを見た。物言いたげな彼女の表情を窺うためだ。


だがアーシャはそれにも気づかずに、ただ顔を伏せ、噛みしめた唇から苦悶するような吐息が洩れる。


「青龍王の名前って青龍王なの?」


「あははっ!そんなわけないじゃーん!えっとね、…………アー、アーデ………………アーシャ姉ぇ!」


メアラミスの純粋な質問を子ども扱いしては、どや顔で知識をひけらかそうとするも結局アーシャの裾に縋るシャルロッテ。


まったく予想外の懇願にアーシャはうろたえた声を出してから、一呼吸置き、目を閉じて告げる。


「『アーデルハイト・フォン・ドラグノフ』、第23代目国王だ」


回想するような表情で淡々と言う。


「さすが王国出身。シャルロッテは歴史の補修を入れておくべきか」


「やですよーだ!!アーシャ姉は王様との面識は…………さすがにないよね?」


指揮官にきつい眼差しで睨まれて、シャルロッテはプイッと顔を背けてから、アーシャに尋ねる。なおも不安げな表情を浮かべるアーシャは、


「私のような小娘などには縁があるはずもなかろう」


儚げな笑顔で肯定した。それを辻本は横目で見つめる。いつもポーカーフェイスを崩さない彼女は何かを言いかけるように口を開くが、すぐに閉じてしまう。


「……さて、そろそろ街に戻ろう。休日とはいえ門限は守らないとモーガン副所長が怖いぞ」


辻本は視線を剃らし、冗談半分に教え子達を迫り立てた。



 街の夏至祭の残照が乱反射して輝く光景の方へと下る。


その途中。


「メアラミス、ちょっといいか」


「……?」


落ち着いた声で呼び止められた少女が、振り返って、辻本と顔を見合わせる。他の五人は他愛のない会話に夢中で気がつかずに先に進んでいった。


「さっきは助けてくれてありがとうな。君が手を握ってくれたおかげで俺のなかの《英雄》はギリギリ保てたよ」


不意の畏まった態度に、メアラミスは彼の真意を測りかねじっとその顔を見つめる。


「べつに、マナに言われてたのを思い出しただけだよ、《月の女神》は要注意って。今回は明らかに手加減してくれてたみたいだけど。……まぁ、キミの力量を推し測る程度で済んでよかったんじゃない?」


いつもと変わらずぶっきらぼうで素っ気ない口調。だが彼女のそれに悪意はなく、また善意でもなく。しかし不思議と憎らしさはなくて、むしろ何度目かの愛らしさを感じさせた。


「ああ……情けない俺だけど、これからも頼むぞ、相棒」


辻本の黒い瞳が、まっすぐメアラミスの眼を射た。その途端、この人は真剣に自分を頼ってくれているのだ、ということが心の無い器を満たし、胸の奥に暖かいものが広がるのを感じると、何も言い返さずにこくりと頷いた。


辻本はにこっと笑うと、メアラミスの頭にぽんと手を置き、銀のウェーブががった長髪を痛めないように優しく撫でた。


「……なんで頭をなでるの?」


警戒心ではないが、不可解そうな面持ちで見上げる少女。瞬きを繰り返しながら数秒間見つめる。


「あ、悪い!特に理由は…………嫌だったか?」


すぐに慌てたような表情を浮かべる辻本。しかしメアラミスは不快そうな気配は出さず、両手を後ろで組むと、ブーツの踵で地面をとんとんと叩いた。


「ううん、膝枕よりどこでも出来そうでいいなって。でもあんまり他の娘にはしない方がいいよ」


「あはは、たしかにシャルロッテなんかは髪のセットが崩れて嫌がりそうだよな。玲やアーシャだって気を遣ってそうだし」


彼の純朴でいてタチの悪い、鈍感さのような一面は、まだパートナーになって日は浅いはずなのに、メアラミスは重々に承知してしまっていた。


「はぁ…………」


そして思わず、溜め息をひとつこぼして。


「…………キミ、にぶちんすぎ」


一生懸命言葉を探して見つけたそれを言い放ってやる。


「ぁ…………」


頬がわずかに桜色に染まっていたのを、光を照り返す黒い瞳が捉えた。すぐに背を向けて走り去っていく少女であったが、そのすべてが、明らかに告げていた。人形メアラミスの、人間としての成長を―――。


ひとり残された辻本は、無意識のうちに、唇から短い言葉がこぼれ落ちていた。


「…………には慰められてばっかりだな…………」


心のうちをポツりと吐いてから、静かに月を見上げた。




月の僧院がある山頂、一際切り立った森林の壁を回り込むと、上層の底部がすぐ近くに見える。そこかしこに点々と輝く灯籠と港のライトアップは幻想的の一言だ。


だが1時間程前に花火が終了した辺りから空気の色が変わってしまった気がした。


そんな風に考えている僕の前で、所長がようやく足を止める。


「フフ、あちらの方は順調のようだ。それで……君の記憶に関する相談だったね?―――月光クン。」


大きな金色の瞳で問われるも、青年はただ、強く頷いた。






そして。それぞれの夏至祭の長い夜が明けた頃―――


大陸全土を震撼させる《一報》が機関に届く事になる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る