第20話 月の夜に

 日はほぼ沈み、僅かな残照を谷に残すのみとなっていた。

 そんな宵の口の谷を並んで歩くミリエルとリトの前方には、まんまるに育った月が大きく見えていた。


「今日は月が大きくて綺麗だな……」

 こんな夜は自然と声も小さくなるのか、リトがつぶやくように言った。

「そうだな……」

 ミリエルも静かな声で答えた。


 小屋を出てから初めての会話はすぐに終わってしまった。

(何か話して欲しい……)

 と思うミリエルであったが、その反面このまま静かにリトと二人の時間を過ごしたい、という気持ちもあることに彼女も気づいている。


 やがて二人は会話もないまま花の窪地に着いた。

 花は衝撃の直後と同じように地面に押し付けられたままだった。

 あの衝撃が無ければ、花が月明りに映えて美しいことこの上なかっただろう。

 そう思うとミリエルは悔しくて仕方がなかった。


「ああ、やっぱり」

 そう言いながらリトは窪地の脇で屈み落ちていた布袋を拾い上げ、

「はは……ぺしゃんこだ」

 と、笑いながら中身の弁当ごと潰れた布袋をミリエルに見せた。

「ふふ……そうだな」

 ミリエルも柔らかく笑って答えた。


 リトは布袋の中から麻布を取り出し、窪地の縁に広げた。

「座ってのんびり月見でもしながら話さないか?」 

 そう言いながら広げた麻布の上に座った。

 ミリエルも頷きながらリトの横に座った。


 そうして、しばらくの間二人はゆったりと足を伸ばして月を眺めていた。

「今日はとんでもなく長い一日だったな」

 リトが月を見たまま言った。

「ああ……」

 ミリエルも月を見ながら言った。

「ミリエルに俺が咲かせた花を見てもらったのが、もう随分前のことみたいだ」

「そうだな……」


 しばしの沈黙。

 それは、今この瞬間、世界が二人だけのためにあるような、二人のためだけのこの時間を噛みしめているような、そんな心地のよい沈黙だった。


「あの時……」

 そう言うとリトは言葉を止めた。

「ああ……」

 短く答えるミリエルだったが、続く言葉に思いを馳せ鼓動が速くなっていくのを感じた。


 そして、随分と間を空けてリトが言った。

「あの時……俺は……ミリエルに求婚しようと思ってたんだ」


 トクン……!


 ミリエルの胸が小さく高鳴った。


「でも、あんな事になっちゃったもんだから……それであの後、色々と考えたんだ」

 リトは続けた。

「今回はなんとかミリエルを守ることができたけど……つっても殆どじいちゃんが守ってくれたようなもんだけどな……はは……」

 彼の乾いた笑いには自虐的な響きがあった。


「そんなことはない……!リトは私を守ってくれた」

 ミリエルにとってそれがどれほど心強く嬉しかったことか。


「ありがとう……そう言ってもらえると嬉しいよ」

 リトは月を見ていた顔をミリエルに向けて自信なさげに微笑むと、再び月を見上げて話を続けた。


「次の戦いはかなり厳しいものになると思う」

「……」

「次もミリエルを守れるかどうか分からない……だから……」

「……?」

「だから……もし危険な状況になったら、ミリエルはリビさん達と一緒に逃げてほしいんだ」

「な、何を言っている?!」 

 ミリエルは心底驚いて言った。


「もちろん勝算はあるさ、だけど絶対ということは無い。負けてしまう可能性も無いとは言えないんだ」

「リトはどうするのだ?」

「俺は残って最後まで踏ん張る」

「ならば私も残って一緒に戦う」

「駄目だ」

「どうして駄目なんだ!?」

「どうしてもだ……頼む……ミリエル」

「断る!そんなことは絶対に嫌だ!」


 リビ達はユラとノルが守って逃がしてくれるだろう。

 だがミリエル自身がリトを置いて逃げるなどということはあり得ない選択だった。


(一体どういうつもりでリトはそんなことを……!)


「状況が厳しくなった時こそ私達が力を合わせるべきだろう!」

「そんなことをしたら俺たちは全滅してしまうかもしれないんだ……俺とミリエルだけでなくリビさんやシエルさんまでも……」

 月を見上げながら話すリトの横顔は苦悩に満ちていた。


「その時は一旦、皆で逃げればいいではないか。そして再起を図ってまた戦えばいい」

 リトの横顔を見ながらミリエルは言った。

(いつものリトらしくない……)

 ミリエルは思った。


 ミリエルはリトの次の言葉を待った。

 ミリエルの鼓動が少しずつ緩やかになっていく。


(違う……)

 ミリエルは思った。

(そうじゃない……)

 ミリエルが聞きたかったのは、リトの口から聞けるだろうと思っていたのは、そういうことではなかった。


(なんで……なんでそんな顔をする……!)

 ミリエルは座っているリトににじり寄り彼の腕を両手で掴んだ。


「リト……私はあの時……リトがいてくれて良かったと……リトがいてくれれば何も心配ないと、心から思ったんだ」

 頭ひとつ分背が高いリトを見上げながらミリエルは訴えるように言った。

「だから……だからそんな悲しそうな顔をするな……いつものように元気に笑ってくれ」

 最後はやや涙声になりながらミリエルが言った。

「さっきは……リトがノル様に相談した時はそんな顔はしていなかったではないか」

(そう……もっと希望がある顔をしていた) 


「それは……」

 口籠くちごもるリト。

「それは……ミリエルを危険に晒さないで済むかもしれないって思ったからなんだ……」

「それが、私を逃がすことなのか?」

「そうだ……」

「そんなことしてもらっても……」

 ミリエルが言いかけると、

「ミリエルのためなんだ」

「私のため……?」


 その時ミリエルの頭の中に、ユラの言葉が思い起こされた。

『彼はね、あなたが不幸になるようなことは絶対にすまいと心に決めているわ』


「俺はミリエルに幸せになって欲しい。できることなら俺がミリエルを幸せにしたい……でもそれが出来ないかもしれない……」

「…………」

「だから、ミリエルは何よりも自分のことを、ミリエル自身の幸せを第一に考えて欲しいんだ」


「私は……」

 ミリエルの頭の中でユラの言葉が響いた。

『リトが正しいと思う事が必ずしもあなたが望むことではないわ』


「私は……怖い」

「俺もそうだ、裂け目との戦いは……」

「違う、そうではない」

「え……?」

「私が怖いのはリトがいなくなってしまうことだ」

「ミリエル……」

「リトが私の前からいなくなってしまうなどと考えると、恐怖で頭がおかしくなってしまう」

「でも……」

「だから、私だけ逃げろなんて言うな……私はそんなことできない……したくない!」

 ミリエルは目に涙をいっぱいに溜めて言った。


「リト……お願いだ……私を一人にしないでくれ……」

 そう言いながらミリエルはリトの胸にすがりついた。

「約束してくれ……私を置いていかないと……」


「ミリエル……」

 リトはすがりつくミリエルの肩をその大きな手で優しく掴み、ミリエルの目をじっと見つめた。


「……」

 ミリエルもリトの目を見つめ返した。

 この気持ちが、リトを想うこの気持ちが彼に伝わるようにと願いながら。


 リトの目が、彼の瞳が動いた。

 ミリエルの願いが彼の心を動かしたかのように。

 

「わかった……」

「……!」

「約束する……ミリエルを一人にはしない」

 そのリトの言葉でミリエルの心に光が差した。

「きっと……?」

 ミリエルが不安な心を滲ませて聞いた。

「ああ、きっとだ」

 リトが答える。


 にわかに幸福感が彼女を包みこんだ。

 リトが遠くに行かないように、ずっと繋ぎ止めておきたい、リトに縋りながらミリエルは心の底からそう願った。


 ミリエルは涙に濡れた目で、リトを見つめ返した。

(ずっと……ずっと私の側にいて欲しい……)

 そう思いを込めて……。


 ミリエルを見つめるリトの目の色が変わった。

 あたかも、ミリエルの想いに応えようと、彼の心の中の何かが変化したかのように。


「ミリエル……」


 リトがゆっくりとミリエルの耳元に顔を寄せていく。


 ミリエルの耳に彼の小さなささやきが聴こえた。


「……してる」


(ああ……!)

 ミリエルは言葉を返そうとした。

 だが、再び涙が溢れてきて彼女は言葉に詰まってしまった。


(言わなければ……私も……リトに)


 ミリエルもリトの耳元に顔を寄せていった。


「………てる」


 ミリエルの小さな小さな囁き声がリトの耳に入っていった。


 そして、お互いの耳元に寄せていた二人の唇は、引き寄せられるように触れ合った。


 月の光が谷全体を明るく照らしている。


 その月を背景に、二人の姿が黒い影のように浮かび上がっていた。


 やがて、二人の影はひとつになり、花の窪地の縁の草地にゆっくりと沈んでいった。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 


 月明かりを浴びながら、ミリエルとリトは草地に敷いた麻布の上に寝転がり、静かに寄り添っている。 


 二人の間に生まれたばかりの絆が、幸福感で二人を満たしていた。


「リト……」

 ミリエルが横にいるリトを見て、彼の名を呼んだ。

「ん……?」

 リトが答えると、

「何でもない……呼んでみたかっただけ……」

 そう言いながらミリエルはリトに身を寄せた。

「そうか……」

「うん……」


 しばらくそうしていた二人だったが、リトが思いだしたように言った。

「そうだ、この近くに温泉が湧いて出てるところがあるんだ」

「本当か!?」

『温泉』という言葉に、夢見心地だったミリエルの心が俄かに現実世界に戻ってきた。


「行くぞ、案内してくれ」

 そう言いながら既にミリエルは立ち上がり、潰れたバッグの中から別の麻布を取り出した。

「よし!」

 リトも素早く立ち上がり、敷いていた麻布を手に取って、パタパタとほこりを払った。


 リトは窪地のそばから森の入口へと進んだ。

 衝撃で多くの木がなぎ倒されてしまっているため、本来ならば松明なりランタンなりが無ければ歩けない森の小径こみちも、月の明かりに照らされてくっきりと見えていた。


「アレのお蔭で夜の森が歩きやすくなったなんて皮肉なもんだな」

 リトが言うと、

「全くだ」

 ミリエルが答える。


「ところでさ……」

 リトが遠慮がちに言った。

「……何だ?」

「今夜はさ……月見風呂してくれるかな……?二人で……」

 リトがミリエルのご機嫌を伺うようにそっと聞いた。

「う……」

 ミリエルは言葉に詰まった。

「だ……」

 ”駄目だ“とミリエルは言いそうになった。

(でも……)

 実のところミリエルは嫌ではなかった。

 それどころか、リトと寄り添って温泉に入る自分を思い浮かべると、新たな幸福感が湧き上がってきてしまう。


「ミリエルが入るまで俺は後ろを向いてるからさ、な?いいだろ?」

 懇願するように言うリト。

「まあ、それなら……でも、絶対に見るなよ……約束だぞ……!」

 と、リトに懇願されて仕方なく許してやる、といった風を装うミリエルだったが、心の中では嬉しがっている自分がいた。 

 

 一方のリトは、

「……よしっ……!」

 と小さく呟いて拳を握りしめていた。。

 ミリエルにもしっかり聞こえていたが、彼女はあえて言及しないことにした。


 温泉は森の縁から小径を20分程歩いたところにある空地の奥にあった。

 空地は下生えがまばらで、地面の所々に岩が突き出ていた。

 その突き出た岩に囲まれるように温泉が湧いていた。

 差し渡しは5、6歩程で、岩山にあった温泉に比べると小さかったが、二人が並んで入るには不足ない広さだった。


「……俺が先に入ってるから……」

 そう言いながらリトは服を脱ぎ始めた。

 森の木がまばらになっているので、月明かりが彼の全身をくっきりと浮かび上がらせていた。


 ミリエルがリトの裸体を見るのは以前の山の麓の温泉での出会い頭の事故の時以来だ。

 ただあの時は、間近に少しの間見ただけで目を逸らしてしまったうえ、見てしまった箇所が箇所だけに、ミリエルの中には妙な記憶として残ってしまっていた。


 リトはミリエルを背にした状態で服を脱いでいる。

 リトは普段から肩まで腕を出していることが多かったので、筋肉質の体躯の持ち主だということはミリエルも知っていた。

 それが今、月の明かりが彼の筋肉の隆起に陰影をつけ、その逞しさを際立たせていた。


(こんなに大きかったのか……)


 あの衝撃からミリエルを守ってくれた時、弱ってしまったミリエルを抱き上げてくれた時、そしてついさっき……リトの大きさを体で感じたミリエルだったが、こうして視覚でとらえることで新たな実感として彼女の心に強く刻み込まれていくようであった。


 服を脱ぎ終わったリトが温泉に入り振り返ってミリエルを見た。

 ミリエルが軽く頷くとリトはミリエルから視線を外して正面を向いた。


 ミリエルは温泉に数歩近づき、ゆっくりと服を脱ぎ始めた。

 リトは温泉の縁に肘を載せて月を見ながらゆったりとしている。

 服を脱ぎ終わったミリエルは持ってきた麻布で身体を覆いながら歩いて行き、リトから少し離れて、ゆっくりと温泉に入った。


「もう、そっちを見てもいいか……?」

 リトが静かに言った。

「ああ……」

 と言ったミリエルだったが、

(……やっぱり恥ずかしい……)

 そう思いながらリトから顔を背けてしまっている。


 小さい水音がして、湯の波がミリエルの肩に当たった。

 リトの長くて逞しい腕がミリエルの肩にそっと載せられた。

「……!」

 ミリエルがはっと息を飲む。

 そして、彼女は持っている麻布を抱きしめるようにして、きゅっと体を丸めた。


 リトの腕がゆっくりとミリエルを抱き寄せ、彼女の身体がリトの身体に触れた。

「……!」

 ミリエルは小さく左右に身体を揺らし、嫌がるような素振りをした。

 一瞬、ミリエルを引き寄せるリトの腕が止まった。


(……あっ……)

 ミリエルは心の中で小さく叫んだ。


 そして、ミリエルは身体を揺らすのを止めて、ゆっくりとリトを見上げた。

 リトと目が合う。

 彼の目は限りなく優しく、だが、心なしか戸惑うようにミリエルを見つめていた。


(……ああ……)

 ミリエルの中にあったかすかな怯えがふっと消えていった。


 今度はミリエルの方からリトにそっと寄り添っていった。

 それに呼応するように、リトの腕が彼女を守り包むように引き寄せ、

 ミリエルはリトの胸に身を任せてた。


 月の明かりは二人を照らし続けている。

 それが、この先に待つ二人の未来を祝福しているのか、それとも激動の運命の前のわずかな安らぎを与えてくれているのか、この時の二人には分からなかった。

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