第十二話 山霧降る朝

(一)

 

 近頃、足下あしもとに生えている草や名も知らぬ花々や、虫たちのことが気になる。何故なにゆえだろう。以前よりも鮮やかに、日に照らされ風に吹かれる草の一本一本の形が目に飛び込んでくる。小さくとも健気に生きている。知らなかった。こんなにも輝いているとは。ずっと見ていたくなる。

 

 風の音や鳥のさえずり。鳥のさえずりは、まるで榧丸の声だ。刀鍛冶をしていた頃、膝の上に榧丸を抱き、前髪を撫でながら。よくたわいもない話をしていた。でも、楽しかったな。あの頃の榧丸は、まだ柔らかく丸い頬をした童子。無邪気で愛らしかった。最後に会った時は、ずいぶんと艶っぽい若衆になっていたが。


 竜ノ介は、御主殿正門に立っている。そろそろ戦に備えて身支度をしなければならない。腹がぐうと鳴った。腹ごしらえも必要だ。今頃、小梅たちは御主殿の厨房で、手のひらに火傷を負いながら、にぎり飯をたくさん作っていることだろう。

 

 小梅は相変わらず、あどけない笑顔で飯を番所へ運んで来る。女は怖いな。あの夜と同じ娘だとは、とても信じられない。女は何人か知っている。八王子の遊女たちだ。だが、小梅のように凄艶そうえんで体に吸い付くような熱い肌を、おれは知らなかった。絡みつく四肢はまるで蛇のよう。締め付けられる心地良さが忘れられない。まさに常闇とこやみ。逃れられぬ。小梅の女陰はおれの露を吸い尽くした。


 石段を下りる。まだ夏の日の温もりが残る虎口こぐちの石垣に背をあずけて、空を仰ぐ。この石も八王子城の山から切り出した石だ。今日は朱色と青がまだらに混じり合う不思議な色の夕焼けだ。

 

 戦のため、見通しをよくするために山の大きな木々のほとんどは切られている。緑深い山々はその姿を変えた。山の尾根に一列に造られた太鼓たいこ曲輪群。石垣に囲まれた曲輪くるわとその間に掘られた五つの堀切が目につく。殺伐とした巨大なとりでとなっていた。よくぞ造り上げたものだと感慨深く見上げる。

 

 半年ほど門番として立っている。一日の大半は人が通らない。だから、その場でやりや打刀を振って一人で鍛錬をしていた。誰よりも強くなりたいと思う。


 ここからは見えないが、山頂近くの中の曲輪には、中山 勘解由かげゆ様がおられる。共に戦えないのが残念だ。上達した槍の腕前をお見せしたかった。それに、何よりもあの方のいくさぶりを、おれは、この目で見たかったのだ」

竜ノ介の独り言に驚いたのか、一匹の黒い蜘蛛くもが石垣を滑るように横切って行く。

 

 

 

 昨日、逍風しょうふう居士と共に御主殿の奥から殿の道を通って、松木曲輪と山頂曲輪を歩いた。そして詰城つめのしろを経て、富士見台から熊笹山へ行く道を下見した。山を下りて相模国の川尻を目指す。舟で相模川を下り下溝にある寺へ隠れる。そこは榧丸が居る座間にも近い。意外と早く榧丸に会えるかもしれない。

 

 姫を守って城から逃げるのはおれの他に、たったの三人。逍風居士と門番仲間で飲んだくれの矢助。そして小梅。小梅はいざという時に姫の替え玉となる役目。逍風居士は老人とは思えないほど足腰が丈夫だ。あの様子だと武芸も達者に違いない。頼もしい。矢助も小梅も姫と同郷で山道に慣れているという。小梅と共に城を出ることができるのは嬉しい。心が軽くなった。


 皆で苦労して掘った詰城近くにある大堀切をのぞき込む。まるで巨大な墓穴のように見える。敵か味方かわからぬが、矢を射られた血まみれのむくろが折り重なっている。不吉な幻影を振りはらうために、頭を左右に激しく振った。


 逍風居士が言うには、加賀と越中の前田利家、利長親子は一万八千の兵を率いている。越後春日山の上杉景勝と直江兼続は一万。信濃上田の真田昌幸、信之、信繁親子は三千。信濃小諸城の松平康は四千四百。

 

 だが、大人数のわりに、やつらはこれまで派手な戦をしてこなかった。主に交渉によって北条の支城を次々と落としてきた。楽な戦が多かったのだ。そのことが、総勢二十二万の軍勢で小田原城を囲んでいる豊臣秀吉の怒りをかったらしい。汚名挽回とばかりに、やつらは死に物狂いでかかってくる。やつらに加えて、裏切り者の大道寺政繁ら、支城を落とされた北条の兵たち一万五千も敵に寝返り攻めてくる。戦国の世の定め。昨日までの友は今日の敵というわけだ。八王子城の兵は三千。町人や百姓や番匠、僧侶、山伏。女と子ども老人。やつらはおれたちを皆殺しにして、小田原城に籠城している北条家への見せしめにするつもりにちがいない。


「何事も成し遂げるのは神の御加護だ。やるだけのことをやったら、後は運を天に任せるしかない。恐れを捨てろ。だが敵をあなどるな。そして何事も考え過ぎてはいけない。大事なことが見えなくなる。竜ノ介、おまえは若くて強い。どんな深い堀からでも這い上がることができる」


堀をのぞき込むおれの背後から、逍風居士の声が耳に突き刺さる。




(二)


「そろそろ、とらの刻」


 夜中から数十人の武装した足軽たちと御主殿の広場に集まっている。竜ノ介は手に中山家から借りた十一尺の槍を持つ。腰には打刀を差し、すね当てと薄い鉄板で作られた胴を身につけていた。涼しい夜風に吹かれながら、じっと座って夜明けを待つ者。うたた寝をしている者、うろうろと周囲を歩く者など様々だ。矢助はしきりと動き回り、南の御霊谷や東の城下を気にしている。

 

 昨夜の月は右側が欠けていたが、月明りは充分だった。敵はまもなくやって来る。夏だというのに、体がしんしんと冷える。まもなく夜明けだ。何だろう、目の前が白くぼやけている。こんなことは初めてだ。山霧やまぎりが、すべてを白くおおいつくしているのか。これでは敵の思うつぼ。敵がどこから来るのか、全く見えないぞ。


「月明りの下、進軍した敵は山霧にまぎれて、もう城のすぐ近くまで来ている。気づいているとは思うが、夜明け前に町から火の手が上がった。山霧が濃いため、よく見えないが、音を聞け。東の方角から怒声と鉄砲の音が響いている。前田利家の本隊がすぐ近くまで迫って来た。同時に上杉景勝の脇本隊も山の尾根を通り、南から来ているようだ」

矢助が皆に戦況を知らせようと、大きな声ではっきりとした口調で言う。いつもは酒臭いだらしのない男が、まるで別人のようだ。


「そういえば、木が焼る匂いがする。まさか、中山家の屋敷や雑魚寝して飯を喰っていた足軽宿も燃えちまったのか」

思い出の町と住処すみかが炎に包まれていることが、まだ信じられない。


「どうやら脇本隊の上杉に南の出羽砦でわとりでが破られたようだ。敵は、そろそろ廿里とどり谷戸やとに来るか。谷戸砦と妙観寺砦では、長く持ちこたえられまい。だが、敵が城内の御霊谷に押し寄せれば、こちらの思うつぼ。大手門を目指して進軍しても迷い道に引き込まれて、深田にたどりつく。深田の泥にはまって抜け出せなくなる。そこを上の砦から横矢懸よこやがけと鉄砲で全滅させるのさ」

矢助が愉快そうに笑った。


いくつもの戦場を駆け回ってきたらしい矢助と逍風居士は同じ匂いがする。したたかで、物に動じない頼もしい大人の男。だが、二人とも中肉中背で人当たりが良く、これといった特徴の無い顔をしている。


「なぜ、そんなに手にとるように、敵の動きがわかるんだ」

竜ノ介が小声でたずねる。


「おれは千里眼で地獄耳。敵陣を調べて動きを読むのが仕事さ」

「もしや、矢助も逍風居士も忍びの者か」

「ああ、相州そうしゅう乱破らっぱ風魔党ふうまとうだ」

「なんと、そうだったのか。半年も同じ小屋で寝泊まりしていたのに、気づかなかった」

驚いて、目玉が飛び出しそうなほど目を見開くと、矢助がくっくと笑った。


「おれはただの飲んだくれの下っ端だが、逍風居士は違う。なんと五代目の風魔小太郎様だぞ」

得意げに言う。


「ええっ、それは嘘だろう。風魔小太郎は伝説だと聞いたぞ」

竜ノ介は絶句した。


「ま、信じないなら別にいいさ。おや、東の八幡社砦と中宿大手門が破られ、横地堤大木戸も破られたか。じきに近藤殿の守る山下曲輪とあしだ曲輪で戦が始まる。いよいよ敵は御主殿に近づいてきたぞ。何しろ兵の数が違い過ぎる。そのうえ、前田の本隊と脇軍の上杉が合流すると、やっかいなことになる」

無表情で淡々とつぶやく。


「矢助、大変だ。東から大軍が来ている。一万はいる。あの旗印は誰だ。霧でよくわからん」

竜之助の顔が恐怖で引きる。


「おや、これはいかん。あしだ曲輪が攻め落とされたようだ。近藤助実殿、討ち死にか。あれは、前田の旗印に違いない。だが、まだ策はある。おや、やつらも御主殿に来るつもりか。あしだ曲輪の上の上段曲輪に真田が現れたぞ。六文銭の旗印が見える。大道寺は花籠沢から大手山道を登り、中山殿の守る柵門台へ向かっている。松平勢も金子曲輪へ向かって登っている。よし、前田勢はあしだ曲輪から梅ノ木谷に抜けたな。穏やかで見通しの良い坂道だからと、油断して下って来るだろうが、あそこはすりすりばち形で、蟻地獄に落ちたも同然さ。何人生きて梅ノ木谷から出られるかな」


「そういえば、おれたちは梅ノ木谷の周囲に勢隠せかくしや、尾根の土を掻きおろして馬蹄ばてい形の階段のような曲輪を造らされた」

竜ノ介は意味もわからず、汗と泥まみれになって穴を掘り土を盛っていた頃を思い出した。


「そうとも、勢隠しから弓や鉄砲で攻撃する。その後に槍と刀だ」


 

 通用門で、東から攻めてくる前田軍を見ていた矢助と竜ノ介は、南の尾根の太鼓曲輪が気になり、広場へ戻る。山霧が晴れてきた。まるで白絹のとばりが開いたかのように、山麓にある御主殿広場から、敵の動きがよく見える。


「こりゃ、いかん。上杉の兵が数人、太鼓曲輪からろくに下りてくる。ここに来るつもりだ」

矢助は苦虫にがむしを噛みつぶしたような顔になった。


「でも、御主殿の下には城山川をき止めて造った深い溜め池堀、川にかったき橋も外してある。下りてきても、ここには来れないはずだ」

竜ノ介が槍を握りしめて言う。


「いや、堀を渡れる場所が一つだけある。太鼓たいこ曲輪のそばには五カ所も堀切があるから、山を縦横無尽に動くことができない。曲輪を攻めている人数の半数を山麓へ下ろし、御主殿を攻めさせるつもりだな。よし、こうなったらこっちからも攻撃するまでだ」

矢助が落ち着いた口調で言う。


「山霧が止んだ後には、血の雨が降る」








○寅の刻・・・午前四時頃 

○堀切・・・敵の移動を妨げるために、山の尾根を切るように深く掘っている場所。

○曲輪・・・城内の守備位置ごとに囲まれた区画。

















 

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