第3話 シチュー


 シチューなるものを初めて作った。



「いいですか?間違ってもスガヤ姉の得意料理でもてなそうなんて思っては駄目ですからね!」


 執拗にフラーウムに念を押されたため、得意料理の子豚の丸焼きを作ることは断念した。


 子豚の丸焼きが作れないとなると、豆を煮るくらいしか思い付かなかったスガヤに、フラーウムがシチューのレシピメモと、ついでに材料の一部を分けてくれた。


「相変わらず、こういう点に関しては用意周到だな。」

「事前に入念に準備しておかないと、いざというときに勝ち戦ができないって、教えてくれたのはスガヤ姉ですよ。恋の駆け引きも立派な戦なんですからね!」


 可憐と称される青く大きな瞳を見開いてフラーウムは力説してくれた。


     ・・・


 シチューの味を確かめながら時計を確認する。

 先程から何度同じことを繰り返しているか知れない。

 スガヤはすでに満腹だった。


「もう、夜だよな。」


 窓の外、視線を投げた先は既に夜の闇に覆われている。


「よし、じゃあそろそろ行くか。」


 フラーウムに借りた手鏡で身だしなみを整え、スガヤは玄関のドアに手をかけた。


 夕刻辺りから心臓が忙しなかった。

 この激しく脈打つ胸の鼓動をトキメキというなら、そんなに頻繁には味わいたくないなと、苦笑が漏れた。


     ・・・


 若干金貨を握る手が汗ばんでいた。


「お待ちしておりましたよ。お嬢さん。」


 心を持たないような気色の悪い笑みで迎えられ、スガヤは奴隷馬車の隣に立てられたテントの中へと誘われた。


「・・・」


 一瞬、息が止まる。


 テントの中には、すでにあの黒い瞳の有翼人が立っていた。


 首、手首、足首全てが太い鎖で拘束されている。口には猿轡をはめられたままだった。

 だが何よりも、その背の大きな漆黒の翼に目を奪われて、スガヤは身動きがとれなかった。


 こんなに美しい生命体を、見たことがない。


 何故か鼻頭に痛みが走り、目が潤む。慌てて袖口で目を拭った。


「一応、手足の拘束帯や猿轡は取らないことをお勧めしますが、鍵は渡しておきますね。」


 含んだ物言いと共に渡されたのは、とても小さな銀色の簡素な鍵。


「それと、風切羽は切ってますから、飛んで逃げる心配はありません。ご安心を。それでは代金を戴けますかな。」


 欲深く伸ばされたシワだらけの奴隷商人の手のひらに、金貨5枚が入った麻袋を置く。

 引き換えに太い鎖を渡された。それは手にずっしりと重い。


 その鎖の先は、あの有翼人の首輪に繋がっていた。


「・・・」


 スガヤは、不思議な感慨でその鎖を見つめた。


「ではお嬢さん、明日の夜明け前に、返却お願い致しますね。」

「わかった。」


 そしてスガヤは鎖を片手にテントを後にした。




 ガシャンガシャンと、黒い翼の有翼人が歩く度に鳴っている。


 一応、有翼人とバレないように薄汚れたマントを羽織ってはいたが、その鎖の音に、往来の人は少なからず振り向いた。


 奴隷を引き連れて歩く富裕層を、この辺りでも見ないわけではない。

 だが実際自分が、人の首から伸びた鎖を持って歩いているという事実は、どうにも居心地が悪かった。


 人目を避けるために駆け出したかったが、有翼人の両足首を繋ぐ鎖の長さから鑑みても、この男を走らせることに無理があった。


「路地裏に入ろう、こっちだ。」


 鎖を誘導するように少し引いて、スガヤは街の光が閉ざされた路地裏へと入った。辺りを見回し、人目がないことを確認して立ち止まる。


「この辺でいいか。」


 自身に言い聞かせると、スガヤは鎖をジャラリと地面に置いた。

 そして有翼人に近づくと、跪き、まずその足の拘束帯を小さな鍵で開けた。

 途端に細い足首が現れる。


(・・・痩せてるな)


 マント越しでも体躯のよい男だと思っていたが、無理な拘束が四肢を細くしてしまっていたようだ。


 両足に自由を与えると、次に両の手首も解き放つ。

 屈ませて、首輪も外すと、有翼人を繋ぎ止めていた鎖は全て地面に無惨に朽ちた。


 そして、最後に猿轡を外す。


「よし、これで自由だ。」


 何故かスガヤは達成感と共に清々しく笑った。


 そんなスガヤを見下ろしていた有翼人は、黒い瞳を細めて不遜な態度そのもので聞く。


「俺を逃がすのか」


 その声は、ベルベットのように艶やかで耳心地のよい響きを持っていた。

 スガヤの背筋がゾクリと震えた。


 途端、言い難い高揚感がじわりと脳に広がり、スガヤはゆったり微笑んだ。


「逃げたいなら、逃げるがいい。代わりに私が奴隷となるだけだ。たわいもないさ」


 そのスガヤの言葉には、欠片ほどの偽りもなかった。


 むしろ、逃げればいいとさえ思っていた。これほど崇高な生き物を、人間ごときが従えるなど、烏滸がましいにもほどがある。そう考えていた。


「どっちでもかまわん。ただお前が逃げれば、お前のために作ったシチューが無駄になるんだが、まあ問題ないさ。」


 きっと逃げるだろうとスガヤは思う。


 それでも、今心の中を埋め尽くしていたのは、この男を解放できたという充実感。


 月明かりのないこの薄汚い路地裏で、影のようなスガヤは、子供のように無邪気に笑っていた。



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