第3話 ガイコツ池

「お前、虫除けスプレーしてったほうがいいんちゃう」

 鹿島は、水のペットボトルだけ持って玄関先に出た私の格好を見て言った。私は、普段から着ているアロハシャツに短パン、サンダルという出で立ちである。

「この夏は、まだ虫除け買ってないんだよな」

「マジ? あ、やべ俺日焼け止め忘れた。お前持ってない?」

「貴様は女子か」

 私と鹿島は、家のすぐ脇にある須賀神社の鳥居をくぐって参道を登り始めた。須賀山にはいくつか登り口があるが、どの道にも赤い鳥居が建てられている。

 須賀山は、地元住民から親しまれている山である。ハードな散歩として登る人やトレーニングとしてジョギングする運動部員は絶えることがない。

 須賀神社の本殿を通り過ぎて、丸太を横に並べて階段状にした登山道に入ると、タオルを首にかけて降りてくる人と何人かすれ違った。私が挨拶をすると、散歩中のおばちゃんたちがにっこりと挨拶を返してくれる。

 鹿島も、つられたように小さく会釈だけした。

「晶博お前、礼儀正しいんだな」

「別に普通だよ。山では、ほかの人に挨拶するもんだろ。困ったときに助けてもらうかもしれない」

「須賀山で遭難するとかありえないけどな」

 と言いつつ、山道を登り始めてから三十分、鹿島がわずかに息を乱しているのがわかった。

 私が、そろそろ休憩しようか、と言い出す前に、見晴らしが開けている場所にたどり着いた。鹿島はさっさとベンチに座って、景色を見る。

「お、意外と高い。あれお前んちじゃね?」

 私は苦笑しながら、鹿島の隣に腰を下ろした。私はそれほど疲れていなかったが、熱中症にならないように水分補給をする。こういうとき、子供の頃無理やり父親に山登りに連れて行かれたことは、無駄ではなかったなと思う。週末が来るたびに、車で一、二時間ほどの山まで連行され、一日を登山に費やすことを強制されたのは、私が父親を苦手に思う直接的原因になったが、崩れやすい山道で安全な次の一歩を選ぶ目と足を養ってくれた。

 しばらく風に吹かれて、眼下の市街地と田圃を眺めていると、山頂からまた地元の住民っぽいおばちゃんが下ってきた。農作業をするときのように、首の後ろを覆う布を縫い付けた幅広の帽子をかぶり、肘まである長い手袋をはめたおばちゃんは、私が挨拶すると、チョコレートを二つくれた。

 おばちゃんが背を向けると、鹿島は早速チョコレートの銀の包み紙を剥いた。

「うっわこのチョコ、べったべた」

 鹿島は、文句を言いつつも、暑さでどろどろに溶けたチョコレートを、手につかないように気をつけながら口に放り込んだ。私は柔らかいチョコが苦手で、冷凍庫で冷やしたもの以外食べられないので、おばちゃんに謝りながらやつにくれてやった。

 私たちは、再び山道を登り始めた。木が鬱蒼と茂って道に濃い陰を落とすようになってきたので、鹿島はサングラスを外して、Tシャツの胸元に引っ掛ける。

「チョコ食ったら喉乾いた」と私から水を奪って飲んでいる鹿島に尋ねた。

「その頼まれた原稿って、どれくらいの分量?」

「原稿用紙五十枚くらい。来月半ばまで」

「結構大変だな」

 いまは七月の最終週である。

 やつの住む寮に遊びに行ったとき、事務室に置いてある雑記帳を読んだことがある。交代で事務室に詰める寮生が自由な話題を書き込むノートで、最近はまっている乙女ゲームやら研究室の愚痴やら日本語の音韻に関する一考察やら、テーマは玩具箱のように雑多である。その中に、鹿島の名前は何度も出てきた。少し崩した細かい字で記された随筆風の文章は、かなり上手いとわかった。二時間程度の事務室当番中に、大学ノート一ページ半を埋められるのだから、速筆でもあるのだろう。

 山頂まで登るのに小一時間かかった。頂上から、来た道とは反対側のなだらかな坂道を降りていくと、不思議な青緑色をした大きな穴が見えてくる。

 それは、穴ではなくガイコツ池の水面である。正式名称を須賀湖という通り、池と聞いて最初にイメージするものより、実際のガイコツ池ははるかに大きい。一周するのに三十分はかかるだろうか。端と端を結んで地面に落とした縄跳びのように、湖はいびつな輪郭を持っている。

 湖の脇には、軽トラが停まっている。その持ち主かは知らないが、おっしゃんが一人、池に釣り糸を垂れていた。湖への転落を防ぐ柵に、「ブラックバスの放流禁止」と書かれたイラストつきの看板がかかっている。

 どうする? と私がきくと、鹿島は「とりあえず、湖の周りを歩いてみっか」と言った。

 湖の縁ぎりぎりまで木々の根が生えている。夏の濃い緑の葉を茂らせる樹木の下に、湖に沿った小道が通っていた。昨日の夜が雨だったため、足元はひどくぬかるんでいる。

 瑠璃色の花をつつましく咲かせた露草を、鹿島が無神経に踏みつけながら歩く。

「草ぼうぼうだな。短パンだから、あとで足がかゆくなりそうだ」

 雨に濡れた丈の長い草がむき出しの足に触れるので、かなり気持ちが悪い。私は、先を行く鹿島に尋ねた。

「池の中、なんかいそうか?」

「さっき釣りしてる人がいたし、何かしらの魚はいるんだろうけど。それこそブラックバスとか」

 小道と池とを分かつ柵の上から覗き込むと、底に腐葉土が分厚くたまっているのが見える。水深は浅そうに見えるが、実は腐葉土が数メートルの高さに積み上がっていて、底なし沼のようになっているのかもしれない。

 湖の中央に数カ所、ぷくぷくとあぶくが湧き上がっているのが見えた。光の反射でよく見えない水面の下で、大きな影が身を翻したような気がして、びくっとする。

「こんなんじゃ、見つかりそうにないぞ。魚を捕まえて実際に調査するくらいじゃないと。というか、向こうで釣りしてた人に聞いてみたらいいんじゃないか?」

 私が提案すると、鹿島は嫌そうに目を細めた。

「ええ? やめとこうぜ。お前が行く分には止めないけど」

 鹿島は、案外人見知りである。

「そういえば、片目の魚は、神の使いだって聞いたことがあるな」

 私が、以前読んだ小説の内容を思い出してつぶやくと、やつは、へえ、と相槌を打った。

「魚が片目にされたのは、神への供物だという目印のためなんだって。お寺や神社の境内の池には、片目の魚が放されていたんだ。生贄にされる人も、目印のために、片目を潰されたり片足を不具にされたりした。山に棲むとされる片目片足の怪物は、そこに淵源があるんだろうって柳田國男が……って、あれ?」

 こんな知識はどこで得たのだろう、と探ってみて、合点がいった。

「なあ、片目の魚の話があるのって、ガイコツ池じゃなくて、鹽田しおだのどっかの寺の池じゃないか? この話、聞いたことがある気がしてたんだ。確か、いやおい市誌の民話のところに載ってたんだよ」

 私の胸中には、折り畳みの長机が並ぶ高校の図書室の光景が浮かんでいた。高校三年生の夏休み、私は受験勉強から逃避するために、図書室でよくいやおい市誌を開いていた。中学校で懐いていた社会の先生が、編纂に関わっていた市誌。読むのは初めてだったが、民話・伝説の章は、結構面白かった。

「ええ、マジ? 記憶違いだったかあ。じゃあ、鹽田にも取材に行かなきゃいけないってことか? だる」

 鹿島は、鼻頭にしわを寄せた。

「でもきっと、ガイコツ池にも不思議な話の一つや二つあるよな? だって、ガイコツ池だもの。何もなきゃそんなおどろおどろしい名前つかんやろ」

「何でガイコツ池って言うんだろうな。子供の頃から馴染んでたから考えたことなかった。そういえば、ここには国分寺の鐘の話がなかったっけ」

「国分寺って、いやおい駅から一駅先の駅名?」

「ああ。いまじゃ、お寺の規模は奈良時代の半分に縮小して、遺跡も国道と線路で分断されてるけど。昔、国分寺から鐘を盗み出した盗人が、須賀山を越えて逃げる途中に、担いでいた鐘を湖に落っことしちゃったんだってさ。水底深く沈んだ鐘は、日暮れになると国分寺を恋しがって、水の中でひとりでに鳴るっていう。もしその湖で溺れることがあっても、『国分寺の者だ』と大声で叫べば、鐘の力で助かるんだと。記憶違いじゃなければ、ガイコツ池の伝説だったと思うんだけどな」

「うーん、無機物は、なんかのらないな。UMAのほうがぜってえ面白いっしょ」

 私は、鹿島をにらみつけた。せっかく人が情報提供してやったというのに、これである。ほの暗い水の底で物悲しく鳴る鐘なんて、なんともロマンがあるではないか。

 池のほとりの細い道は、徐々に雑草に覆われていき、ついに湖の外周の半分ほどのところで途絶えてしまった。湖のきわと鬱蒼とした茂みが隙間なく隣接しているので、これ以上歩けないのである。鹿島と私は、元の道を引き返すことにした。

「何もなかったらしゃあない。片目の魚はガイコツ池の伝説ってことにして書こう」

 鹿島がそう開き直ったとき、私は、道の前方から誰かが歩いてくることに気づいた。大きな二匹の犬を散歩させているようだ。狭い一本道である。どんどん近づいてくるその人と飼い犬に道を譲ろうとした私は、素っ頓狂な声を上げてしまった。

「太夫? 何でこんなところに」

 二匹の大きな犬を従えて歩いてきた女性は、私たちを見て、怪訝な表情をした。

「アッキー? 奇遇だね。それと……あなたも」

 鹿島を目に入れた太夫が、わずかに柳眉をひそめたのを私は見逃さなかった。誰にでも気さくに話しかけ、人への好悪を示すことの少ない太夫だが、なぜか鹿島を苦手としているらしいのだ。そして不思議なことに鹿島もまた、太夫を敬遠している節があった。

 しかし、二人は根本的な部分では似ていると私は踏んでいた。何かきっかけがあれば、気心の知れた友人どうしになることができるのではないかと思っているのだが。

 山犬を連想させる白と黒それぞれ一匹ずつの犬は、主人の気持ちを感じ取ったのか、鋭い犬歯をむき出して、ううう……と低くうなる。太夫は、「どうどう、太郎冠者たろうかじゃ次郎冠者じろうかじゃ」と忠実な飼い犬のリードを引き締めた。私は、白犬と黒犬、どちらが太郎冠者でどちらが次郎冠者なのか、いつも忘れてしまう。

 鹿島が、軽くのけぞって、「すげえ犬」とつぶやく。私は、太夫に尋ねた。

「太夫は、こんなところで何してるの?」

 太夫というのは、もちろんあだ名である。能などの芸能において、高位の人を太夫と呼ぶ。彼女の家は、日本舞踊の家元なのだ。背中を覆うまっすぐな黒髪と整った色白の顔は、いかにもそのあだ名に似つかわしく思われる。

「散歩だよ。期末試験がやっと終わったところなの。ほら、法学部は試験期間がほかの学部とちょっとずれてるでしょ」

「大学からここまでって結構遠くない?」

「考え事してたら、足が勝手に進んじゃったの」

 体の丈夫な太夫なら、いかにもありそうな話ではあった。太夫は、幼い頃から日本舞踊の厳しい稽古を積んでいる。体力は私よりあるかもしれない。ちなみに、太夫と私とは、中高大を通した同期である。

「ねえ、あんたなら知らない? 俺たち、ガイコツ池の名前の由来を知りたいんだけど」

 鹿島が無造作に問いかけると、太夫は無表情にやつを見つめ返した。

「知ってるよ」

「さすが太夫」

 唐突に話題を振られたにも関わらず、太夫は、いつも日常のどうでもいい会話の中から、哲学や法学の話題に転じていくときのように、ガイコツ池にまつわる民話を語り出した。

「ガイコツ池には昔、それはそれは大きな魚が棲んでいたの。この辺りの人は皆、その魚のことを『鯨』と呼んでいた」

「それはもちろん、クジラみたいに大きな魚って意味で、もちろん、実際にクジラが棲んでたわけじゃないだろ?」

「棲んでたかもよ」

と、太夫が平然と言うので、私は、まじまじとその整った顔を見つめた。

「いまじゃ海から遠いこの辺りが、八○○万年前までは海の底だったのは知ってるでしょ。ハープ橋の下の地層からは、海洋生物や貝類の化石が出てくる。

陸上生活をしていたクジラの祖先が、海に戻っていったのは、五千万年前から三千万年前までの間なんだってね。いやおいから山を一つ越えた高原からは、四千万年前のクジラの全身骨格が発掘されてる。五、六メートルくらいの大きさで、現生のクジラの中では小型なミンククジラよりも小さいの。ガイコツ池は、湖の端が地震で崩れるまでは、もっと巨大な湖だった。古代のガイコツ池で、太古のクジラが、ひそかに子孫をつないでいたりしたら、すごく面白くない? 

水棲哺乳類の話じゃないけど、ヒマラヤ山脈と続いているチベット高原に、ヤクっていう分厚い毛皮を着た水牛みたいな動物が棲んでるの。ヤクは、マンモスとか、氷河期に生きてた毛むくじゃらの大型動物の生き残りらしいよ。ほかの毛深い大型動物が、氷河期が終わったあとの暑さで絶滅しちゃうなか、標高五千メートルで寒冷なチベット高原に逃れて生き延びたんだって。そんなふうに、太古のクジラがガイコツ池で生きていたら、って考えるとロマンがあるよね」

「ロマンねえ。ガイコツ池にクジラがいたなんて考えると、怖いけど。ネッシーもそうだけど、恐竜の生き残り系の巨大生物が湖にいるって話は、俺はぞっとするほうが先に立つなあ」

 ロマンを感じる対象は、人によって随分異なるようだ。

 私は、未確認生物の存在を追う、とタイトルされた、定期的に放映されるバラエティ番組の、情緒を不安にさせるようなサントラを思い浮かべて、身を震わせた。よくあるタイプの首長竜のシルエットが、不気味な鯨の影に器用に置き換えられる。

 ちなみにハープ橋というのは、いやおい市の東の端にある、新幹線の通る大きな橋である。橋の両脇には、規則的に鋼鉄のワイヤーが斜めに張られており、名前の通りハープに似た美しい橋だ。その近くには、きれいに地層が露出した場所があり、地元の小中学生は理科の授業で化石を掘りに行く。

 鹿島が、

「最後の氷期は、たった一万年前だぜ。八百万年前とは桁が違うでしょうが。これだから文系のロマンチストは」

などと哀れみを込めて首を振ったが、太夫は知らん顔をした。

「その正体が何にせよ、巨大な魚が近世のはじめまで湖に棲んでたのは確からしいの。魚がついに死んだときに、死骸を縄で引き上げようとしたけど、大の大人が十人がかりでも成功しなかったという記録が残っている。大魚の死骸は、手つかずのまま湖に沈んだ。そして死骸は水中で朽ちていき、巨大な骨格が残された。この湖の最初の名前は、鯨骨池だったんじゃないかと思うの。その音だけが伝わった結果、意味のわかりやすいガイコツ池に転じたんでしょう」

「あんた、やけに詳しいな。地域史について調べてんの?」

「ばあちゃんが色々話してくれるだけだよ」

 一瞬、目と目を合わせた鹿島と太夫の間に、火花が散った気がした。私は、状況がわからずにひそかに首をひねる。

「あの、太夫ありがとう。もうすぐ日も暮れるし、山道は気をつけて帰って」

「うん。あ、そうだ、今度アッキーのうちに来る野良猫触らせてよ」

 いいよ、と答えると、太夫は猫に触るときのことを想像したのか、口元をほころばせた。そうすると急に雰囲気がやわらかく華やぐ。

「太夫って猫好きだよね。飼ってるのは犬なのに」

「ばあちゃんが猫嫌いなんだよ。将来一人暮らししたら、絶対猫飼いたいなあ。もちろん、太郎冠者と次郎冠者のことは好きだけどさあ」

「猫、絶対だからね」と念を押す太夫に私と鹿島は手を振り、来た道を戻って言った。

 鯨の死骸が引き上げられていないとしたら、ガイコツ池にはいまでもその骨が沈んでいるのだろうか。

 巨大な背骨と胸骨が、暗い湖の底でほの白く光っているのが思い浮かんだ。

 いつのまにか、蝉の声はひぐらしに変わっていた。山の日暮れは早い。無言で山を降りる私たちの背中を、かなかなかな……というクローンのようなリフレインがどこまでも追いかけてきた。


第四話 竜胆 につづく

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