獅子ノ刻Ⅱ「灰と紅の境界線に視えるは」


時は常に背後から影の如く迫り来る。


唸りを上げて、眼前に流れ去る。


ならば、貴方はここで踏み止まるべき。


前を見てはダメ、私だけを見て?


貴方の道は後ろに迫る冥冥たる焔の中にしかないのだから。


そう、なにものも、己の世界を変えられはしない―――。




深淵の焔騎士『レオ』。


彼は朱雀聖都ザルクヘイムの中央広場にいた。


広場は幅二五◯メートルぐらいの楕円形で、中心から外れた所には噴水がある。レオはその噴水に縁に腰を掛け、頭上の夕空を静かに見上げている。


魔術的な灯りの多いこの空間は、午後の雑踏で賑わっているが皆の顔は見えない。近代的でありながら洗練された文化を持った朱雀民のシルエットだけが優しい闇に包まれ、一種のヴェールとして機能していた。


「…………(はむっ)」


すぐ傍に店を構えるベーカリーで買ったパンを、レオは少しずつちぎっては噛んで食べる。特に食事を楽しいと感じたことは無い、これから行うミッション、において空腹感があってはならないと、廃棄寸前の最廉価なメニューを選んだ。


―――ねえ気がついてた?さっきの店員の女の子、貴方と目が合った途端に、こっそりサービスで高級パンに差し替えてくれていたことに。フフ、相変わらずモテるね、妬いちゃうわ。


「………………」


―――あっ、べつに今のはパンの焼くと、嫉妬の妬くを掛けたわけじゃないから、偶然の産物よ。ちなみに私、偶然って言葉は昔から嫌いなのよね。


脳裏に語りかけてくる魔姫のクスクス、という微笑みが辺りの雑踏と重なる。だがレオは反応することなく、フードを目深に下ろしたまま口を動かし続けた。150Gという値段のわりには素朴さはなく、それなりに美味しく、焼きたてであったパンが店員の厚意だった事を噛みしめ、ようやく半分がたを食べた。


その時―――。


「私もその店は結構贔屓にしている。気が合うな、ナイン」


左側からそんな声が聞こえた。パンをちぎろうとしていた手を止め、鋭く一瞥する。


立っていたのは、黒衣に銀の長髪が特徴の『ドーマ』だ。暗がりの奥から二つの赤い瞳が鋭く射る様は闇に棲むカラスのようだ。抑揚は薄かったが、彼なりの冗談めいた台詞にレオは不敵に微笑む。


「そいつは光栄だ。だが、育ち盛りの妹にはもっといいモノを食わせてやれよ、お前が超のつく倹約家でないなら」


すると、男は心外そうに眉を動かしてから、深く頷いた。


「フフ、その減らず口……変わらなくて安心したぞ、レオ」


レオは俯くと、フードの下でそっとかぶりを振った。


「いいや……元黒十天使ディネロNo.Ⅳ、《魔氷》のドーマ。お前も俺も随分と変わってしまったさ。。」


お互いの声はことさら美声というわけではないものの、耳障りな部分の一切ない、どこか冷たさのある少年のような響きを持っていた。それゆえか、レオもドーマも、普段は多く語らない性分ながら、心の裡を、そうと意識もせず、ぽろり、ぽろりと吐露していく。


―――はぁ。つまんない時間。


焔騎士の魂に憑りつくマキが溜め息をついた。レオが自分以外の存在に意識を向けている間は酷く退屈で、また妬みの心情が沸き上がってしまう。


幼馴染み―――レオ君の二十年の人生は、戦いの連続だった。生まれ故郷の虐殺事件を幕開けに、闇の住人に堕ち、次から次へと大小無数の試練を課せられ、それらを勝ち抜いてきた。


その果てに訪れた、「復讐」という名の試練には、やはり私が導かねばならない。幼き日の頃のように、あの焔の夜に、両眼に焼きつけた光景を、忘れさせないために。


だが、しかし恐らく、まだ“鉄血”には勝てない。


ロラン・クルーガーの能力は余りに未知、余りに異質。彼個人の力ではどうにもならない種類の戦いなのだ。課せられた勝利条件は、白虎宰相の地位にいる奴に辿り着き、首を取ること。


でも、ロランには月の女神アルテミスの懐刀である《月の虎》もいるし、最近では独自の秘匿部隊「鉄血の盟傑」などという戦力まで整えているらしい。


まったく腹立たしい……私が生きていた頃よりも、あの宿敵はさらに遠い場所にいる気がする。デリス大陸を盤上に繰り広げられる「ゲーム」で、ロランは打ち手としてだけでなく自らも駒にしているのだ。


 そんなことを、マキは心の蛇口が緩んでしまったかの如く、ぽつりぽつりと思った。切れ切れの、首尾一貫すらしていないであろう独白を、この世界で唯一聞き取れるレオは、ドーマと会話をしつつも、無言で“聞き入っていた”。


「………………時間か」


数秒経ってから、レオがそう言って立つ。


「情報提供感謝する、お前のおかげでスムーズに“嬢”を《ルフラン》に引き入れる事が出来そうだ」


「例の死刑囚か。だが気を付けろ、主君を喪ったとはいえ彼女は元《百式》のメンバー、朱雀の暗部だった人間だ。」


その言葉に、レオは訝しむ表情で返す。


「それを俺に言うかよ……?―――生温い道を歩んできてないのは此方も同じ。それに、。そう…………罪を…………」


 しかし、その先をドーマは聞くことができなかった。聖都の中央に聳える、一際巨大な風車塔が、風力で動く時鐘を高らかに打ち鳴らしたからだ。


午後六時。《陽動》が始まる時間。


やがてその場を、音もなく立ち去ろうとするレオの気配に、ドーマは、夕風にさらわれるように小さく、ほんの一言だけ呟いた。


「―――命とは水、体は器だ。」


無意識的に発したこの台詞は、かつて“彼”にも贈った言葉だ。


「お前という器に入っている「モノ」……レオ、決してそれを見失うなよ。お前を大切に想ってくれる者たちのために」


かすかな、しかし諭すような囁き声に、


「…………肝に銘じておく、じゃあな」


工夫のない言葉を口にしたレオは、剣の切っ先にも似た一瞥を呉れてから、フードに隠れた顔を微かに上下させ、しかし足は止めることなく、朱雀の闇へと歩みを進めた。




 朱雀首都ザルクヘイムは人口100万を越える皇帝直轄地にして国内国外問わず「聖都」と呼ばれる事が多い。都市名の由来は諸説あるが、古来神話に登場する光の神の名前というのが最も有力視されている。


様々な歴史の上に成り立つザルクヘイムは、朱雀の鳳凰の象徴である「緋」をモチーフにした瓦礫色が目立つ。また聖都は13の街区に分かれていて、北側には皇宮と政府が入る「エルラロート」皇城などの建物が集積している。


そのひとつ、西部に位置する区画には、学術関係や国際展示場がいくつもある。


外国からの玄関である直通の鉄道で結ばれているこの場所は対外的な施設が数多く並んでおり、ホテルなどのグレードも朱雀随一となっていた。


そんな西地区にある歴史館と呼ばれる施設。表向きは各国の歴史に係る資料を整理、保存し一般に向けて展示している。そして今日も、そういった閲覧イベントの一つが開催されていた。


展示される品々は多種多様で、中には歴史と言いながら未来にしか興味のない連中が持ち込んだ、新技術の粋を集めたハイテクノロジーフェスや機械工学VS魔導工学なるロボットショーと娯楽の面も。これらの企画は、魔術分野にして他国の追随を許さない朱雀国の最先端技術力のプロモーションという意味合いが強い。


数ヵ月前の内戦で軍事力が他国より劣ってしまった朱雀だが、こういった大陸も認めた部分を武器に、無数の外部企業と取引をして、失った資金を得ていく訳である。


「……ぷはー!」


重たい息を吐く娘の声が聞こえた。


「死ぬかと思った、いくらユーリアちゃんがスレンダー美女とはいえあんなに熱い視線で囲まれると困っちゃうわー♪」


展示場の外周の片隅で、人混みに窒息しかけていた胸を自分で撫でるのは朱雀アルテマ元Ⅱ組『ユーリア』。乳白色の肌に、長く伸びたストレートの髪は、塗れ羽色とでも言うべき艶やかなパープルブラックだ。顔は小造りでえくぼの浮かぶ頬、くりっとした大きな瞳は高校生の頃のままだった。


「貴女の事は誰も見てなかったですけど……まあ、会場全体が妙な熱気に包まれているのは同意です」


うんざりしながらも調子づいた様子で話す私服の娘に、傍らにいた白衣女子がジロりとした視線を投げる。『シェリ』、ユーリアと同じ医療クラスの卒業生であり、現在は化学薬品開発チームの一員である有名教授の下で、勉学に励んでいる。


「うぅ、てかシェリ!学院卒業後に超名門の薬科大学に進学したってのはモチロン知ってたけどさー、ちょっと薬剤師としての貫禄つけるの早すぎじゃなーい??」


学生時代当時は、零組の委員長リナとアルテマ首席を争うほどの成績優秀な生徒だったシェリ、同窓生の言葉にやれやれしてから、シェリは上品な顔にべたべたとくっつく汗の珠をタオルで拭いつつ、


「ふぅ……ユーリアが子供のままなんです。とはいえ貴女もこのような時代に軍医を目指そうとしているのは、なんというか同じ仲間として、ちょっぴり誇らしいですけれど」


「まだ派遣の見習い看護師だけどねー、それにあの内戦や災厄は私にとっても色々あったからさ。……ってか暑くない?収容人数軽くオーバーして蒸し風呂状態じゃん!」


「本日は記者ビジネスデーですからお客の人数は少ないはずなのですが……室内の空調が故障したのでしょうか……?」


「うーぬぬ、どちらかというと地面が暖まってきてるような。案外この下で怖い人らがりあってたりしてネ☆」


「そんなスパイ小説みたいな事は有り得ませんから……」


ユーリアの能天気な妄想にゲッソリしながら、シェリは周囲を見回した。


怖い人ら。ユーリアが指摘した適当な言い分だが、ここで公開される、またはいずれされる予定の技術は、他国企業への売りを目的とした反面、裏の顔もあるのだ。つまり、詳細不明の兵器郡をチラつかせ、破壊力だけを「敵国」に突きつけることによって生まれる威圧感をもって外交カードとする。


(……穏健派のティズ皇妃の“やり方”とは思えない。でも……こうでもしないと朱雀はもう……デリスで生き残れない……)


そんな風に考え込むシェリは知る由もないのだが、この地下には大きな「収容所」がある。そしてこれから起こる「騒ぎ」の中心には、とある一人の青年の存在があった。


「…………レオくん?あれれ、レオくんだよね!?」


人混みに紛れ、下の階段に向かって消えていく人影がチラリと見えたユーリアが呟いた。シェリは少し離れた壇上のすぐ近くで話し合いをしている上司を発見して気をとられている。


「もしやシエラちゃんとのデートの下見……な訳ないか。てゆうかレオくんと会うの超ひさびさな気がするし!それに……」


「面白そうだしちょっと尾行しちゃお♡」と、胡散臭い事件の香りが漂う方向に駆け出した。奇しくもそこは、先程自身が勘づいた「熱気」の正体でもある―――朱雀国の深淵とでも呼べる地下拘置所で繰り広げられる「暗闘」の領域。


あるS級犯罪者の処刑の時刻が、今日18時だったのだ。




ザルクヘイム博物館が観光名所だけでなく処刑地であることを知る者は少数だろう。かつて囚人達の末路として知られ、この門をくぐった者は生きて出る事はできまいとまで言われた血と拷問と断頭刑(近年は高電圧による感電死)の施設だったが、現在ではご覧の通り一般に開放されている。


だが一方で、この施設には現在も稼働し続ける「死角」、つまり先述した拘置所の存在。まるで国旗にもなる鳳凰の放つ強い光によって浮かび上がる黒い影のように、観光地としての聖都に寄り添っているが、決して表の人間には見ることも入ることもできない迷路状の「地下」。


いまも囚人達を捕らえ、必要とあらば拷問でも処刑でもためらいなく実行する。昔ながら、継承され続けた役割の持った暗黒の施設郡だ。


表の入口からでは、影には触れられない。


裏の入口からでは、影から抜けられない。


―――まるで背理パラドクス定義ね、こういうの好きかも。


重苦しい空気の中を進む。実用重視で狭くて暗い通路、乱雑に石を組んだ壁にはランプの煤が黒くこびりついていて、炎が揺らめくたびに人型の染みが蠢いているように見えた。


湿気を逃す機構が乏しいのか、先程の陽動の際に放った魔力が床の表面にうっすらと覆われている。


「フフ、陰気な自分には……悪くはない場所だ」


と、レオの後方を歩く焔の守人『神木狼』は思わず呟いた。


『あっ!あそこの奥にいるわよ……ヤバそうなのが!』


次いで、レオの隣を微妙な距離感で浮遊していた焔の使い魔『オルトリリス』が声をかけてくる。


「…………。見つけた、お前が百式の“愛宕”か」


レオが今回の標的ターゲットの人物を視界におさめ、小さく囁いた。オルトリリスは心待ち緊張して視線を上げ、死刑囚を凝視する。神木狼は少し驚いていた。その相手が、見目麗しい女性だったからだ。


「クフ、クフフフ……見ない顔ねぇ、看守様の顔は全員覚えているから分かるの……もしかして、私を殺しに来た方?」


『愛宕』は金髪でボブカットの身長の高い女性だ。レオと同じくらいの背丈で、年齢も二十代前半だろうか。目尻の垂れたおっとりとした印象を与える美人で、病的に白い肌と左目の下にある泣きぼくろは薄暗い地下の中でもひどく目立つ。


黒い外套がいとうを羽織っているが、前を開けている肌にぴったりと張り付いた同色の色の装束。細身ながら出るところの出たナイスバディだ、とオルトリリスは眼を細める。


「ハァハァハァ……イイわぁ、執行者様…………!!」


そんな使い魔の存在には目もくれず、女性はレオを恍惚とした表情で招き入れる。鍵つきの牢屋の扉で隔てられているとはいえ、両者の境界線は余りに薄いと神木狼も無意識に身構えた。


「クフフ、クフフフ…………ぁぁ愉しみだわ、一体どんな死に様なのかしら私は!《死魄返しクリスタ》様のように爆死?」


「《陰翳圍へイラン》くんみたく斬殺?そうだわ《剣玩摂理コクリ》ちゃんと同じく刺殺でもキモチ良さそうねえ!」


明らかな破滅願望を言霊にして、愛宕は髪の先端を白い指先で弄ぶ。ふとレオは、女の首もとや手首に刃物による切り傷が数多、刻まれていることに気がついた。それは恐らく自分自身で傷つけたのだろう。百式時代から彼女にはこういった自傷行為癖があったためだ。


『な、なによコイツ……精神疾患、メンヘラってやつぅ?とにかく死ぬほどヤバいじゃない!』


どことなく妖艶な佇まいは魔女似だが、経歴含めて愛宕の方が深い闇を持っているのかもしれない、レオは静かに憐れむ。


(……《黒キ太陽》召喚の際に生け贄となった千を越える魔術師どもの中には百式からも2名が参加していた、うちひとりは死に、もうひとりだけが生き残った―――)


―――生き残ってしまった、常に死に場所を求めていたのにも関わらず。


「そう、そしてお前が“白虎人”である事も調べはついている。それも鉄血と深い繋がりがあったらしいな?その実、闇朱雀に忠誠を誓う三重スパイとは…………双方の国を裏切ってまでしてお前が“望んだ世界”は結局なんだ?」


レオがぽつりと溢した疑問に、愛宕はゆるく微笑んだ。


そしてしばらく思慕に耽った。


何時からだろう。己の価値すら判らなくなってしまい、心に空虚さを抱えながら、それを埋めるために闇朱雀と白虎主戦派が作り出した戦場で壊し、殺し、蹂躙することを楽しみにしだしたのは。


「一度しか言わない。質問も反論も受け付けん」


「愛宕―――俺と共に」


物々しい出迎えを受け、しかし愛宕は不快そうにするでもなく小首を傾げたが、レオの言葉を、黒瞳を締めつけるような灼熱を遮るように、どこか低く感情の凍えた声で、


「あら、結婚の申し込みかしら、永遠の愛を誓ってくれる?」


キンッ!! 横合いからの突撃の衝撃。


その響きは甘く、だが強靭だった。愛宕の冷たい殺意の込められた手には、不釣り合いな凶器がギラギラと鈍い輝きを放ちながら握られている。


驚愕するオルトリリス。レオの腰を打つ、低い姿勢からの暗技を見事防がれてしまったことに愛宕はまた小首を傾げた。レオは焔銃剣を片手に、愛宕の殺意の実行をただ見つめる。


ククリナイフ。刃渡り三十センチ近いナイフの刀身はくの字に折れている「内反り刀剣」であり暗殺用武器の一種だ。先端の重みで斧のように獲物を瞬く間に断ち切るそれは、まさに暗部組織を象徴するような、凶悪さ、陰湿さを持ち合わせていた。


「ほぅ……紙一重とはいえレオの隙を突くとは、闇朱雀により極められた技は本物のようだ」


神木狼は冷静に、事態を見守る。


『アンタ落ち着きすぎよ!てか、ここで闘り合う気ッ?』


反対側でオルトリリス、不満と驚きが形になる前に、戦闘の方に変化が生じた。


愛宕が牢屋付近にあった木製テーブルを蹴り上げる。砕け散ったそれは、壁を背にするレオの視界を破片が塞いだ。その間に愛宕は渾身の力を込めて刃を振り下ろす。直撃すれば即死は免れない。だが、


―――だぁめ、レオ君はわたしのものなの。誰にもあげない。


「!?」


脳で響いた少女の声、愛宕はそれを感知してしまう。


そして動揺の刹那、闘いの結果を愛宕は


そこにいたのは、あまりにも異質な存在だった……。


煉獄と冥府が混ざり合ったような衣装を身を包み、長い赤髪は焔のように熱を滾えている。年齢はおよそレオと同じくらいか少し上にも見える。整った顔立ちにはあどけなさが残るものの、瞳の奥には底知れない冷徹さも隠されている。


穢れを知らない田舎の生娘にも、無数の血で手を染めてきた戦士にも見えるその姿は、相反するパラドクスイメージが同居している危うさも含め、彼女の異質さを際立たせた。


「っ……」


くるくるくると、回転しながら吹き飛ぶのは、ククリナイフを握りしめたままの愛宕の右腕だった。肩口から切断された細腕は暗き宙を舞い、血を撒き散らしながら壁に叩きつけられる。部屋中に血の雨がぶちまけられ、レオも愛宕もそれを頭から浴びた。


右腕を肩から断ち、ホースから水を流すように血をこぼさせている理由は―――巨大な鎌だ。実際に切られた訳ではない。幻や錯覚、いやそんな陳腐なものではなく、かのような感覚に愛宕は陥る。


……粉砕されたテーブルだけが床に落ちた現実。その向こうではレオの背後にた少女が「アズリエルの鎌」を振り切った姿勢でいた。鎌の鋭利な先端には血の滴が浮かんでいる。


刀身には細かな紋様が刻まれており、意味は判然としないが恐らく古代文字で、それ自体が芸術品と呼べるもののようだった。漆黒の刃からは冷気すら漂わせ、この世の全てを拒絶しているような、またそれを以って総てを断ち切れると主張しているように思える。


―――


少女は酷薄に言って、鎌を旋回させる。赤く染まる先端を改めてこちらに向けてくる。だが、愛宕は感心したような声で、


「……クフ、理解したわ。《夜想霊嬢》なんて畏れられた私をスカウトしたい貴方の事は。クフフフ……そう、なのね、素敵、素敵よ」


独りでに納得する愛宕は、いつからか、レオの両瞳にじわりと浮かび上がっていた黒輪をじっと見る。


愛宕の異能は“霊界と現世の狭間を視ることが出来る”、というかなりオカルトチックなものであった。


「……ああ、そんなお前だからこそ必要なんだ。俺の眼や俺のなかの焔を―――罪を、正確に量り読み取れる……お前が。」


レオの改まる勧誘に、恍惚を孕んだ微笑で愛宕、


「クフフ……いいわ、でもひとつだけ条件を提示させて?」


そして、誰かの運命を憐れむような音色で、


、私の最期は何があっても貴方の瞳に焼きつけて欲しいの……ねえ」


赤い唇を舌で舐めて、蠱惑的な微笑みが闇に溶ける。影に沈んだとしか思えないような歩法で、レオに囁きかけた。


「あの世で添い遂げる、未来の旦那様」


愛おしげにうっとりと、愛宕は言った。


この女は異常だ。頭がおかしい。とレオは顔を顰める。


だが、一方で俺とお前は似ている部分もあるか、と意識した。ユグドラスの唯一の生き残りである者と、朱雀内戦で死にきれなかった者、独りぼっちという共通点だ。


いつ命の灯が消えるか分からない世界で愛宕は、襲いくる死への恐怖を切望し、生殺与奪の権をレオに預けたのだから。


『……ってこらぁ!なーにが旦那様よ!さっき会ったばかりのくせに調子に乗るんじゃないっての!わたしの方が“友達歴”は長いんだから!ねえ、レオ!』


オルトリリスは歪んだ表情で怒鳴りかかる。愛宕の言動のいかなる彼女の琴線に触れたのかはわからない。だが、愛宕は慈母の微笑みのまま、酷薄に告げて首を傾げ、


「友達止まりなんて可哀想な娘、クフフフ……」


意味不明な使い魔ちゃんの怒声に、愛宕は珍しく呆れたような小さな吐息。そんな愛宕の態度に微妙に傷付きつつ、オルトリリスは勢いのままに、


『こいつキライ!……とっとと退散しましょ!』


だけ言って真っ先に地上へと戻るルートを進んでいく。レオ、神木狼、そして愛宕もまた、地下牢からの脱出を速やかに開始するのであった。




「脱獄だー!!!」


地下施設内の証明が真っ赤に切り替わってから三分が経過。何度目かの看守の叫びが、カンカンカンという打ち鳴らされた警鐘の音と重なった。


「いたぞ!侵入者も一緒に!」


「《百式》を拐いに来るとは……高位の狩猟団か、暗躍する闇の組織の連中か、はたまた他国の―――」


レオを先頭とする『ルフラン』一行の前に増援が二人現れた。しかし機会を与えたりは決してしない。


レオは高速で駆け、すれ違う瞬間に焔銃剣の刃を二度、閃かせる。すると看守たちは得物を構える前に倒れた。


更に進む。地上へと戻る。だがぞろぞろと敵が沸いてくる。


『うわっ!敵がこんなに!』


「フフ、どちらかと言えば我々側が敵だがね」


オルトリリスと神木狼の、そんなやり取りが後ろで聞こえる。直後に看守や衛士たちが一斉に襲い掛かってきた。この場だけでも十名以上、上に登るにつれさらに増援がやってきている。


「さて、どうするのかしら、《深淵の焔騎士》様は。」


―――解ってるよね?ここにいる人間には「パンドラ」強化のためのになってもらう。覚悟は……問う迄もないけど。


団に迎え入れたばかりの愛宕が期待を孕んだ表情で、首を傾げこちらに視線を送った。同時に、背中からは耳許で魔姫の念押しする台詞が重なる。


「問題ない」


レオは陰を落とす様子で黒衣を揺らした。


確かに敵の数は多いが、臆することはなにもない。


訓練を受けた戦闘部隊であれば、隊列戦術を駆使した連携で数の有利を直接戦力に換算出来るが、いま目の前にいる彼らは所詮は戦闘のセミプロ。二流か三流程度でしかない。


重要なのは位置関係を常中で意識しながら、移動し続けることだ。銃を持っている相手との射線上に他の敵を挟み、近接武器を使う相手を一箇所に誘導し、互いの動きを邪魔させる。


そうして生まれた隙を狙って―――飛び込む!


一人。二人。


敵を仕留めた直後が一番隙が生まれやすい。それを意識しながら素早くスピンし、また高速で駆け出す。出来るだけ不規則な動きを取り入れ、敵を惑わす。


三人。四人。


時に迂回し、時に敵の間隙を縫って、常に背後に気を配りつつ敵襲団の後方まで駆け抜けた。後衛を担当していた連中は慌てて銃を構えるが、遅い、遅すぎる。包囲を抜けられるとは思ってもいなかったのか、近接戦に対してまったく無防備。


急速に距離を詰め、斬る!


五人、六人、七人。


半分くらいの敵が一呼吸くらいの間に倒れて、その事実に驚愕したもう半分の看守らは戦意を失いつつある。やけくそ気味に向かってくる者もいれば、味方に誤射する者もいる。


ここまで来てしまえば、もはや戦局は決まったようなものだ。


レオは敵集団の密集する懐で、焔銃剣のトリガーを引いた。


「“獅子無影迅ー円焔まどかー”!!」


解放した焔を刃に乗せ、体を大きく一回転させながら、水平に剣を振りぬく。研ぎ澄まされた焔気が周囲に飛ばされ、一帯の敵を文字通り一掃した。


そして―――


―――いい仕上がりね。オリスちゃんの「千理焔相克」を越え正式な《アイン・ソフ・アウル》を開眼させた貴方にとっては雑草を刈るくらい安い仕事だったかしら?


―――さあて、この調子で看守や獄中の人間全てをパンドラに喰わせていこうかな。《前アイン継承者》リアさんの「罪秤り」は能力だった。対してレオくんのは、


必殺の術となる―――。


魔姫が構じた内容にレオは無言で、瞬きで返事した。



 地下通路の狭い直線をルフランは疾駆する。


予めドーマ経由で手にしていた「拘置所の設計図」から見つけた隠し階段を登って、書類上存在しないとされる極刑人用の特殊房を抜けた。


途中に傭兵らしい男も三、四人いたが、残さず刈る。パンドラの篝になってもらう。


と、ここで神木狼は頭にチリチリとした薄い異変を察知した。


「……あそこの曲がり角の先からどうやら人がこちらに走ってきている。しかも“ここの者とは異なるオーラ”で……」


「クフ、私も感じるわ。看守様や犯罪者じゃない、ここは朱雀で唯一の能力者収容施設、まともな警備はいないけどね」


似たような感覚を、愛宕も感じている。


『こんなところにわざわざ向かってくる奴なんて絶対ヤバい奴でしょ!?まさか影の』


「しっ、喚くなオルトリリス」


レオが人差し指を立てて使い魔を黙らせる。


(っぅぅ~~~!!!!またわたしを狗扱いして…………!あ、でもひさしぶりに名前呼んで貰えた、うれしい!)


階段と通路の関係はL字になっており、その角の向こうから明確な足音が聞こえた。一定のリズムで鳴るそれだが、達人クラスの走法には思えず、どちらかというと一般人のそれだった。


レオは沈黙し、剣を構え直す。普段、能力アインに頼っているせいか、いまはパンドラへの集中で消耗が激しく、周囲の探知が疎かだ。レオは培った自力での対処にシフトし、通路へと飛び出す。


広い空間だった。左右には独房用の鉄の扉がズラリと並んでいて、その先に現在進行形、全力疾走中の娘がいた。


「ふあぇ!!?スミマセンゴメンナサイ!つい出来心で入っただけなんです、そしたらなんか警報鳴り出して、怖い大人たちに追いかけられて、もうムリーってところで!えとえと!」


娘は身振り手振りで必死に自分は無関係ですという事を伝えるその途中でふと視線が合うと、レオの目つきが変わった。


「……!お前は、ユーリアか」


「……ありゃ?ああーーっ!!レオくんみっーけ!!」


思いも寄らぬ所で同窓生との再会になったレオだが、ユーリアに現場を見られた、という予測していなかった事態であることを直ぐ様に認識してしまう。そしてその思考を、読み取ったかのように背後で《調停者》が囁きかけた。


―――殺すのよ。今すぐ殺して。さあ殺してしまえ。


「…………お前たちは先に行け、ポイントDZー4で合流だ」


レオは悪魔の命令には応じず、あくまで自分の意思で、旅団のメンバーに指示する。レオの表情に変化はなかったが、発せられる声がほんの僅かに震えていたようにオルトリリスは感じてしまった。だが、本当にそうなのかも分からないほど自然に、彼は背を向ける。


「御意。《フレスベルグ》、水先案内をしておくれ。ささ、麗しの御令嬢よ、外の世界へ脱出するとしましょうか。オルトリリスも援護は任せたよ」


「クフフ、貴方もかなり可笑しな能力者ね」『ふんだっ、主以外がこのわたしに指図すんなし……レオ、またあとで!』


神木狼は抑揚のない声でレオには軽く目配せをしてから、ヘルヘイムの森でも紹介していた鳥型の眷属を手の甲に喚ぶ。それを頼りにして、一行は出口の方へと走って行った。


 暫くの静寂は、爆発の衝撃で地下収容施設全体が揺れたことで破れる。オルトリリスの爆焔魔法だろう。耳を澄ませば上客が逃げ惑う屋内展示施設の騒音も聴こえてきた。


ユーリアとレオがいる床には、看守の立場に扮していた「闇朱雀」の下部組織の男達が倒れている。これはルフランと別行動を取った後、レオが叩き伏せた者達だ。


「…………ええっと、もしかしなくても、この騒ぎってレオくんがやったかんじ?…………とにかく助けなきゃ!」


彼女は男達の側へ行くと、その近くに転がっている拳銃やライフルなどを足で蹴飛ばして遠ざけたあと、医学クラス卒業生として迅速に対処をとろうとした。


「なにこれ……死んではない……でも、蛇の脱皮の跡みたいな」


―――魂の抜け殻だもの。あなたもすぐこうなるのよ。


…………殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。


パンドラに浸食された瞳が酷く疼く。余りの痛みにレオは右眼を抑えて顔を伏せた。僅かに漏れた声にユーリアが反応する。


…………殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。


「ッ…………」


レオは、暫く黙って、訴えかけてくる言葉を聞いていた。


…………殺せ。殺せ。コロセ。コロセ。コロセ。コロセ。


 馬鹿だ。とレオは心中で吐き捨てた。


ユグドラスの生き残りとして果たすべき復讐の道。そこになるべく旧友たちや一般人を巻き込まないと心に決めていながら、結果はこれだ。光の道を捨てたのに、闇の道こそ進むべき方向だと見据えていたのに、俺はまだ、温かい友情やら絆の繋がりなどに惑わされ、伸ばされた手を掴もうとしているのだから。


シエラ…………いつもすまないな、ここまで堕ちた俺を、お前はそれでも想っていてくれて。


辻本ダイキ…………もう届かないと諦めていた光の世界へ、一瞬でも触れさせてくれたこと、本当に感謝してる。



両眼の視界に「紅」が渦巻く。すぐに「灰」に塗り潰される。




炎が荒れ狂う。大切な家族も、友人も、隣人も、何もかもが燃えていったあの焔の日。俺達の全てを焦がし焼き尽くした地獄の夜。その記憶が瞼の裏に、鮮明に、何度も甦る。


境界線―――レオは、徹底した焔に染まる方に身を委ねた。


たとえ何を失ってでも、ロラン・クルーガーの野望を粉砕することを誓いながら。




右眼と左眼が燃える気がした。灼熱の隙間なら、何か鋭く尖ったものが突き出してくる錯覚があった。脳に割り込んだ何かはあっという間にレオのすべてを呑み込んでいった。




* * *




「もう!どこ行ってたのですか!心配したんですよ?!」


夕陽も完全に沈んだ頃。ユーリアはシェリからこっ酷くお説教を受けていた。


朱雀アルテマの学生時代、この娘シェリはⅡ組の学級委員をしていて、よく授業をサボってた私を注意してたよねぇー、とユーリアは内心懐かしむ。その間にも、元委員長の生真面目娘はガミガミと文句を言っている。


「貴女がいなくなった途端にボヤ騒ぎ、警備の方に賊が入ったなどと言われた時は、『あ、これ絶対ユーリアさんも巻き込まれてるやつ』とすぐ直感しましたよ、ええ!」


と、シェリは呆れるように、淡々とした口調で止めを刺していく。自分の軽率な行動が毎度のようなノリで見透かされていることにダメージを受けたユーリアはいじけ虫モードになり、


「うぅぅ。出世コース確定のエリートには、ユーリアちゃんみたいな閑職リーマンの気持ちは分からないやい」


「はぁ……なにをワケの分からない事を」


シェリの口から、ため息みたいな声が出た。


「ゴメンゴメン、かわりに私のパンツ見せたげるから♡」


「それは本当に意味不明ですっ!」


今度は腹の底から大声で呼ぶ。


「それよりだよ!ちょっと聖都の駐屯地まで行ってくるね!」


うろたえるシェリ。なぜ?とその言葉に眉を潜め、意味を探ろうとするも、途中で遮られ、ユーリアから核心を除いた発言で告げられる。


「伝えたいことがあるんだ…………零組に!!」
















Ain Soph Aurアインソフアウルの深層~



―――、何を手にしても、燃えるだけの灰なのであれば。


世界はね、貴方ひとりにだけ優しくはない―――。



罪秤りの指し示す『善』と『悪』を調停あやつれる刻は近い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る