第4話 竜胆

 須賀神社の鳥居の前で鹿島と別れて、私は我が家を目指した。空気にはうっすらと青の紗がかかり、道路の電灯が白くアスファルトを照らしている。近くの田圃でひっきりなしに鳴く蛙の合唱が聞こえた。

 家の庭に足を踏み入れた私は、ぎょっとして立ちすくんだ。

 電灯もついていない玄関先に、誰かがじっと立っているのである。黄昏の薄闇が、その何者かの姿を隠して軒先にわだかまっている。

 心臓がばくん、と鳴る。闇の中のそいつも、こちらを見ていると直感した。

「そこにいるのはどなたですか?」

「晶博?」

と、問いかけるように女の声で名前を呼ばれて、私は息が止まるかと思った。

「竜胆かい?」

「そうだよ。ちょうどよかった。いま帰ってきたところなんだ」

 私は、大股に敷石の上を歩いて、花の枯れたあじさいの茂みの脇を通った。ボストンバッグを抱えて玄関の戸の前に立っていたのは、Tシャツにジーパン姿の私の姪だった。

「おどけた。明日帰ってくるじゃなかっただかい」

 私がびっくりして言うと、竜胆はむっとした顔をした。

「晶博ってば、やっぱり覚えてなかったね。今日中に帰るって連絡したでしょ」

「ほうかい。でも鍵は持ってるだず? 中に入ってればよかったに」

「バッグの中で行方不明になってるの。暗くてなかなか見つかんなくて」

 私はごそごそとポケットから鍵を取り出し、鍵穴にあてがった。そこで違和感に気づいて、鍵を回さずに引き戸のくぼみに手をかける。

「——開いてる」

「ええっ⁉︎」

「いや、空き巣とかじゃなくて、鍵かうの忘れたみたいだな」

 ばつの悪い思いをしながら言うと、竜胆は私をじろっと見上げた。

「やだくて。戸締まりくらいしっかりしてよね。いくらここが田舎だからって」

「悪い悪い」

 まったく、これではどちらが叔父だか姪だかわからない。私は、先に中に入って電気のスイッチを探した。家の鍵を、靴箱の上の、縄文土器を模した置物の中に放り込む。明るくなった家に、竜胆は「ただいまー」と元気に入ってきて、茶の間の壁際にボストンバッグをどさっと放り投げた。

「いらい大荷物だに」

「服は全部向こうに持ってっちゃってたからね。あとは、課題とか本とか」

 竜胆は茶の間の仏壇の前に座ると、手を合わせた。線香の匂いが漂ってくる。仏壇には、私の父母、そして竜胆の母である椿姉ちゃんの写真が飾ってある。

 手を振って蝋燭を消すと、竜胆は早速ソファに身を投げ出し、寝転がったままテレビをつけた。

「寮だと、なかなかテレビが見られないんだよね。月九ドラマ、ちゃんと録画しておいてくれた?」

「しといたよ。だけど、帰省してる間にそんねんまく見られるだかい? 見たやつは消してくれよ。録画がめた溜まるだから」

「ハイハイ」

「それより竜胆、帰ってきたら最初に渡すものがあるずら?」

 いかめしい顔を作って腕を組む私に、竜胆は視線もくれずにボストンバッグをテレビのリモコンで差した。

「東京駅で買ったお菓子がその中に入ってるから、勝手に出して」

「だれえ、お土産じゃなくて通知表だに」

 竜胆はようやくテレビ画面から視線を離して、私にあきれた顔を向けた。

「わたしの通知表を、晶博がチェックするの?」

「当たり前だに。兄貴がいない間は、俺がお前の親代わりだだから」

「また晶博の叔父さんモードが発動しちゃったよ。六歳しか離れてないのに」

「つべこべ言ってねえで、さっさと出しなあ」

 私は声を大きくした。竜胆は、ずるずるとソファを滑り落ちて、ボストンバッグを開けると、二つ折りの紙を取り出して私に「はいよ」と渡した。

 「どうどう」と通知表を開くと、予想できていたことだが、成績はオール優だった。私は、「たいしたもんだに」ともごもご言って、まぶしいほどの通知表を、東京銘菓の箱と一緒に仏壇にあげた。悔しまぎれに、ぱんぱん、と柏手をたたいておく。

 竜胆は、帰省の儀式からはすでに興味を失ってテレビ番組に目を戻している。

「こっちにはいつまでいるだ?」

「八月末かなあ。まだ新幹線の切符取ってないけど」

「俺は、おめが帰省してる間はバイトで忙しいだけど、車がいるときには言ってくれ」

「バイト何やってるんだっけ」

「個人指導塾の講師さ」

 ふうん、と竜胆は聞いているんだか聞いていないんだかわからない返事をする。保護者である私がバイトで家を空けることが多いのは、竜胆にとっては気が楽なはずである。

「あと、俺が出かけてるときに鹿島っつう男が訪ねてきても、絶対家に上げるなよ」

 私が念のため釘を刺したときにだけ、竜胆はこちらに意識を向けた。

「カシマさん? 何それ日本昔話?」

「とにかく、そういう奴が来ても玄関で追い返すだぞ。いいかい」

「わかったわかった」

 ソファにうつ伏せになった竜胆はいい加減な返事をして、膝から下の足をひらひらと動かした。私は、冷蔵庫を開けて夕飯になるようなものを探した。

「もう夕飯は食べてきただかい? つっても、昨日きんな炊いたこわい炒飯ぐれしかねえだよ。おめが明日けえってくる気でいたからさ。お葉漬けでもかって食べるかい」

「食べる。野沢菜、いくらかお土産に持って帰りたいんだよね。寮の人に配るから」

「野沢菜は県外でも人気だからな。いま風呂べちゃ沸かすわ」

 竜胆に対してだと方言が強くなってしまうのは、本来なら私の代わりに竜胆を育てるはずだった兄や父の言葉遣いを、無意識になぞっているせいだと自己分析している。

 しかしそれだけではないだろう。すでにこの世に亡い両親や椿姉ちゃんの話していた言葉が、身近なところから消えてしまうのが、たまらなく寂しいのだ。

 私は、冷凍してあった炒飯をレンジで温めた。明日買い物に行って、帰ってきた竜胆を好物のハンバーグで迎えてやろうと考えていたのに、思惑がはずれてしまった。

 茶の間のテーブルの上に炒飯と野沢菜漬け、冷蔵庫でよく冷やしたきゅうりの浅漬けを並べる。私は、とっておきのエビスビールを開けて、コップに注いだ。竜胆が、最近流行っていた連続ドラマの録画を再生する。

「寮生活も、他人に気い使ってようじゃあねえか」

と私が尋ねると、竜胆は鬱陶しさと笑みをないまぜにした表情で、

「まあ別に? それなりに楽しいよ」

と答えた。

 私たちどちらにとっても、肉親とともにとる本当にひさしぶりの食事だった。遠い南国に行ったきりの竜胆の父、私の兄を除いては、この地上に、血のつながった家族はお互いしかいないのだから。


第五話 巻貝の塔 につづく

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