1節「新たな息吹」
空気に匂いがある。これは花の匂い、青々とした草の匂い、胸を洗うように爽快な樹の匂い。
聴覚に意識を傾けてみる。無数に重なった葉擦れの音と、陽気にさえずる小鳥たちの声。下で奏でられる虫の羽音。
閉じた瞼を不規則に撫でるのは暖かな太陽の光か、あるいは冷たい月の光か。
僕は覚醒直前の断片的な思考のなかでふと、そんな事を意識していた。
―――もう少しだけ深い眠りの余韻に浸っていたいという欲求を押し退け、僕はようやく両眼を開ける。
「……ここは、どこだ……?」
「…………僕の、名前は…………?」
―――適合率、3%―――
※※※
ピピピピ……ピピピピ……ピピピピ……
「……んん」
黒髪の青年が、目覚まし時計によって覚醒する。
カーテンの隙間の奥で揺れる無数の輝き、朝の日差し、太陽の光がまっすぐ飛び込んできて、何度も瞬きを繰り返す。
滲んだ涙を、持ち上げた右手の甲でごしごしと擦りながら、ゆっくりとベッドから上体を起こした。
開けた両目が瞬きをする前に、先程まで確かに「心」で感じていた追想のような光景は唐突に消滅してしまう。
今のは、いったい……?
夢―――幻は消えた。なのにどうしてか溢れ出る郷愁とでも言うべき感覚は未だ去らずに、胸の真ん中が締め付けられるように軋む。
「ここは、どこだ……?」
少なくとも、さっきまで鮮明に感じれた外の感じは無い。
室内だ―――見慣れない、広々とした個室。
これはあれか。旅先のホテルでくたくたになった状態で、ふかふかのベッドにダイブ、そのまま寝落ち。翌朝、はだけた浴衣で起床した時になりがちな自分を見失っている時の感覚だ。そして大体の場合はしばらくぼーっとしてふと記憶が甦る。
俺―――『辻本ダイキ』の居場所、新たな職場。
「そっか……ここは白虎国《リューオン》、四聖秩序機関が擁するセントラルにある中枢建物《フロンティア》の職員用フロア……4階の……俺の寝室」
まるでCOMMの地図アプリで細かい行き先を指定するように俺は順々に口にする。そして一言。
完全にホテルだよな。ぼそりと所感を呟いた。
実際、自分のような新米に与えられた一部屋にしては余りに豪華すぎる大きさと内装。そもそもこのメインビル自体が先程述べた通り高級ホテルそのもの。まさかここが軍人育成施設だとは誰も思わないだろう。
ちなみに先日機関に入隊したばかりの候補生―――名目は異国間交流の士官学院なので新入生とも言い換えれる少年少女達約500名の居住フロアは3階。赴任したのが昨日なので俺もまだ見回った事がないが、指揮官や職員の利用する個室、つまりはこの場所とほとんど変わらない超贅沢なプライベート空間がひとりひとりに貸与されているそうだ。
時刻は午前5時32分―――。
出社(といっても下のフロアに降りるだけだが。)の定時にはまだ2時間余りの余裕がある。
だが俺には剣を手に取ってから今日まで、ほぼ毎日こなしている朝の日課があるのだ。「早起きは成功の鍵」なんて言葉もあるし、実際充実した1日を送るためにもこれは外せない。朱雀アルテマ生時代の寮生活でも必ずやっていた、アレだ。
「やるか、素振り」
「本格的な訓練が始まるまでに太刀の型の確認もしておかないとな。」
確かグラウンド付近にちょうど修行をするにはうってつけの緑と木々に囲まれた広場があったはずだ。そこで1時間程汗を流してから一旦部屋に戻って、軽くシャワーを浴び、1Fの食堂で朝食後、校舎棟に向かう。
頭のなかで予定を組み立て終えると、俺はすぅーと澄んだ空気を肺に取り入れ、二酸化炭素を外に吐き出した。
「よし―――!!」
鍛練用の軽装に素早く着替えると、部屋の壁に設置した刀掛けから鞘に納められた太刀を握りしめ、腰に帯刀。この地に来て初めての朝にどこか浮わついた気持ちが早足になって、辻本は外に出た。
今日は風が強い―――。
四の月はまだ半ばの春空、呆れるほどに青く、太陽は空から溢れんばかりの光を放っている。四方八方に伸ばされた大樹の枝々に遮られていなければ、自分がいる根本の広場まで届いて暑さすら感じていたかも知れない。
辻本ダイキは心底喜んでいた。この静寂の場所にわざわざ早朝から来て30分くらいが過ぎたか。それだけで十分に感じられる手応え―――ここは修行の場所にうってつけだという実感。
刀を握る。
振り上げて。
振り下ろす。
たったこれだけの動作を、瞑想をしつつひたすら繰り返す。
心頭滅却―――我が天紅の太刀は月の光、焔の刃。
呼吸、拍子、速度、体重移動、魔力管理、それら全てを完璧に制御した状態で「氣」を纏い、辻本は空を断つ。
「斬―――!!!!」
重い太刀の刃に秘められた威力は、風となり樹を伝い、高く澄んだ音を一帯に響かせた。
「……壱の型―――」
森の中、俺はいよいよ修行の佳境となる天紅の型、壱から捌まである系統の流れに入ろうとした。その時。ここまで澄んだ環境と、出発前にマナから頂戴した《黄昏の太刀》の感触の良さに改めて感動していたためか、いつしか周囲への警戒などまったく忘れ去っていた。
「――――――ッ!!?」
ふと正面に戻した視線が、むこうから顔を出した誰かの瞳とぶつかる。俺の前に人間がいたなんて。びくりとした体の弾ませ具合であやうく反射的に技を思いっきりぶっぱなしてしまうところだった。
「………………」
謎の青年は、敵意もなく、警戒心すら抱いていないような眼差しで俺を見つめる。
同年代―――二十歳前後くらいの若者。柔らかそうなアッシュブラウンの髪はわずかに波打っている。少し色が落ちているのか、梢から射し込む木漏れ日のせいか金髪にも見えた。
線の細めな、優しげな目鼻立ち、瞳の色は紺碧。
そして服装、こちらには見覚えがある―――というより俺も昨日から着ていた。指揮官用の灰色コート姿だ。
そこまでを認識して俺はようやく辿り着いた。目の前の彼は俺と同じ職場の人間。四聖秩序機関の指揮官なのだと。
と同時に、彼の顔をもう一度じっと見た途端、
頭の……また心の奥深いところがちりっと疼いた感覚。
懐かしさ―――辻本が打たれた感情は正にそれだった。
「…………えっと…………」
だがしかし、その郷愁、追想を捕まえようとしたら心の奥底に消え去ってしまう。俺はひとまずそんなもどかしさを右手で握る太刀に伝えることで発散、口を開いた。
―――のだが。何を喋ったものか。男がひとりで剣の稽古をしてただけ。ここから会話を拡げるにはどうしたものかと悩んでいると、彼の方から先に言葉を発した。
「君の剣、凄いね。なんていう流派なの?」
「……あ、ああっ……!これは《天紅月光流》だよ。朱雀のある剣士が生み出した剣技なんだ、使い手は多くはないから珍しいかも知れないけどな」
いや。同じ職場にもうひとりいるが。でもそれを今話すのは絶対タイミングが違うと思い、俺は掌に浮かぶ冷や汗を黒ズボンで拭いつつ、笑顔らしきものを浮かべた。
「へぇ……!天紅月光流……格好いいな」
青年は子どものような口調で目を輝かせていた。
「あはは……、そうだ、俺の名前は辻本ダイキ―――多分、君とは同じ職場の人間だ」
「やっぱり、まあ候補生じゃないとは思ってたけど。」
俺の言葉に微笑みながら、青年は右手をぐっと差し出す。
「―――久し振りだね、ダイキ。やっとまた逢えた」
これは―――記憶……?
俺から失われた「拾われる前」の想い出。
遠い遠い、もう戻れない日々。
永遠に続くと信じた僕らの未来が。
今、新たな息吹となって―――再会を祝福した。
「初めまして、辻本指揮官。ようやく会えたね」
えっ―――?
(……ここは、どこだ?)
「しかし名が『月光』とは。我々にとっては舌に馴染む心地だな」
夢から醒めたような気分の俺に声をかけてきたのは同じ機関で《ファースト・ワン》なる戦闘特化部隊を担当する青龍国出向の将軍イシス。
朧気で纏まらない思考のなか、俺は姉弟子に頷いた。
―――そして周囲を目線のみで見渡す事に全神経を集中させる。
どうやら俺はいま、昨日も機関のセントラルに到着した際にアネットさんに連れられ訪れた場所。フロンティア5Fにあるミーティング室にいるようだ。
身なりはキッチリと指揮官制服に着替えられおり、さっきまで額や胸に流れていた汗も完全に洗い流されているように思えた。
そして俺の隣にはイシス師姉。金髪の青年を挟んだ奥にはカグヤさんとヴェナさんもいた。もちろんモーガン副所長にロクサーヌ所長も立っている。あの姉妹はいないところから「指揮官」のみの朝礼に参加してたのか。ふと視線を作戦会議用スクリーンの右上部、壁に設置された時計に目を移して時刻をさりげなく確認、午前8時を少し回ったところであった。
まったく、わけの解らない現状。
俺はいつから意識を手離した状態で動ける能力を手にしていたのか?等と馬鹿げた想像すらしてしまう。
眠気の残滓も早朝稽古の達成感も朝食の満腹感もきれいにさっぱりと吹き飛んだ気がする。
もう夢って事で片付けよう―――そう思い込もうとするも俺は彼、月光との出逢いがどうしても頭から離れない。
今朝、爽やかな森の広場での「邂逅」、新たな息吹のような意識と記憶を保ったままここで目覚めたのには何か意味があるのではないか。
辻本ダイキと月光の繋がり……。
「……あまり顔色が優れないようですが、ネメシスの襲撃からまだ一夜。特に辻本さん、貴方はまだ休息していた方がよろしいのでは」
耽っていた思考を俺は断ち切る。ハッと顔を上げるとそこには心配そうに此方を気遣うカグヤさんが話していた。
「同い年の同僚、月光くんに早速キャリア差を付けられて出世が遅れてもかまへんのやったらなぁ。」
最初は聞き慣れなかった独特のイントネーションも随分と馴染んできた。この女性、ヴェナさんの花あり毒舌。まあ一応心配はしてくれているのだろう、常にの本質を捉えつつもグサりと胸に刺さる言葉はキレキレ刃物だな……。と呆れ半分に俺は白虎、玄武の出向指揮官二人を見ると、
「いえ、体調なら全然平気です。すみません……少しだけぼーっとしてました」
「それにキャリアで言うなら、着任初日から大陸初の偉業を成し遂げた辻本指揮官と僕では、もう埋めようのない差がすでにある気がしますけど」
金髪の青年は頭を掻きながら俺に微笑みかける。
「ふん。入隊式どころか初日の職務を全て放棄し、独断で街の避難指示や警備兵の協力にあたっていては、出世どころかクビになっても文句は言えないぞ。月光指揮官。」
「それは……つい」
「フフ、まあ慈善行動はほどほどにという事だ。では話を続けよう」
厳粛な態度で注意するモーガン。すると直ぐに、ロクサーヌ所長が話題を進めた。こうしなければここから月光指揮官の遅刻を咎める、口煩いお説教タイムに移行していたであろう事を女所長は予感していたからだろう。
「本日より本格化する機関の
「戦闘訓練はもちろん学業も疎かには出来ない。会議にいない職員にも協力はさせるが―――たとえば辻本ダイキクン」
突然フラれて俺は内心緊張するも、はい、と反応して首を傾げる。
「キミの担当座学は歴史学、物理化学に魔導学、あとはなんとなく面白そうだから副教科も幾つか回してやろう」
「え゛―――」
妙な声を上げ一瞬にして怪訝な顔になった俺を他所に所長は愉快そうに続ける。
「聞けば去年まで在籍していた名門アルテマ学生時代の遊撃特化クラスではかなり上位の成績だったそうな。さぞ教鞭を執れば生徒らも豊かに育つだろう。はははっ!」
「いやいや所長、それは!」
慌ててかぶりを振る部下を見て高笑いするロクサーヌ。勢いに押されるように、辻本はがっくしと肩を落とす。周囲では同じ指揮官達の同情の声が漏れていた。
「フフ、他にはそうだな。戦術教練の後期ではいずれ候補生には有人操縦型の魔導機甲兵に搭乗して貰う。それまでにイシス、そなたにはある程度の操縦をマスターしていただこうか。デリス最強の武人ならばすぐ馴れるさ。」
「やれやれ……どうもクラリス殿は私を過大評価しすぎなようだ」
(これはもはやパワハラですわ……)
言葉を失っている辻本と呆れ返るイシスを見てカグヤが心中で怯える。体の軸を壁に預け、凭れていた姿勢のヴェナも引き気味に顔を歪めていると、
「―――!…………。」
ほんの僅か、気配探知に長けた辻本やイシスでさえが見逃すほどの刹那の間、ヴェナが表情を強張らせ真剣な眼差しに。すぐに普段通りの上品な素振りに戻すも、視線だけが窓の向こうの青空を視ていた。
今のは予め自分にかけていた「琴線の反応」。
ヴェナは機関に出向する前、玄武軍からの通常の通信などは携帯端末で受信するよう設定していた。
しかしもうひとつ。デリス四大国の精鋭、ある意味で諜報員めいた人間が集うこの機関での活動中にもし極秘の伝達があった場合、ヴェナの心意の奥にある感覚部、それこそ秘密保全で守られた繊細な部分に緊急用の受信構造を仕掛けていたのだ。
その“揺れ”を、ロクサーヌのみ気がつく。魔術王たるここの主だけは外部の干渉を決して見逃さなかった。
「……クク、ヴェナよ。どうやらキミの祖国で何かあったようだな?」
「……ほんま、貴女には敵わんなぁ。バレたんなら堂々と席を外させて貰うわ、堪忍してや」
玄武国からの通信?指揮官一同とモーガン副所長は二人の意味深な会話から洞察する。いつの間にか壁に凭れていたヴェナはきちんと姿勢を正して立っていた。
「許可する。だがあくまで機関所属の上官である事を優先して対応するように!」
副所長に華やかな笑みを咲かせたヴェナ、ふと一同が我に返った時には彼女の姿は幻のように消え去っていた。
(平静を装ってはいたが、俺の目から見てもかなり動揺してたな、ヴェナさん。しかし玄武で一体何が……?)
辻本は懐疑の念を抱くとともに、玄武の異変を心配する。
「フフフ。玄武の動きは気になるが今はヴェナを信用しようではないか。―――なあ、虎の姫、カグヤよ」
「ひぇ!?も、モチロンですわ!たとえ敵国関係であってもこの場所は四聖秩序の旗の下!我々は仲間ですもの!」
グッと綺麗な手で握りこぶしをつくるカグヤ。しかし直ぐに自分の言い放った台詞のクサさを理解したか頬がリンゴのように赤く染めた。
「よくぞ言った。流石は上層部の見込んだ逸材だ」
ロクサーヌは大袈裟に拍手しながらそう言うと、
「では皆、本日の職務に励んでくれたまえ―――!」
解散。
俺はロクサーヌ所長が会議室から立ち去るのを見ながらこの人は嵐のようだと、赴任してからまだ2日目の朝なのに何度目かそう感じた。
「はぁ…………」
溜め息ひとつをこぼして退室するカグヤ。彼女に続くようにしてぞろぞろとイシス、そしてモーガンもフロンティア5階の廊下に出ていった。
(……本当に、とんでもない職場だな、ここは)
俺―――辻本は思わず残された月光と顔を見合わせた。同じような感慨を彼も抱いたのだろう、青みがかった瞳にどこか不安そうな光を滲ませ、俺の方に体と視線を向けた。
「あはは……忙しくなりそうだが、これからどうか同僚としてよろしく頼む、月光さん。俺は《ロストゼロ》所属の辻本ダイキだ。」
先の夢のせいか初対面に思えない―――それどころかあの出逢い以前から、俺と彼は一緒にいたような感覚さえ覚えてしまう。それでも俺は、何とか心を制して、多少崩した口調でかつ、呼び方をさん付けにして改めて挨拶した。
すると月光。差し出された俺の掌を、華奢な見た目よりもずいぶんと力強い手で握り返して、
「同い年みたいだから呼び捨てでいいよ。今年21なんだろう?代わりに僕もダイキって呼んでもいいかな?」
「ああ……分かった。よろしくな、
月光は満足げに微笑み、肩をすくめる。
「うん。あ、僕は《ツインズオウル》指揮官に任命されたからね。さて――じゃあそろそろ校舎棟に行くよ、ダイキ!」
機関という未知なる世界への期待に輝く月光の笑顔が眼に映る。
「気合いバッチリだな、月光!」
俺は、ほんの数十分前に出会った、それでいてどこか生来の盟友であるかのような気がする青年と肩を並べて、新時代を共に生きる生徒たちを導くために、早足で各担当クラスへと向かった。
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