第23話 作り直す前の名刺

 西沢君は歌が上手くてね、岡山市の街中に「あじあ」なんて名前のバーがあって、何でも、戦前に満鉄に勤めていた人がオーナーで、あの特急「あじあ」の名前を店の名前にしたってことでな、「あじあ」号の写真も何枚か飾られていた。そこは生バンドの演奏できる設備が整っていて、生演奏をバックに、彼は岡本敦郎さんが歌っていた「高原列車は行く」を歌ってくれたよ。

これがまた、絶品だった。あまりにうまいので、思わず聞いたほどだ。

「茂、野球もいいけど、いっそこの際、歌手でも目指したらどう?」


ってな。彼が言うには、こうだ。


「歌手ねぇ・・・、それもいいなと思うけどさぁ、哲郎、俺な、神戸の実家の親父から家業の洋菓子店を継げと言われているだろ。加えて、野球は程々にしとけ、ってことで、この正月、なんて言われたかと言うとだ、まあ、聞いてくれよ。大阪タイガースの投手で小山正明さんや渡辺省三さん、いるだろ、茂がいくら頑張っても、いまさら小山や渡辺省三ぐらいの大物になんてなれっこないだろう、茂は茂でも、杉下茂なんて、とんでもない、大体、プロ入り時点で投手失格を宣告されているじゃないかって。俺が、巨人の川上哲治さんだって投手失格で打者になったじゃないかって言ったら、こうきたよ。確かにおまえは右投げで内野はどこでも守れるかもしれん。そこは左投の川上よりは、打者の入口としては、確かにチャンスは広いかもしれんって。親父は戦前からのタイガースファンだから、こちらがすかさず例えを変えて、タイガースの吉田義男さんや三宅秀史さんを目指す、なんて言ったら、今度はあっさり却下だ。いわく、おまえが今から頑張っても、吉田や三宅のレベルなんて見込みなし、って。さらにな、茂は茂でも、千葉茂にはどうあがいても追いつかん、だってよ。しかもこの後ダメ押しまでされて、同じ西沢でも、中日の西沢道夫みたいな強打者を目指そうとしても無理、西沢どころか、それこそ、吉田や三宅ほども打てるようにはなるまい、さっき川上の名前が出たが、一塁守備は川上より今でも十分上手いかもしれんが、その程度では、プロではやっていけんわな、それこそ、吉田や三宅ほども打てないおまえが・・・おこがましいにも程があるぞ、って。やっと少しは持ち上げてくれたかと思ったら、思いっきり落とされて、参った、参った。じゃあ、俺、あちこちのバーで歌って、プロの歌手になれるぞって言われたから、この際東京で修業して歌手になると言ったら、親父、あきれ果ててなぁ、歌手なんてやくざな稼業、間違えても足を突っ込むな、歌なんか、仕事の余興にとどめておけ、なんて言われてしまった」


「おいおい・・・、聞けば聞くほどに、笑えないぞ、それ・・・」


「哲郎もよく言われていたそうじゃないか、前の浜中監督に。こんなポンコツと飲兵衛と、あとは目が出るかどうかも覚束ない若造ばかりの球団の野球なんか見てないで勉強しろ、って。先輩方は、怒るのを通り越して苦笑いしていたみたいだけどさ、特に酒の好きな人たちは。その中でも、まともに1軍でレギュラーになる見込みもない選手だからね、俺は。去年は何試合か代打とか守備固めとかで出させてもらって、ようやく63打席でヒット14本、そのうち本塁打が2本。本塁打のうちの1本は、確かに西鉄の稲尾から打ったけど、試合の流れも決まってしまった後の、打たせてもらったようなものだったしな。稲尾も含めてエース級から打っているとは言われたけど、これは奇跡だぞ。パリーグでもよそのチームだったら、これほども打席に立たせてもらえていないはずだからな。ユニオンズだから出られて、お情け程度でもヒットが打てた、ってことだな」


「あの売出し中の稲尾から打った本塁打の話、新聞で見て、びっくりしたぞ、わしゃ。もう1本は、阪急の梶本だっけ。「左殺しの西沢」なんて、スポーツ新聞に書かれていたじゃないか。勝越しのヒットを打ったのも、確か、梶本さんからだったよね。それと三塁打は、南海の皆川さんからで、二塁打は、毎日の中西勝巳と西鉄の畑からだろ。なかなかどれも、打てるピッチャーとは思えないぞ、素人見立てかもしれないけど。そこまで自虐的にならなくてもいいだろう。ところで茂、何でわざわざプロ野球なんか入ったのよ? わざわざユニオンズのテストなんか受けてまで。なんか、矛盾していないか? 洋菓子屋を継ぐのなら、自分の店でもよその店でもいいから、さっさと修業したらいいじゃないか・・・」


 西沢青年は、プロ野球選手らしからぬことを実は求められていたのである。それはあたかも、社会人としての「現場研修」そのものであった。

 まあ、そうとしか、言えないような話ではあったね。


 哲郎からすれば意外に思うかもしれないけど、親父が、社会勉強でそういう世界に入って勉強してくるのなら構わん、折角高校まで野球をやっていて、プロからも来いと言ってくれたのなら、と言ってくれたからよ。とことんやっておけば、諦めもつくだろう、ってことさ。名誉のために言っておくけど、別に、目先の金の問題じゃないからね。南海の野村さんみたいに、テスト生で採用された場合はほとんど契約金なんてない場合も多いけど、親父が上手いこと交渉してくれて、十万少々の契約金をもらうこともできた。父はそれで、背広その他一式、服を買え、ってわけ。要は、「営業研修」のためだよ。名刺は、さすがに父の会社の経費で作ってくれたけどね。下手に同業者で修業するより、他の世界も知っておいた方がいい、って。

 だから、野球をこの1年、できたわけよ。曲りなりに。


 ただ、プロ野球に行くにあたって、2つばかり、条件を付けられた。

 一つは、球団にいる間は、関西弁を極力使わないこと。


 何もこれは、川崎ユニオンズが関東の球団だからというわけやない。将来仕事を全国展開していくことを意識して、きちんと標準語で話せるようにしとけ、ちゅうこっちゃ。哲郎の前でも、わい、ほとんど関西弁、使ってへんやろ? あ、今、使ってもうとる(苦笑)。それはええけど、俺が野球をやって遠征で全国を回る機会ができたのは、親父にしてみれば、次の手を打っていく上での布石として、渡りに船だったわけ。人脈とやらを作るには、絶好のチャンスや、ちゅうこっちゃ。

 もう一つが、まさにそれや。

 球団のある地元はもとより、遠征などであちこち行くときも、きちんと挨拶をして、人とのつながりを作ること。それも、具体的なノルマを与えられて、この1年間で、名刺最低400枚配れと言われた。それで、入団時に、親父から俺の名前入りの名刺500枚を渡されているわけだよ。これはさすがに俺の契約金じゃなくて、親父の家業の会社の経費から出ているよ。どこぞの会社の新入社員の飛込営業の研修みたいだろ。まあ、俺は「職業野球選手」、ってことになるから、皆さん、物珍しくもあって、喜んで受け取っていただいているけどね。名刺が引き金で、色紙にサイン暮れなんていう人も結構いてなあ、参ったよ。誰かスター選手のサインをもらって来いとでも言われるかと思いきや、意外とそれはほとんどなくて、君のサインをぜひ、なんて言われる。ある人なんか、俺の色紙と名刺を、早速額に入れて応接間に飾っているってよ。

 ご存知の通り、俺は幸い1軍にそれなりの期間いられて、遠征が結構あったから、ノルマはほぼ達成できている。三田のスターで俺と同期入団の佐々本信二さんがいるでしょ、あの人がいろんな人を紹介してくれて、おかげですごく人脈が広がったよ。でも、スターの先輩にいつまでもおんぶに抱っこってわけにもいかないだろ。そんな調子じゃ、いつか相手にされなくなる。だから、こうしてキャンプに来たときでも、滝沢旅館とか、お世話になるところやなったところには、名刺を出して、きちんと挨拶をするようにしているのさ。哲郎にも渡しただろ、川崎ユニオンズ内野手、という名刺。あれもう一度渡すから、ほら、よく見てよ。実家の洋菓子屋の屋号と連絡先も入れているでしょ。あ、これでようやく400枚目だ。しかし、よりによって400枚目が、同級生の大宮哲郎君だとは、ねえ・・・。この箱がちょうど4箱目で、最後の1枚だからさ。封を切っていないあとひと箱、丸々残っているよ。だけどひと箱じゃ、持っても4か月だよ、俺の動きからして。だから、来年度にむけて、追加を頼まないといけないと思って先日親父に追加を頼んだら、今年はちょっと状況がわからないから、しばらく待てと言われた。まあ、噂にある「解散」なんてことになったら、他球団に行っても、野球を辞めても、どのみち刷り直しというより、作り直しだな、名刺も。

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