第25話 体育倉庫にて
「探しましたよ」
放課後、授業を終えた俺は先輩のいそうなところを片っ端から探して、ついにある場所で姿を拝むことに成功した。
先輩は跳び箱に座っていて、長い足をその持ち手の部分に引っかけている。本からは目を離してくれない。俺が入ってきたにもかかわらず、またページが一枚捲られる。驚いた素振りもなかったから、見なくても俺であると分かっているのだろう。
「図書館にいると思った?」
「まさか。図書室は一番に排除しました。先輩は一筋縄ではいかないですからね。それで、ここが十カ所目です」
「ご苦労さま」
心のこもっていない労いだった。しかも本を読んでいるからまるで本に向かっていっているようだ。その場から動く気もない。それならばと俺は先輩に近づく。なるべくなら先輩ゾーンに入りたくなかったが、この期に及んでそうはいっていられない。
変わった場所だった。旧校舎にある使われなくなった体育館の体育倉庫に先輩はいた。文芸部は旧校舎に位置しているからさほど離れていない場所である。灯台下暗しとはまさにこのことで、俺はまったく見当外れににも新校舎を重点的に捜索していたのだった。
しかしそれだって理由があってのことだ。普段の体育の授業で、外なら整備され直した旧校舎の校庭を使っていたが、内では新校舎のアリーナが使われていた。それで旧校舎の体育倉庫は役目を終え、運動部が滅多に使わない道具をしまう物置と化していたのだ。なのでこんなところに人がいるなんて思わない。意図的に隠れようとしない限りは。
俺は先輩に向かっていく。その間も先輩はまるでこちらに無関心で本を読み進めていく。
高く積まれたがらくたから光が漏れている。まばらな光の行き先は先輩の膝頭。俺は光の照らすところで足を止める。温度のない冷たい光だった。
かび臭いマットと、ひしゃげたバスケットボールのゴムの匂いが交差する。玉の埃。誰かが忘れていったスパイク。あるいはわざと置いていったのか。隅の方に食堂かどこかで使われていた余った椅子が重ねられている。
「ここは図書館より人がいなくていいの」
視線を巡らせて落ち着かない俺に、先輩はいった。
「一人で怖くないんですか」
「怖い? どうして」
本のページを指で挟み、一瞥をくれる。
本当に分からないのだろうか。薄暗くて音も届かないこの場所は、学校とはいえ男の俺でも不気味に感じる。なのに先輩は理由を尋ねてくる。
「どうしてって。校舎から離れていますし、人目のない場所に女の子が一人。誰かが入ってきて、襲われたり……。そういうこと考えて、怖くないんですか」
「そのときはそのときよ」
他人事のようにいった。
「もっと自分を大切にすべきです」
「あら、心配してくれているの。優しいのね」
「そういうわけでも……。いえ、そういうわけです。でも俺じゃなくても誰だってそういうと思いますよ。危ないって」
俺は頭を掻いた。優しいと言われたのがリップサービスだと分かっていても嬉しく感じてしまう簡単な自分に苛立つ。その本心を悟られないように平静を装った。
「それとも高階くんがそういうことするの」
「お、俺はそんなことしませんよ!」
「そうかしら。顔が紅潮しているように見えるけれど」
「暑いんですよ。密閉されていて」
俺はワイシャツの胸元に空気を送る。なんでこの人はこんなに俺を挑発するんだ。こっちは真剣なのに、真剣に先輩の身を案じているのに、どうにも話の方向をずらされてしまう。
「呼吸も浅いわ」
「埃っぽいし、空気が薄いんです」
「少しだけなら分けましょうか。一口分だけ」
「からかわないでください」
先輩はふふ、と音なく笑った。けれどすぐに唇を引き結ぶ。ようやく俺の不服な表情を読み取ってくれたようだった。
「悪かったわ。でも、一人でいることが怖いなんて考えたこともないの。今までも、たぶんこれからも。だって、暗いところは慣れているから」
先輩は金属製の栞を本に挟んでそばに置いた。
栞の挟み方一つとっても洗練された挙措だった。俺がそうするときはがっしりとページの奥に埋めるように差すけれど、先輩は長い指を揃えてそっと置くように挟む。それだけでも先輩の本に対する愛情が分かってしまう。でも辞書の扱いとは違った。あのときはペンでマークされていたり、端が折られていた。だから辞書とそれ以外では先輩のなかで線引きがあるのかもしれなかった。
「立ってると疲れない? なんだか落ち着かないわ」
先輩は腰を浮かせて座る場所をずらし、隣にできたスペースを撫でる。まるでここに座れとでもいっているかのように。読書と会話を天秤にかけて話すことを選んでくれたようだったけれど、先輩の動作は意味不明だった。
俺は先輩に従わなかった。近くにあるマットの埃を払い座ろうとする。けれど、見た目以上に汚れが染み込んでいて、思わず顔を歪める。
「跳び箱が一番まともなのに。このなかでは清潔な方」
だからいったでしょ、と言わんばかりの響きだった。しかし、俺はどれだけ言われても気にしない。先輩とは適切な距離を保っておきたいのだ。そうじゃないと揺さぶられるから。翻弄されるから。俺はできるだけ汚れていない部分を探してマットに座った。埃が舞って空気の流れが乱れる。
先輩は俺の動きをずっと見ていた。俺の選択を悲しむでも訝しむでもなく、無機質な声でいう。
「体育倉庫は一人でいるのにちょうどいいの。色々回ってみたけど、ここが最適だった。誰も開けないから、集中して読書できる。半年かかって見つけた私の場所」
「そこは運動部の場所かと思いますけど」
「ここは学校の施設だと思うけれど。……鍵もかかっていないし、生徒ならだれでも使えるはずよ」
先輩はまた俺をやり込めて黙ってしまう。神楽のだんまりと先輩のだんまりはどうしてこうも違うのだろう。先輩のだんまりはひりつくだんまりだ。先輩はすぐに真空の時間を作りたがる。それとも黙ることで、何かから守っているのだろうか。
「先輩」
俺は気になっていたことを聞こうと思った。
「さっき暗いところは慣れてるっていってましたよね……何かあったんですか」
先輩の発言のなかでそれは流せないものであった。先輩はさらっといったけど、それは俺の関心を引くのに充分なものだった。知りたかった。先輩が何を抱えているのか。もしかしたら先輩の態度の秘密が隠れているかもしれない。
「今日は暑いはね。高階くんのいう通り」
そういってはぐらかす。先輩は本当に読めない人だ。何を考えているのかも、次に何をするのかも、一秒先だって予想通りだったことは一度もない。
「答えてくれないんですね」
「高階くんは知りたがり屋さんなのね。謎があった方が興味は尽きないでしょ」
「俺をからかって性格悪いですよ。先輩、楽しんでます?」
「そう見える」
「はい。とても」
「逆。悲しんでるわ」
「なぜですか」
いっていることが分からなかった。
「その手。高階くんの右手」
俺は自分の右手を見る。申請書があった。五人で書いた最終の稿。
そう――。俺はこのために先輩に会いに来たのだ。
先輩は両手をついて立ち上がる。
「それで? 嘘のある文章はできた?」
先輩はもう笑っていなかった。
◆
俺は先輩に対峙した。先輩の目が俺を見つめ返す。どこまでも深い海の色に鋭い光が宿る。それはロマンティックなものでなく動物のにらみ合いみたいなものだった。目を逸らしたら負ける。俺は身じろぎ一つせず、先輩を見据える。
「先輩にはお願いがあって来たんです」
「どこかで見た構図ね。あなたが急に現れてこういったの。スピーチ原稿を助けて欲しいって。今回もそれと同じ。何も学んでいない。一途に頼んだら私が首肯すると思ったの」
「いいえ。俺だってそんな馬鹿じゃありません。だから考えがあります」
リュックからスピーチ原稿を出した。申請書と平行して書いていたおかげでスピーチはすでに完成していた。そのスピーチを俺は破った。躊躇なく細かくちぎった。もう後戻りはできない。訣別するように、ポケットにねじ込む。
「言っときますけど下書きはありません。こればかりは信じてもらうしかないですけど。とにかく、これで最初から書くしかなくなりました」
先輩の目が見開かれる。それは俺が初めて見る先輩の初々しい反応だった。
「何……してるの」
声の調子が変わっていた。先輩らしくなかった。
「高階くん。それは、諦めたということ?」
「いえ。これが俺のけじめです」
はっきりと伝えた。それが先輩に対する誠意だと思ったから。
「神楽さんの情が移ったのかしら。スピーチを犠牲にするなんて」
「犠牲になんてしません。これでようやくスピーチを書けるんです」
すると先輩は乾いた笑いを零した。
「意味が分からないわ。今までも書いていたでしょう。それとも何。今まで書いていたスピーチがスピーチじゃないというのなら、あなたが書いていたのは一体なんだったの。頭を悩ませて、体の不調まで堪えて、私が支えて書いた小説だって。あれは何者だったの」
「嘘ばっかりの文章ですよ。俺は何も見えてなかった」
俺は先輩から目を逸らさなかった。
「それでも途中まで書いていたのよ。そのスピーチを捨てて最初から書くなんて無謀にもほどがある。まして文が大の苦手なあなたが。あなたの論理なら嘘ばっかりの文章でもいいんじゃないの。あなたはそういう人間だった。文章なんてどうでもいいと思っていた」
「それじゃダメなんです」
「どうして」
先輩のテンポが速くなる。
「どうしても、です」
「理由になっていないわ」
「じゃあ言います。納得できないからです」
俺は力強くいった。
「俺はずっとよくない文を書いていました。でもようやく分かったんです。今修正しないと一生文が書けなくなるって。死ぬまで嘘まみれの文章を書き続けてしまうって。そんなのはもううんざりなんです。俺、先輩が出ていくとき約束しましたよね。スピーチも、申請書も必ずやり遂げるって。だからスピーチもまっさらなところからやり直します。本当の自分を見つめます。そのために今のスピーチは捨てないといけないんです」
「口だけならいうのは簡単よ」
「違います。先輩、俺分かったんですよ。神楽から聞きました。俺に近づかないように言ったって。言葉は悪いですけど、最初それは先輩のいじわるだと思ってました。それか、文芸部を揶揄した発言に対して仕返ししたのかと。……でも間違いだったんです。先輩は俺を文章と向き合わせるために、神楽たちを遠ざけた。違いますか。神楽たちがいると、余計な助言が入る。あの理想の一行目のときみたいに、です。それを避けるために先輩だけが部に残った。実際、先輩の助言は最小限だった。あくまで俺自身に問題を解決させようとしていた。即物的な力じゃなくて、文をなめくさっていた俺を立て直そうとしてくれてたんだ」
先輩は黙って俺の考えを聞いていた。
ようやく分かった。俺が文彩先輩の生み出した一行目に違和感を抱いた理由が。あのときはなんとなくとしか感じていなかった。でも、今ならはっきり分かる。それは、俺がいなかったからだ。文のどこにも。文彩先輩の生み出した文章は俺がいなかったのだ。俺の作品なのに、上書きされて、自分自身の言葉は全て消え去ってしまった。もはや、俺の真実は宿っていなかった。先輩はそれに気づかせたくて、あえて一文を仕立て上げたのだ。考えれば考えるほど、確信が強まった。だって、文彩先輩らしくない文章だった。それは嘘のある文章だった。
……俺はなんて鈍感だったのだろう。そこで気づいていれば、もっと早く真実にたどり着けていた。野沢が来るより、ずっと前に。
「ところが、その後予想外のことが起きる。野沢です。彼が問題を持ち込んだ。それで今度は先輩がいなくなった。そうすればまた俺は頼れる人がいなくなって、独力で頑張るしかなくなるから。なぜそこまでしたか。それは先輩が知っていたからです。孤独の大切さを。一人で成し遂げる強さを」
そういう状況に追い込まれたからこそ俺は向き合ったのだ。離れてしまった部員たちを自らの手で集め、巻き込んで、最高の文章を作ろうと模索していた。
先輩の行動には全て意味があった。
「高階くんは想像力があるのね。買いかぶりすぎよ。神楽さんたちを遠ざけたのは争いを予防するため。私が遠ざかったのは気分を害したから。それだけのこと」
「そうは思いません。冷静な先輩が今頃になって感情的な人になるなんておかしいです。遠回りが近道になる――。先輩はいっていました。全部計算通りなんじゃないですか。そうやって俺に文章と向き合わせたんだ」
一気にいった。息が乱れている。手のひらに滲んだ汗をズボンで拭った。
先輩は微動だにしなかった。
俺は先輩の言葉を待っていた。
「辞書は読んだ」
一瞬、何のことか分からなかったけれど、少し考えて先輩の辞書のことだと分かった。
「読みました」
「伝わった?」
「先輩がマークしたやつですね。真実。うそ偽りのないこと」
「覚えてくれていたのね」
「先輩の助言ですから」
俺がいうと、先輩は軽く頷いた。
「あなたは変わった。不可逆的に。そこまでいうなら、見せて」
先輩に申請書を渡す。
先輩はゆっくりとそれを読んでいく。以前、俺のスピーチを読んだときの目だ。ミスを見逃さない目をしていた。でも俺はある変化に気づいた。唇が薄く開いて小さな音で音読していた。時折、唇が緩んで柔らかくなることもあった。否が応でも先輩が評価してくれることを期待してしまう。やがて先輩が顔を上げた。肯定とも否定とも取れる表情だった。
「など、と等が表記ゆれしてる」
「はい」
「それにひらがなで書くべきところが漢字になっている。未来を見据えての項目がカットできる。これは神楽さんの味付けかしら。自制が足りないわ。全体のバランスは美竹さんね。急ぎ足でやったのか揺らぎがある。つまり、直すところばかりよ」
先輩は申請書を俺に押しつける。
完膚なきまでの言葉責めに俺は項垂れた。ここまで叩かれるとも思わなかった。怒りを通り越してもはや無になっていた。
「でも――」
「えっ」
「伝わった」
聞き違いかと思った。
「不器用でも五人分の熱意がここにはある」
「じゃあ」
「ええ、やりましょう。私は校正をする」
「ありが……ありがとうございます!」
俺は思いきり頭を下げた。そのまましばらく動けなかった。先輩の協力が得られたのだ。体の奥から込みあげてくる喜びを噛みしめていた。
「ただし、これは協力でないわ。あくまで自分の能力の向上のため。それに今高階くんに恩を売っておけば、もしも私が困っているとき助けてもらえるしね」
「先輩でもピンチになるんですか」
「そんな予定はないわ。でもそのときは助けてくれる?」
「もちろんです」
俺はいった。先輩は微笑んだ。それはポーズじゃなくて素の先輩に見えた。張り詰めた緊張が次第に解けていく。案外、普通の女の子かもしれないと思った。
部室を出ようとしたときだった。
「ところで先輩」
「なに」
「なんで分かったんですか。なぜ全員で書いたって分かったんですか。俺はそんなこと口にしてないし、先輩はあの場にいなかった。連絡されていたとも思えないし、神楽の協力しか知らなかったはずです」
「分かるわよ。ここには五人分の物語がある」
俺は唖然とした。先輩は文章を読んで、どの部分が誰によるものなのか見抜いていたのだ。
「なんだか恥ずかしいです。俺たちは無意識にストーリーを作っていたわけですね。語りたいことを語っている五人分の支流が先輩には見えた。人は文で物語るということでしょうか」
「いいえ」
先輩はいった。
そうして後ろを向く。本を手に取って、抱き留める。
「文が人を物語るのよ」
やっぱり先輩は先輩だと思った。
それから先輩とともに部室に戻った。
先輩の校正が入り、文章はアップデートされた。
そして――。
二日後、ようやく申請書は受理されたのだった。
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