第5話 巻貝の塔

 昔から、大きくて複雑な建造物の出てくる夢をよく見た。夢の中の私は、そのとき通っている中学校なり高校なりの校舎の、現実には存在しない地下通路や隠し階段、秘密の部屋をめぐり歩いている。

 夢の中でとある場所を見て、「前にもここに来た」と感じることがある。その感覚はいったいどこから来るのだろう。以前にも夢で同じ場所を訪れたことがあるという、現実の自分の記憶に基づいているのか、それとも、夢の世界に入った時点で、夢の中の自分の記憶が一回限りで生成されるのだろうか。

 夢の高校には、幅が広く天井の高い裏階段があって、そこには行き着けるときと行き着けないときがある。夢の中の私は、裏階段の入り口を探しても見つけることができなかったことがある、という体験をどういうわけか前提として持っていて、「今回は」たどり着けた、とほっとしているのだ。

 小さいころは、現実にもこんな感覚がしょっちゅうあった。目的地にたどり着くことは、反復可能な試行ではなく、幸運が左右する事象だった。

 浅科川を渡ってショッピングモールに行く、広い二車線道路を敷いた橋がある。荒神橋である。その橋の半ばに、巻貝の貝殻を彷彿とさせる形の、螺旋階段で上る展望台が建てられている。

 小学校低学年のころまで、私はその展望台が、時によってあったりなかったりすると、家族に主張していた。兄の車でその橋を渡るとき、展望台を見つけられるときもあれば見つけられないときもあったのである。きっと、展望台のついている橋を勘違いしていたり、見当違いの方角を眺めたりして見落とすことがあったからだと思う。いまではもちろん、いつ橋を通っても展望台はそこにある。

 構造の複雑な巨大な建築物が好きだが、現実ではなかなか好みに合う建物が見つからないし、好きに探検するわけにもいかない。しかし、大学は唯一、気軽に探検できる複雑な建物群である。

 私は、教養学部図書館の裏を抜けて、文学部校舎の方に向かった。いまでは誰も視線をやらないようなあじさいの繁みの横に、「皇紀二六○○年記念 教員一同」と刻まれた石碑がひっそりと立っている。図書館の裏の道は、木々の鬱蒼と茂るトンネルのようになっていて、昼でも薄暗い。木下闇という言葉がぴったりくる。

 図書館の裏の入り口に続く階段に、白黒の猫がうつ伏せていた。太夫が好きそうだな、と思って一瞬立ち止まる。

 構内には、各学部の講義棟、教授の研究室棟、図書館、研究所、生協などがひしめき合っている。緑が豊かで、見栄えのいい大きな石などもそこここに置いてある。明治から最近に至るばらばらの時代に建て替えられているので、建物の外観はバリエーション豊かである。構内のいたるところにベニヤ板で作った立て看板が乱立し、サークルの紹介や学費引き下げを訴える文字が踊っている。

 私は、夏休みでひと気のない文学部東館に入った。

 文学部東館は、文学部本館ができあがる前に使われていた校舎である。現在、講義は専ら本館のほうで行われており、東館には雑誌を集めた書庫や教授の研究室などが置かれている。古い建物に特有の特徴だが、外壁や窓は装飾性が強い。大学の建物の多くがそうであるように、口の字型になっていて、中庭は院生や先生の喫煙スペースと化している。改築を重ねたせいで、階によって内装が大きく異なっているのが、私にとっては魅力である。

 一階部分には、文学部自治会が管理して、ほかの団体に貸し出している教室があるが、そこで何が行われているのか文学部生でも知る者は少ない。

 廊下には、学生運動が盛んだった時代のビラが糊貼りされており、「自己批判せよ!」などと特徴的な字体で書かれた赤いペンキのゲバ文字が、そのまま残っているところもある。天井の配線はむき出しである。

 一階から二階、二階から三階に上がる階段は、踏むたびにパコパコ音を立てるような、木のタイルをはめ込んだ床だが、三階から四階の階段からは、床も手すりも素材が現代的に変わり、踊り場が広くなる。

 三階には、学術雑誌を集めた書庫への入り口がある。書庫は一、二階をぶち抜いて作られている。書庫内の階段で移動するようになっており、一、二階の廊下からは書庫に入ることはできない。

 五階は、配線がむき出しでない代わりに天井がほかの階よりも低い。廊下の壁際には、「不要」のステッカーが貼られたシンクが寄せられている。窓に貼られたポスターに、「窓を開けるな。鳩を入れるな」と太文字ゴチックで記されていた。

 何度この建物を訪れても、廊下では誰ともすれ違わない。廊下側の天井に近い部分に窓がある部屋には、明かりは灯っているが、人の立てる物音がしない。

 窓から中庭を見下ろすと、大学院生か研究員らしい男性が二、三人、立って煙草をふかしている。中庭に立つ人は、四方の廊下から丸見えだ。喫煙所ではない場所で煙草を吸っている彼らを監視しているような気分になる。

 それにしても、大学には口の字型の建物が多い。きっと、自然光を内部に取り入れる中庭を作るためだろう。理学部の友人に聞いたことがあるが、理学部に入学した一回生の一部は、一年以内に教室に姿を見せなくなるという。大学に居場所を見出せないまま、鬱状態になってしまうらしい。わが文学部でも、成果を出せないまま博士課程で何年も送っている院生が、心を病んでいくという話はいくらでも耳にする。人が心身ともに健康に生きていくためには、健全な日の光が必要なのである。

 私は探索に一区切りをつけて、三階の雑誌の書庫に向かうことにした。古めかしい内装を残した薄暗い建物の他の部分とは打って変わって、書庫の入り口はガラス張りで明るい。カウンターでは女性の職員がパソコンを操作しており、数人の学生が雑誌のコピーを取っていた。

 オンラインの蔵書検索から、卒論のテーマに関わる先行研究の掲載された雑誌を探し当てた私は、目当てのページのコピーを取ろうとした。コピー機の使用記録のファイルを開いて、日付を指でたどった私は、気味の悪いものに肌を撫でられたように、胸がざわついた。

 一ヶ月前の日付の下に、コピー機の使用者として「須賀晶博」と細い鉛筆の字で記されているのである。しかし、明らかに筆跡が私のものではない。

 記載された日付の頃に、はたして雑誌の閲覧室を訪れただろうか、と記憶を探ってみるが、どうもあやふやである。同姓同名の人間が同じ学部の同じ回生にいるほど、ありふれた名前でもない。まるで、私と筆跡の異なるもう一人の自分がいるようで、気味が悪かった。

 コピーした雑誌を記録する欄には、国文学がどうとか、というこの大学の国語国文学研究科が出している雑誌のタイトルがあった。私自身が読んでもおかしくない雑誌である。

 私は、その雑誌をこの目で確かめてみることにした。

 定期的に刊行される雑誌は、年度ごとに黒いファイルに綴じられて、書架に納められている。

 私は急な階段を降りて、天井の低い書庫に降り立った。背表紙に記された雑誌のタイトルと刊行年をたどり、ずっしりと重量感のあるファイルを抱いて、該当の号を開いてみる。刊行年は、十年以上も前である。

 目次に書かれているのは、国文学の雑誌として特に違和感のない論文名ばかりだ。和歌における「も」の用法、弘法大師説話、水神との異類婚姻譚。中国文学を専攻する私にとっても興味のない内容ではなかったので、ぱらぱらといくつかの論文を流し読みする。そのうち重たいファイルに腕が疲れてきたので、書架に戻した。

 雑誌の内容には見覚えがなかったので、やはりコピー機の使用記録にサインを残したのは、別人の仕業なのだろう。私はことの奇妙さに首をひねりながら、文学部東館をあとにした。隣の建物の地下にある文学部図書館にも用があったことを思い出して、いまの不可解な出来事について考えながら移動する。

 自分の名前を書き残したくなかった誰かが、使用記録の中から適当な名前を探して、勝手に使ったのだろうか。しかし、それならそもそも記録など残さなくてもいいはずだ。使用者がきちんとファイルに名前を書き残しているか、逐一職員がチェックしているわけでもないのだから。それ以前に、コピー機の使用記録にさえ名前を残したくない者が、大学の中に入り込んでいるという時点ですでに不気味である。コピーされた雑誌を見た限りでは、自分の名前を残したくなかった理由が、雑誌の内容にあるわけでもないように思えた。

 私は、地下の文学部図書館に続く螺旋階段を降りた。どこも機能性しか考えていないような文学部校舎において、なぜかこの階段だけがしゃれている。私立大学ならともかく、地味で堅実な国立大学においては、この瀟洒なモダンさが不似合いですらある。屋内にある普通の階段のほうが使いやすいので、わざわざ螺旋階段を使う者はあまり多くない。

 螺旋階段は、コンクリート打ちっ放しの円筒の中に収まっている。足音が、カーブを描いた壁に反響した。階段の段には、煙草の吸殻が散らばっている。ここにもこっそり喫煙をしている不届き者がいるらしい。

 この螺旋階段を上り下りするたびに、一回生のときに受けた宗教哲学の講義を思い出す。チョコレート色の上着を着て、四角い眼鏡をかけた痩せ型の教授は、最初の授業でこう言った。

「この講義ではハイデガーやカントなどの著作を扱いますが、それらのテキストを初読で理解する必要はありません。一度読んで、理解できたところもあれば、理解できないところもある。理解できたところをとっかかりにして、もう一度読む。すると、一度目には理解できなかったところが、理解できるようになる。そしてまた、二度目にわかったところを大切にして繰り返し読む」

 教授は、何度か腕を回して中空に小さく円を描いた。

「何度も何度も螺旋を描くようにして、たどるようにして、テキストの理解を深めていくのです」

 理解できる部分も不可解な部分も頭に刻んで、螺旋を描くようにテキストを読み込んでいく。螺旋を降りていく途中には、ときどき古い煙草の吸殻が落ちていることもある。かつて私以外の誰かもまた、この螺旋を通ったのだ。私は一息ついて、知の深層へと続く螺旋階段を一歩一歩降りていく。

 短い螺旋階段はほどなく途切れて、明るい文学部図書館にたどり着いた。

 閲覧室には辞書類が置いてあるだけで、ほとんどの書物は地下書庫に収められている。

 文学部図書館は、全学共有の図書館、各学部の図書館、研究室ごとの図書室など、大学全体に二十近く存在する図書館・図書室の中でも最大の一一○万冊という蔵書数を誇る。しかし例えば、授業で紹介された概説書をオンラインの蔵書検索システムで探したとしても、その本が文学部図書館に収められていることは少ない。概説書や新書が蔵書として引っかかるのはほとんどの場合、二館ある全学部共有の図書館のどちらかである。文学部以外の学部生は、蔵書数が最大であるはずの文学部図書館とは一体なんだったのかという疑問を残したまま、大学を去ることになる。

 しかし、古い紙の匂いに満ちた広大な地下書庫に降りてみればわかる。書架にみっしりと詰まっているのは、哲学、史学、文学、地理学、心理学といった分野のあらゆる言語で書かれた原書である。英語やヨーロッパ諸語、漢文で書かれた書物が一体どれだけあるのかは及びもつかない。アラビア語の書籍だけでも、十を下らない書架を占有しているのだ。蔵書として受け入れられてからいままで、一度も借り出されたことのない本は、どれほどの数に上るのだろう。

 まるで、一○○万冊の書物という滋養豊富な土が、地上に研究や教育という花を咲かせているようだ。

 電動書架は、お互いにぴたりと身を寄せ合っている。本を探したい書架のボタンを押すと、ゆっくりと動いて本棚と本棚の間に通路が開き、書架の中身が見られるようになる仕組みである。

 地下書庫は、背の高い書架で視界が遮られるだけでなく、いくつもの部屋に分かれているので、何度訪れても迷宮のように全体像がつかめない。ところどころに蔵書検索用のコンピューターが設置されている。書籍一冊ごとに割り振られた番地を調べてからでないと、とても目指す本を探し出すことはできない。授業で専門分野の原書の訳読を課された学部生は、膨大な書庫から参考図書を見つけ出して、おっかなびっくり注をつけるのである。

 地下一階をさまよっていると、本棚の狭間に唐突に、更なる地下へと続く階段が現れた。「G書庫(考古学)はこちら」という表示に導かれて奥へ奥へと突き進んでいけば、部屋の壁に突き当たり、右手に上り階段があった。私も初めて見る階段である。

 上った先は、その階段以外の入口のない部屋だった。つまり、この地下一階に存在する部屋に行き着くには、地下一階の書庫入口から入り、一旦地下二階に降りて一番奥まで進んでから、再び階段を上るよりほかにないということである。

地下二階の書庫には、図書目録のカードを収めた、小さな引き出し付きの棚が並んでいる。

 私は、無数の小さな引き出しに入っているおみくじを想像した。確か、おみくじをそんな風に収めた寺があるのをテレビで見たことがあったのだ。図書館の地下の迷宮にひっそりと蓄えられたおみくじ。きっとそこに記されているのは、運勢ではなく、この世の一人一人の運命なのだ。

 ——わたしたちは、一緒にはいられないんだ。

 不意に、そんな言葉が浮かんだ。

 映画や小説に出てくるようなドラマティックなセリフがある一時期、ずっと頭を離れないことがある。最近は、ふとした瞬間にこの言葉が、水中に沈めて手を離したビート板のように勢いよく浮き上がってくるのだった。

 愛する者と必ずいつかは別れねばならないさだめは、仏教の八苦に数えられる苦しみだ。愛別離苦こそが、この広大な地下書庫にも眠っている古今東西数多の文学作品を生んできた。

 ——一緒にはいられないんだ。一緒にいてはいけないんだ。

 なぜ?

 私は、合わせ鏡のように無限に広がる書架の狭間に立ち止まった。しかし、私の問いに答える声は、どこからも聞こえてこなかった。


第六話 エレベーターの怪 につづく

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