第11話捨て子

 気が付けば、その捨て子は木に登るようになっていた。


 貴志が、その捨て子を見つけたのは一年前のことである。捨て子は珍しくなく、江戸の町には浮浪児が何人もいた。浮浪児たちは、いつもギラギラとした油断のない目をしていた。けれども、その捨て子だけはいつもぼんやりと空を見ていた。


 まるで、かつては飛べていたのに今は翼を失ったような――そんなことを思い起こさせるかのような目で空を見ていた。今思えば、それだけが目を引く子供だった。


 貴志は、最初はその子供のことを気にしてはいなかった。父が定火消である貴志は、将来的には父のあとを継がなければならなかった。だから、今のうちにたくさんの武術を学んでいた。のんびりと空を見上げる子供のことなど気にしている余裕はなかった。子供のほうも貴志のことを気にしてはいなかった。


 貴志が気が付いたとき、子供は木に登るようになっていた。


 それだけなら、単なる子供の遊びである。


 だが、その子供は誰よりも素早く、誰よりも高く気に登ることができた。時にはいじめっ子の手から逃れるために。時には野良犬の牙から逃れるために。彼は誰よりも素早く木に登って安全を確保していた。それは、まるで鳥が飛ぶように優雅な動きであり、貴志はいつしか見ているだけで面白いと感じるようになっていた。子供が木に登る様子を見るだけで、なぜだかすべてを忘れられるような気がした。


 ある日、貴志は落ち込んでいた。


 道場の先生に剣筋に恐れがある、と怒られたせいだった。貴志は見た目だけは跡取りとして立派にふるまえていたが、生来臆病な性格であった。その臆病な性格を誰かに咎めらることも多く、それが貴志の自身を奪いさらに臆病にしていくという悪循環に陥っていた。


落ち込む貴志を慰めてくれるような友人は、一人もいなかった。道場に通っていた同い年の友人は、将来の商売仇。そんなふうに感じる世間では、傷心の者を慰めてくれるような仲間などできやしなかった。そんななかで、一人だけ貴志に声をかけてくれるものがいた。ぼんやりとしていたあの浮浪児であった。


「お腹すいたの?」


 まるで悲しいことはそれしか知らない、とでもいうふうであった。浮浪児の人生などそれぐらいものものであろう、と貴志は考えた。ひどく単純なのだ、と貴志は浮浪児の人生を侮っていた。


 貴志は浮浪児のことを無視していたが、彼があまりにしつこく「お腹がすいたの?」と尋ねるので、貴志は持っていた金で饅頭を買って浮浪児に投げた。投げつけ饅頭は頭に当たったが、浮浪児は器用にそれを捕まえた。


すると、浮浪児の腹がぐるるとなった。

 

 貴志は、呆れた。


 腹を空かせていたのは、浮浪児のほうだったのだ。


 だが、浮浪児は腹を鳴らしたままで饅頭を二つに割った。


「はい」


 片方を貴志に渡す。


 腹を空かせているのだか、自分ですべて食べればいいのにと思った。なのに、どうしてか半分を貴志に渡してしまっていた。それが、同情されているような気がしてならなかった。途端に、貴志は腹立たしくなった。


「いらない。俺には、家に帰ればそれぐらいの食い物はあるんだ」


 乱暴に言い捨てた貴志は、饅頭を浮浪児に放り投げた。饅頭はぼんやりとしていた浮浪児の頭にまた当たった。だが、今度は浮浪児は饅頭を捕まえることができなかった。饅頭は、そのまま地面に落ちる。


 あっ、と貴志は思った。


 ごめんと謝る前に浮浪児は、それを拾い上げる。


 そして、浮浪児は何も思わずにそれをパクリと食べた。


 そして、にっこりと笑う。


「おいしいのに!」


 はつらつとした笑顔であった。


 貴志は、恥ずかしくなって家に走って帰った。家では母親がおやつにと饅頭や団子を用意してくれていたが、どれもなんだかうまく喉を通っていかなかった。どれもがもそもそしていて不味く感じられた。それと同時に、自分が投げた饅頭が――浮浪児が食べた饅頭はどれほど美味しかったのだろうかと考えた。


 浮浪児たちには、縄張りがある。


 そのため、ぼんやりとした浮浪児はいつも同じ場所にいた。そこが浮浪児の縄張りであった。いつも薄汚れていて、腹を空かせていた浮浪児。貴志は気が向くと、その浮浪児に饅頭や団子と言ったものを分け与えるようになった。

それは貴志のお八つのときもあれば、お小遣いで買ったお菓子のときもあった。浮浪児は貴志になつき、姿が見えれば側に寄っていった。その様は、まるで飼い主を見つけた子犬のようであった。


 ある日、貴志は浮浪児があまりに汚いので風呂に入れてやることにした。もはや貴志も、飼い主になったような心地になっていたのだ。


江戸には銭湯がいくつもあって、子供の小遣いでも入ることができた。番台に座る男は浮浪児の汚れに風呂に入ることを渋ったが、そこはいつも通っている常連ということで見逃してもらうことに成功した。まぁ、小銭も少し握らせたが。


 糠の袋で作られた洗い袋を使って、貴志は浮浪児を頭から足まで綺麗に磨き上げてやった。浮浪児がやりたがったので、貴志の背中も洗わせてやった。浮浪児の手は小さくて、広くなりつつある貴志の背中を一生懸命になってこすっていた。それからは、薄暗い浴槽に一緒に入った。


風呂は混浴で良く目を凝らせば女子の肌も見えたが、女子たちは固まって男たちを寄せ付けないようにしていた。これもいつもの光景である。


 そんなことは気にせずに、貴志たちは風呂につかる。


 風呂から上がると浮浪児は信じられないぐらいに綺麗になった。白い肌に、黒い髪。男にしておくのがもったいない見た目であった。あまりにも綺麗な見た目なので、母の口紅をかっぱらって浮浪児に着けてみた。洒落にならない見た目にだったので、すぐにぬぐった。浮浪児の生活環境で、女の恰好をしているのは危ないというのは分かっていたからだ。可愛い弟分が危ない目にあうのは、可哀そうだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る