第28話 謀略・炸裂?!

 そろそろ、谷橋さんの県議選のお話に入ります。


 岡山市が政令市のため、市議選と県議選は同一日程ですから、常木さんの選挙と同時に、宇野市での県議選も行われます。

 私としては、常木との絡みがある中、いささか不義理的な行動をしたわけですけれど、永野さんがらみということで、選挙期間中、一度だけ、宇野市まで選挙観戦に行きました。公示の翌日に、A市に戻って投票を済ませてくるという話で、ほぼ1日休みをもらっていましたからね。その戻りの駄賃で、宇野市入りしました。


 その日の昼過ぎ、宇野市内のある港の船着き場で、この写真の近藤候補が何人かの運動員とともに、演説していましたが、さして人は集まっていなかった。一方の谷橋陣営は、大いに動員をかけていて、およそ200人前後の人が集まっていたように見えました。


「私のスローガンの「支える力」というのは、政治家である私が市民の皆さんを支えてやるための力という意味では、ありません・・・」


 宇野市内のあちこちには、近藤さんの陣営の「支える力」と明朝体で大きく書かれたポスターがたくさん貼られていました。掲示板用の5号ポスターにも、この通り、「支える力」のスローガンが書かれていますよね。私は常木陣営に常駐していましたし、すでにお話したとおり、永野さんは常木事務所から名簿の件で出入禁止を食らっていましたから、連絡は電話がほとんどでした。そのたびにいつも永野さんは、「支える力」というスローガンを引合いに出して、あいつ一体何様だと思ってやがる、ってことで、「まち掲示板」とか何とか、地元情報の書込みのできる掲示板に、市民のふりをして書き込んでくれと言われていたので、常木事務所に持ちこんでいたノートパソコンから何度か書込みをしました。永野さんの弁では、その書込み、結構効果があるとのお話でした。それが証拠に、「支える力」というスローガンについて、わざわざ釈明をしているではないか、とおっしゃるわけです。これもお得意の「謀略」的な手法の一つだ、とのことでしてね。


 謀略的な手法はもちろん、こればかりではありません。その日の谷橋候補の演説はまさに、その「謀略的手法」が最大限に発揮されたものでした。

 さて、近藤さんの陣営が、向かいの島にいよいよ船で出発という段階になった、丁度その時、向いの島から、数十人の人たちが、何隻かの船に便乗して、谷橋候補の応援にやってきました。永野さんが会場の船に向かって、何やら合図をしました。その合図と同時に、曲名は忘れましたが、演歌が大音量でかかりました。ウグイスの女性が、そこをまた、感極まったかのような口調で、向いのナントカ島から応援がやってきたことを皆さんに告げる。そしていよいよ、谷橋候補の演説が始まりました。演説自体はおよそ10分ほどでしたか。それが終ると、最後は、船で来た人たちが皆で大漁旗を振りまくり、ウグイスさんの掛け声で、ガンバローコール。ちなみにそのウグイスの女性は、中条まどかさんといいます。2005年のK市増員選挙の折に水原哲治候補の陣営に来てウグイスをされていた人で、岡山市中央区の丹生候補が出られた県議補選にもウグイスで来られました。普段は司会者業をされていますが、この手の仕事、選挙になると引く手あまたの方です。

 考えてみれば、近藤候補はこれからその向かいの島に言って演説する、でも、行った先には人がいなくて、アレレノレ、って感じになって意気を削がれて帰ってくる、という構図が描かれているなと。それからまたしばらく岡山市内で常木陣営の仕事があるため、A市内のアパートには戻らず、岡山市内の叔父宅に帰って永野さんに連絡を取ったら、やはり、それを意識して組立てた「個人演説会」だとのことでした。

なぜそんなに図りきったようにうまいこと、日程が組めるのかとお聞きしたところ、


 わしの息のかかった者が、近藤陣営にも住友ネコ陣営にもおるからな。そこから対立陣営の情報はみな、わしに集まってくる。


とか何とか。

 そりゃあ確かに、うまいことやればそのくらいできましょうよ、とは思うものの、その一方で、何とも言えない違和感を得ました。

 そのときは、まあ、そんなものだろうと思って、まったく想像がつきませんでしたが、今思えば、逆に、谷橋陣営の情報もまた、近藤陣営や住友陣営にも流れていたのではないか、特に民自党系の近藤陣営には・・・。それに気づかされたのは、谷橋さんと先日メールでやり取りしたときで、すでに永野さんが亡くなられて後のことですけどね。


 その選挙、結果的には、近藤さんがトップ、住友さんが二位でそれぞれ当選して、議席を守りました。市議から転身を目指した谷橋さんは、あと1000票以上足らずに次点に終わりました。

 ひょっと、創明党が近藤さんから谷橋さんに全面的にどっと支持を動かしていれば、住友さんか、場合によっては近藤さんが落選し、谷橋さんはそれで当選できたかもしれなかった。その選挙の谷橋候補の敗因は、どなたに聞いても、

「創明党の裏切り」

だと言っていました。候補者本人だった谷橋さんも、それを認めていました。

 そればかりじゃありません。

 永野さんの選挙の「読み」、まったく的外れだったとさえ、おっしゃっていました。それは単に落選してしまったからとか、そんな単純なものではなく、かなり積もり積もったものが、谷橋さんにあったのだとしか言いようのないことばかりでしたね、聞かされた内容自体がねぇ・・・。


 谷橋さんのお話では、4年前のその選挙、いろいろな人の話を総合すると、どうも、ある人たちによって「仕組まれた」選挙だった、というのです。どこまで関与しているかわからないが、その仕組まれた選挙をプロデュースしていた人の一人が、永野さんだったと。選挙を「仕組む」ことでどういう目的を達成しているのかが曖昧でよくわかりませんが、ひとつには、谷橋さんを市議から県議に「鞍替え」させることで、仕組んだ人の息のかかった別の市議を一人誕生させること、それに加えて、宇野市議会で煙たいと思っている人たちが、と言っても、協産党や創明党系統ではなく、保守系内の別の一派の人たちですけど、そんな人たちが、谷橋さんを体よく追い払おう、県議になっても、落選しても、どちらに転がってもそれで一つは目的が達成できるから、ということなのかなとも思っていますが、この推理が正しいかどうかは、わかりません。もしそうだとするなら、結果的に谷橋さんを持ち上げて、はしごを外してやったというところでしょうかね。


 現に谷橋さんは、今回の選挙では県議選にも市議選にも出ておられませんからね。

 それから、肝心の永野さんがらみの件ですけど、宇野市長の赤田さん以上に、谷橋さんは嫌がるどころか、むしろ、今も怒りに震えておられます。というのも、彼は谷橋さんの市議時代に、ちょくちょく、30万円貸してくれとか何とかいって、最初と2度目は普通に返し、3度目に至っては、そこまでいいのにと言うにもかかわらず、半年後のどこかでの選挙のあった直後だったかに、10万円の利息というか手数料というか、色まで付けて返しておられます。そういう金の返し方を人に勧めるのは、永野さんは「ヤー公の論理だ」と言っておりましたが、この時の10万円は、そういう趣旨ではなく、その選挙で関わった候補者が当選したから、その祝いの一部だとのことでした。それからまた半年経ったころ、今度は60万円貸してくれと言われて貸したら、今度はそれっきりになってしまったまま、数年間返されることなく、亡くなられてしまった。そういうこともあって、県議選への鞍替え選挙の時は、報酬を半年間月あたり25万というところを、半額以下の月12万円にしてもらったとね。岡山市議の常木氏の秘書をしていて、そこで毎月30万円もらっているなんて言われて、ホンマかいなと思っておられたようですが、私が先日、常木が秘書として、あるいはそれに類する仕事をしてくれということで、これまでに永野さんを雇っていたという事実はありませんと申し上げたら、やっぱりそうですか、って。

 2013年頃までは、それまでの保守系筋からの声はかからなくなっていたものの、常木とのつながりのおかげで、元市議の丹生芳香さんの県議補選や元県議の草津隆雄さんの市議補選の選挙で活躍されましたが、その頃を境に、何があったのかはわかりませんが、南西区の自宅を、といっても、昔から住んでいた持ち家ではなく、それを売って後に東京から帰ってきた際に賃貸で借りた家でしたけど、そこも退去されました。家賃が高いからということで、岡山市と宇野市の間のぼろぼろの平屋の一軒家を借りて、そこに住まれるようになりました。なんだかんだで、宇野市には知人もいるし、そこに近いから助かる、というのもありました。奥さんとはこの頃すでに別居されていて、奥さんは宇野市のはずれにある実家から、時々、永野さんの様子を見に出て来られることがあった程度です。


 そうですね、2012年の県議補選とその後の衆院選が終わった頃までは、まだ金回りもよかったようですけど、2013年の市議補選が終ってしばらくしたころから、傍目にも明らかに、永野さんの金回りは悪くなってきたなというのを感じました。金回りが悪くなるのに反比例して、永野さんの酒の量も増えてきたようで、身なりも、それまでの小奇麗さが失われていくのが、息子ほどの年齢の私にさえも、手に取るようにわかりました。

 背に腹は代えられなくなってきたようで、その頃から永野さんは、常木の事務所に出入する支持者の方から、寸借何とやらではないですが、自宅に帰る交通費がないので1万円貸してくれとか5000円貸してくれ、そんなことを言って借りては返していたのも、だんだん、返せなくなってきました。さすがにそういうことが続けば、周りも考えるでしょう。大体ですね、そのお金で何をするかと言えば、帰る前に缶ビールを買ってひっかけてみたり、そうかと思えば煙草を買って吸っていたりで、諸先輩方も、相当呆れておられましたね。それに追打ちをかけたのが、常木事務所の名簿横流し事件ですよ。

 その件について、ご本人にそれとなくお聞きしてどんな答えが返ってきたかと言えば、こうなる可能性があることは百も承知でやっている、目的達成のためなら、悪魔とでも手を結ぶし、このくらいは普通にやる。もっとも、君はこんなことをしてはいけないし、また、する必要もないが、と言われました。

 永野さんはこれを機会に、常木事務所からは出入禁止にされて合鍵も没収されましたけど、常木と私との関係は、それぞれ独自に、永野さんが亡くなられるまで続きました。ただ、常木事務所に出入する他の人たちとの関係は、これをきっかけにほとんどなくなったようです。結局、その後も永野さんとお付合いがあったのは、常木事務所では、常木市議本人と私だけでした。前回の衆議院議員の総選挙の時は、立憲民社連がらみの候補者の選挙カーの運転手の「派遣」とか、そういうことで常木と協力関係はあったようで、それが、永野修身さんにとっての最期の「選挙」でした。この時は、宇野市議の田井幸一さんに紹介された北林信哉さんを、選挙カーの運転手として数日間「派遣」させただけで、ご本人は特に何かをしたというわけでもありませんでした。永野さんはすでにこの頃、足をかなり悪くされていて、無職で時間のある北林さんにクルマを関係者から回してもらって、それを足として北林さんに運転をさせて、日常の用事を済ませることが多くなっていました。


 もうひとつ、亡くなられる2年ほど前でしたか、半年弱、宇野市内の明星作業所という、障碍者の施設で仕事をされていたことがありました。当時の永野さんの弁では、岡山県との折衝とか、そういうことを本来しなけりゃいけないのだが、人手があまりにないので、ずっと宿直や、これで8日連続だ・・・、まあ、夜は寝られるし、こっそりだが酒も飲めんことはないから、何とか持っておるが・・・、とか何とか、そういう調子でした。宿直室でこっそり酒を飲むなんてところが、いかにもあの人らしいところですけどね。

 その作業所はバスの路線から離れた場所にあって、ご本人はすでに運転免許を返納しているし、通えない。そこで、北林さんにクルマをあてがって、それで通勤されていました。そのついでに、北林さんにも炊事場の仕事をさせていました。その間は確かに、それなりの金にはなったようで、いくら貸してくれとか、そういう電話はあまりかからなかったですね。一時期、私にもその作業所で宿直をしてくれんかという話は出ましたけど、そのうち、うやむやのまま立消えになりました。あんたには、この仕事は向かないし、無理だ、とか何とかいわれましてね。実際に作業所に紹介しようとされたのかどうかは、正直なところ、わかりません。まあ、こういう「企画倒れ」的な話、確かに多かったですから。

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