第30話 夏の果て

 荒神橋から浅科川を東にさかのぼったところに、新幹線の走るハープ橋がある。ハープ橋の下の河原には、子供の背丈ほどもある大きな白亜の岩がたくさん転がっている。

 その中に、浦島岩、と呼ばれている岩がある。かの浦島太郎が、竜宮城から帰ったあと、余生をそのそばで過ごしたという伝説を持つ岩である。

 飲めや歌えやの楽しい日々を過ごした浦島が、竜宮城から帰ってみると、地上では数百年の歳月が流れ、浦島を知る人は誰もいなくなっていた。孤独に耐えかね、乙姫からお土産にもらった玉手箱を開けた浦島がわが身に歳月を取り戻した途端、竜宮の亀が浦島をいずこかへ運び去る。そして亀が浦島を連れてきた土地が、この浅科川のほとりだったというのである。

「ねえ晶博、その浦島岩ってどれなの?」

「わからん。岩なんてどれも同じに見えるに」

 私たちは自転車を降りて、大型トラックが一ダースほど並んだ運輸会社の前の道路から、ガードレール越しに、大岩のごろごろ転がる河原を見下ろした。東京に帰る前に、竜胆が自転車でこの辺を走りたいなどと言うので、日差しも落ち着いて涼しくなる夕方に、お供をしているのである。ここに太夫がいれば、「竜胆ちゃんが帰っちゃうから寂しいんだね」などとからかわれそうである。

 日差しに銀の鱗のような波を立てる川から、涼しい風が吹き上がってくる。

「ひゃあ、気持ちいい」

 竜胆は、両目を細め、眼帯を取り去った顔で風を受け止めた。竜胆のものもらいは、あれから嘘のように腫れが引いて、あっけないほどすぐに完治してしまった。

「でも、晩年を河原で過ごしたって、浦島太郎はホームレスとして生涯を終えたの?」

「いや、違うずら。家がここらにあって、毎日まあんち浦島岩の辺りに散歩しにきてたってことだねえか」

「なるほどね」

 海辺で大人になり、海底の竜宮にまで行った浦島が、最後は海から遠く隔たったいやおいで一生を終えたというのは面白い伝説である。しかし、以前太夫が言っていたとおり、現在は海から遠いここさえも、上古の昔は海の底だった。

 小学校の授業で、背の高い白髪頭の理科の先生に引率され、この河原に化石を探しにきたことを思い出す。先生から、ここで見つけたという巻貝の化石を見せられ、小さい私はゴールドラッシュに乗せられた鉱夫のように奮い立ったが、いくつもいくつも石を割った末に、やっと見つけたのは小さな葉っぱの化石のかけらだった。そんなありふれた化石さえも、慎重に掘り出そうと力んで、結局ハンマーで粉々に砕いてしまった。

「竜胆、おめ本当に明日東京に帰るだかい。もうちょっとゆっくりしていったっていいに」

 私が引き留める言葉を口にすると、川を見ていた竜胆が、笑い出しそうな表情でこちらを向いた。

「何? 晶博寂しいの?」

 私は川風を大きく吸い込んだ。

「そうさ。寂しいだよ」

 竜胆は唇をかすかにゆがめ、私の目から逃れるように、再び視線を下の河原に移した。

「嘘だよ。晶博は、本当は寂しいなんて思ってないよ。ただわたしのことが心配なだけだよ」

 私は、ハッと胸を突かれて黙った。竜胆は、風になぶられる髪を押さえて、軽く微笑んだ。

「でも、わたしだって寂しくないよ。東京に帰れば友達がいる。大丈夫だよ。もし寂しくなったら、いやおいに帰ってくるし」

「……ああ、ほうだな」

 友達がいくらいたところで、竜胆の抱える寂しさを理解してくれるわけではない。

 これまでは、私と竜胆、そしてここにはいない兄は、同じ寂しさを分かち合える存在だった。同じ大切な家族を亡くした。けれど、鯨の死によって竜胆の中に生まれた寂しさは、私にも共有することはできない。

  一人でいることよりも、寂しさを共有しない者と二人でいることのほうが、ずっと寂しい。

 竜胆は、目を細めて川面に揺れる光を見つめながら再び口を開いた。

「母ちゃんが死んだとき、わたしがそのあとの生活を平気で続けることができたのは、母ちゃんの死から立ち直ったからじゃなかった。ただ、母ちゃんがいた頃のことを忘れてしまっただけだったの。だけど、今度は忘れたりしないよ。母ちゃんのことも、いさのことも」

 ピーヒョロオオオ、と鳴き声が降ってきたので顔を上げると、青空の高くを一羽のとんびがナイフのように滑空していた。とんびの飛ぶ空と、私たちの立つ河原との懸隔を実感した瞬間、川から吹き上げた風が、須賀山の梢を一斉に揺らす。分厚い透明な風がぶつかってきて、一瞬、水の中をくぐり抜けたような錯覚を覚えた。

 何万枚もの葉擦れの、波のような音を聞きながら私は、夏の段階が一つ終わっていることを悟った。まだまだ日中は暑い日が続くだろうが、温度計では計れない周囲の光や音、匂いが決定的に変わってしまっていた。盛夏と呼ばれる時期は過ぎ去ったのだ。

 私は、自転車のペダルに片足を乗せた。

「さあて、うちに帰って夕飯の支度するだ」

「ねえ晶博、帰りにセブンでアイス買ってこうよ。クーリッシュ食べたくなっちゃった。あれ思いついた人って天才じゃない?」

「竜胆は、昔っからそればっかだに。お腹冷やすど」

「えー? だって暑いじゃん。まだ夏だよ」

「ほうかい。まだ夏かい」

 自転車を漕ぎ出して、涼しい風を浴びようとサドルの上で胸を張る。黄色く熟しつつある田圃の向こう、太郎山の山頂のそのまた上に、入道雲が薄赤く色づいていた。強い風にも動かない薄くれないの入道雲は、実際よりもずっと遠くの国の空に浮かんでいる雲のように見える。

「ねえ、あの雲、金魚の群れみたいじゃない?」

 道路脇の田圃に落ちないか心配になるほど、竜胆が首をそらして空を見上げている。指さすほうを見ると、天が気ままに筆を滑らせたようないく筋かの雲の、入日に向けた頭の部分が、うっすらと茜色に染まっていた。

 山全体を揺らして木の葉をざわめかせる風に、私は目を細めた。

「ほうかもな」

 地上を自転車で走る私たちと並走して、薄赤い金魚の群れは、浅葱色の空を、日の沈むほうへと泳いでゆく。

 

〈了〉

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鯨骨奇譚 紺野理香 @hoshinooutosamayoerumizuumi

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