第十一話 夜軍(よいくさ)

 竜ノ介は老人の目力に捕らえられている。身動きができない。息が苦しい。開け放たれていた会所の戸がいつの間にか閉められていて暑い。汗が畳にぽたりと落ちた。


「ふーむ、こやつに間者などできそうもない。目を見ればわかる。子犬のような無垢むくな目をしている。ただの若い足軽じゃ。戦の時には姫をしっかり守れ。そうすれば出世できるぞ。もうよい、すべての戸を開けろ。これでは蒸し風呂のようじゃ」

老人は、愉快そうに笑いながら、下座に控えていた従者に言う。


「はい、一生懸命お勤めさせていただきます。あの、もしや、北条幻庵様ですか」

安堵のあまり、体の力が抜けて思わず口走ってしまった。


「は、何を言うか、違うわい。北条家を影から支えた幻庵様は昨年亡くなられた。これは愉快だ。ははは、わしはもう少し若いのだが、まあ確かに長年お仕えしていたから、姿形も似てきたのかもしれんな。魂が乗り移ったかな。わしは姫の祖父で逍風しょうふう居士こじという者じゃ」


 姫まで声を上げて無邪気に笑いだす。相変わらず袴に振り袖の小姓姿。今宵は藤の花のような振り袖が揺れてほのかな色香が漂う。


「ほほほ、爺様、子犬のようとは言い過ぎじゃ。ずいぶんと育った子犬。確かに体は大きくて強そうだが何やら、素っとぼけていておもしろい」


「姫よ、ただでさえ兵の数が少ないのだ。兵は大切にしなければならぬ。今、二十二万の大軍勢が小田原城を囲んでいる。御館様の兵は一万三千五百。ここ八王子城には三千。小田原城へ四千。それ以外の六千五百は豊臣の配下、常陸ひたちの佐竹に対峙するため、北関東の支城の榎本えのもと、古河、小山、栗橋、関宿せきやど水海みずうみにいる。だが、伊達政宗は我ら北条に断りも無く勝手に同盟を破り、五月九日会津を出立。小田原の豊臣秀吉の元へ参陣しおった。伊達の裏切りで御館様の兵、六千五百が各支城にとり残され、ここへは戻って来れなくなったというわけだ。豊臣勢はそれらの支城を落として、降伏した城の兵たちをたてにして進軍してくる」

剃り上げた頭をつるりと撫でながら、逍風居士は無表情で淡々と語る。


「裏切り者の憎っくき伊達正宗め、切り刻んでやりたい。つくづく情けない男じゃ。猿の玩具に成り下がるとは。これまで永きに渡り、御館様が伊達のために尽力してきてやったというのに」

呪いの言葉を吐く波利姫の目はつり上がり、鬼の形相となった。やがて大きな溜息をつく。


「それはそうと、竜ノ介は宗阿弥にずいぶんと気に入られているようだな。あやつはおせっかいで、若い男が好きなのだ。つかぬ事を聞くが、八王子城の夜空に龍が飛ぶのを見たことがあるか」

鬼の形相が一変、いたずら好きな子どものように好奇に満ちた目で問う。


「いえ、ございません」

「そうか、竜という名の者には見えるのかと思ったのだが」

「ええっ、もしや、空飛ぶ龍を波利姫様はご覧になられたのですか。それは、昨年の秋で満月の夜でしょうか」

「そうじゃ、よくわかったな」

「そ、それは我が弟の仕業しわざです。絵を描くのが得意で、地面に描いた龍を秘術で飛ばしたのです」

「何、それはまことか。そんな妖しい術を使える弟とは、一体何者じゃ」

「実の弟ではありませんが、刀鍛冶の修行をしていた先の一人息子で、拙者が弟のように思っている者です。下原刀工の山本源二郎照重のせがれです」

「その者の名は何という。今すぐに会いたい。ここへ呼べ」

榧丸かやまるといいます。ですが、昨年に相模国の座間に移り住みましたので、今はもう八王子にはおりません」

「そうか、残念だ。今宵、空高く飛翔する龍をもう一度見たかった」

今度は泣きだしそうな顔をする。なんとも喜怒哀楽が激しい。姫とはこのようなものかと竜ノ介は面食らう。


「弟が飛ばした龍を見ていなかったのは、つくづく残念です。弟は拙者によく似た龍を描いたと申しておりました。波利姫様がご覧になっていたとは、実に不思議なえにしです」

心から、そう思う。


「ほお、なるほど。わしにはわかるぞ。たぶん姫とその榧丸とやらは、たまたま全く同じ時刻に空の月を見上げていたのだろう。それぞれ思い人を龍に重ねていた。恋する者同士の心意気が伝わったのではなかろうか。だから姫にも、榧丸の描いた飛翔する龍が見えたのだ」

逍風居士が口をはさむ。


「確かに、そうかもしれぬ。思えば御館様は忙しく北条家の軍師として働き、八王子城おられることは少なかった。ずっと寂しく思っていた。御館様は天翔あまかける龍のようなお方。片恋とは辛く苦しいものよ。この戦が終わったら、必ず榧丸に会いに相模の座間へ行く。画龍を飛翔させる術をわらわも習得したい。御館様にお見せしたいのだ。

 そうか、そういえば竜ノ介は衆道者という噂を聞いた。榧丸はおまえの稚児ということか。よほど、おまえに恋い焦がれているのだな。ほほほほほ、もうよい。早く庭へ行って、存分に酒を飲んでまいれ。数日後には戦じゃ」

竜ノ介は会所から追い出された。


 やれやれ、衆道者だと。一体誰がそんな噂を広めたのか。確かに、榧丸はおれの心の中に住みついている大切な弟には違いないが。



 夕闇は濃くなり、篝火かがりび紅蓮ぐれんの鳥のように羽を広げていた。厨房ちゅうぼうから岩魚いわなを焼く香ばしい煙が庭へ流れ込んでくる。その匂いにつられて、門番仲間や御主殿の西側を見張る足軽たち、鉄砲の弾造りをしている職人たちが、ぞろぞろとやって来た。


 舞台のある会所奥の庭では、ささやかな宴が始まっていた。味噌で煮た田螺たにしと梅干を下女たちが大鍋から金箔を貼ったかわらけに盛り付けて配っている。そのなかには小梅の姿もあった。舞台の隣の月見櫓の上に人がいる。たぶん、あれは宗阿弥。一人で御館様を思いながら、酒でも飲んでいるのだろうか。


「だんな方、一人一匹だけですぜ」

下男が厨房から、竹串に刺した岩魚いわなの塩焼きをざるに積み上げて運んで来る。ざるに向かって、たくさんの手が伸びる。いつの間にか数十人の男ばかりの宴が庭で始まっていた。竜ノ介よりも十ほど年上の門番の矢助が声をかけてきた。


「おい、そこの若いの。今夜の当番を代ってくれよ。まさか酒と岩魚にありつけるとはな。こんなことは滅多に、いやもう二度と無いかもしれん。おれは今宵はとことん飲むぞ。だから頼む」

とろんと赤くよどんだ目を閉じ、両手を合わせて竜ノ介を拝む。すでに、できあがっているようだ。


「わかったよ。しょうがないな。だけど、おれにも一杯だけ飲ませてくれよ」

 矢助の肩にぽんと手を置いた。


 樽に入った酒を柄杓ひしゃくで茶碗に注ぎ、一気に飲み干した。乾いた舌と喉が熱く潤う。串を外して、岩魚を掴むとに頭からかぶりつく。骨、口、目、えらをかみ砕くと、香ばしくほろ苦い味が口いっぱいに広がる。


「ふう、美味い。生き返るようだ」

岩魚を喉に流し込むように、再び茶碗に注いだ酒をあおる。そして頭の無い胴体だけの岩魚を見つめた。


「危なかったな。おれの首も無くなるところだった」

誰に言うでもなくつぶやくと、ようやく身も心も解き放たれた。


「そろそろ、正門へ向かうか」

月見櫓を見上げながら、厨房の裏を歩いていると月が雲に隠れた。




「げに様々な舞姫の~声も澄むなり住之江の~」

ほろ酔いの竜ノ介は、上機嫌で宗阿弥のうたいを真似てを口ずさむ。夜目はきくほうだ。


 人気ひとけの無い蔵の横を歩いていると突然、竜ノ介は背後から何者かに抱きすくめられて、身動きがとれなくなった。しなやかな細腕が蛇のように巻き付き、もの凄い力で胴をぎりぎりと締め上げてくる。


「おい、やめろ、放せ。腹が苦しい」

その腕を力ずくで振りほどくこともできたが、されるがままになっていた。あの甘酸っぱい香りがする。


「くやしい、悲しい。あたしの作った田螺の味噌煮を食べてもらいたかったのに」

背中で女の泣き声がする。


「すまない、小梅。美味そうだとは思ったが、喰ったらもっと酒が飲みたくなるからな。これから朝まで門番の仕事を代ってくれと頼まれたんだ」

「嫌、放さない。もうじき戦が始まる。どうか今宵だけは一緒にいて」


 柔らかい二つの乳房の形を背に感じる。竜ノ介の体の芯が甘く疼うずくが、何か得体の知れない熱い塊に押しつぶされていくような恐怖もある。先ほどまで明るく優しい笑顔で独楽鼠こまねずみのように、くるくると立ち働いていた娘が、突然こんなにも激しい情をぶつけてくるとは。

 

 腕をほどいて振り向いた。見つめ合ったが月あかりは弱く、互いにどんな顔をしているのか、はっきりとはわからない。竜ノ介は無言でしゃがみ込み「よいしょ」と細腰を抱き上げる。猟で仕留めた獲物のように肩に担ぐ。小梅の頭は真っ逆さまになり、一つに束ねていた長い髪がだらりとほどけて、竜ノ介の腰から足にまとわりついた。頭から落とさないように、太ももをしっかりとかかえて、柔らかな丸い尻を「ぱん」と強く叩くと「きゃ」と恥ずかしそうな小さな悲鳴が背中越しに聞こえた。 

 

 庭園の池の奥にある茂みの中に連れ込んだ。驚いたことに、あちらこちらで濃密な気配がする。戦を目前に命の炎が燃えているのか。歓喜の吐息が夜の草木を濡らしている。夜露で湿った草の上に小梅を、そっと下ろして仰向けに寝かせた。口吸いをしようと顔を近づける。


夜軍よいくさ.....どうか、竜ノ介様のやりであたしを突き殺してくださいな」

確かに耳元でそう囁いた。竜ノ介は震える。

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