6 JDは動き、JSは妬く


 ななちゃんが初めてうちに来た日から数日経つが、私たちは相変わらず、ベランダでお喋りしたり勉強を教えたりすることを日課のように続けていた。

 ななちゃんからも私からも、またどちらかのおうちで会おうという提案はしていない。


 正直、『私にとってはコレくらいの距離感が丁度いいのかもしれない』などと思ってもいた。

 しかしどういうわけか私は、心のほんの一部分で、またあの日のように壁を取っ払ってななちゃんに会いたい、などと思ってしまっているらしい。


 ななちゃんと実際に面と向かって顔を合わせたあの日も、私はこれまでにななちゃんに対してしか感じたことない感覚を覚えた。胸の奥底がじわっと温かくなるようなアレだ。

 たぶん、そのせいだ。それがいやに心地良い。

 他人と関わることに心地よさを感じるなんて初めてのことだ。



「莉々さん、私はねえ、そんな私自身に困惑しているのだよ」

「ほーん、とりあえず優花から会おうって言えばいいじゃん。ななちゃんとやらは恥ずかしがり屋さんなんでしょう? なら優花から言ってあげなよ」


 学食のテーブルの対面に座る莉々が、眠そうに細める目を私に向けて言った。


「いやいや、ななちゃんは小学生だよ? それって……どうよ?」

「知らんよ」


「知らんよじゃないよ、自分の意見に責任を持ちなさい」

「別に、友達ならいいんじゃないの。向こうのお母さんも知ってるんでしょ」


「そっか……いやでも友達か、友達なのか? ななちゃんは私のことを友達だと思ってくれてるの? まあ間違いなく私のことは好きだろうけどさあ」

「やかましいなキミ」


 莉々が手元のカップを持ち上げ、唇を湿す程度に軽く傾けた。


「それにしても人間関係に頓着しない優花がこんな相談をねえ。私のことももっとそういう風に思って欲しいものだね」

「はは、微塵もそんなこと思ってないくせによく言うわ。それに、莉々には違う方向性の信頼があるので」


 頬杖をつく莉々が口元を僅かに緩め、「そうですか」とこぼす。


「はあ、あれからななママにも遭遇できてないしなあ……運が悪い」

「ななちゃんのお母さんねえ」

「そ。ななママなら簡単に話つけられるだろうしさ。それとは関係ないけど、ななママがまたお茶目で可愛いのなんのって」

「へえ。お母さんに会いたいならそれこそ普通にピンポン鳴らせば済むことじゃん」


 莉々の言葉に、ハッとする。ヤバい、そんなこと全然思いつかなかった。

 マンションの廊下とか、ベランダとか、偶然会うことしか頭になかった。

 私の反応に色々と察したのだろう莉々は、可笑しそうな、それでいて困ったような笑いを漏らした。




 莉々と別れて、私はいつものごとくまっすぐに自宅へ帰った。

 マンションの下から、遠く頭上でピョンピョン跳ねるななちゃんに手を振り返し、エントランスを抜け、エレベーターに乗り、十階で降りる。廊下を進み、いつもならななちゃん家のドアを通り過ぎるのだが、今日はそこで立ち止まる。

 時刻は六時半。大学の学食で莉々とダラダラ時間を潰してしまったせいで、いつもよりも帰りが遅い。

 ななちゃんのピョンピョンが通常より激しかったのはそのせいかもしれない。


 一瞬ためらった後、インターホンを鳴らした。

 すぐにドアが開き、ななママが姿を現した。こう近くで向かい合うと、思ったよりも小さく感じる。

 ななママが小首をかしげ、にこりと微笑む。この笑顔、癒されますなあ。


「優花さん、こんばんは」

「あ、こんばんは。突然すみません」

「いいえー。どうぞ入って」

「えっ、あっ、えっ?」

「どうぞー」

「あ、はい……お邪魔します」


 気づくと、私は古渡ふるわたりハウスに足を踏み入れていた。

 あれれー、中にお邪魔するつもりは一切なかったのに、いつの間にか入っていたぞ。

 これがななママのチカラか。

 

 廊下を歩きながら周りに目を向ける。どうやら、私のうちとは間取りが反転しているらしい。なんだか不思議な感じがする。

 リビングに案内され、勧められるままに椅子に座った。ななママもテーブルの対面に腰を下ろした。

 ななママが興味津々という具合に身を乗り出してくる。


「それで優花さん、今日はどうしたの? ななに会いに来たの?」

「あ、いえ、そういうわけじゃないんですけど」

「あら、だったら私に会いに来てくれたの? ななに怒られちゃうわねー」


 なぜか嬉しそうに言うななママ。

 あながち間違いではないのだけど……ふわふわした人だなあ。

 とりあえず愛想笑いをして受け流し、私は早速本題に入ることにした。


「あのー、ななちゃんにベランダで勉強を教えてるじゃないですか」

「うん、いつもありがとうね。素敵な家庭教師さんがついてくれて嬉しいわー」

「いえいえ。それでその、やっぱり仕切り板越しだとやりづらいかなあ……なんて思ったり」


 なんだか後ろ暗くて言い訳がましくなってしまう。

 言葉を濁す私の様子を見て、ななママが面白そうに口を手で覆った。


「うんうん、そうよね、ななもあの日からずっとソワソワしててまた優花さんに会いたそうにしてたのよ」

「そそそそういうわけでは、私は別に……会いたいとかそういうわけではなくですね」

「あらそうなの? ななー、そうなんだって」

 

 不意に、ななママが私の背後に視線を送る。瞬間、ドキリとして肩が跳ねた。

 はああああ、ななママがいじわるだあああああ!

 恐る恐る後ろを振り返ると、僅かに開いていた後ろのドアがゆっくりと動き、ななちゃんが顔だけを覗かせた。

 むくれた表情がかわいい。


「ゆーかお姉ちゃんがお部屋に帰ってこなくてピンポン鳴ったからもしかしてと思ったら、お母さんと仲良さそうに話してる……」

「えっ、そこですか」

「うん。お姉ちゃんのことくらい分かってるからいいよ。お姉ちゃんは見栄っ張りで素直じゃないもんね」


「あら、優花さんのそんなところも可愛いわね」


 ななママが便乗してからかってくる。

 やばい、なんかこの親子のペースにはまったら非常にやばい気がする! 話題を戻そう!


「そこで、ななママにお願いがあるんです!」

「ななママ?」


 勢いあまって口に出して『ななママ」と呼んでしまった。背筋が凍る。

 しかしななママは、笑いをこらえるように口辺を震わせていた。


「し、失礼しました」

「ううん、好きに呼んでちょうだい」

「あっ、はい……それでですね、これからは直接対面して勉強を教えられたらな、と」

「うん、私は最初から大歓迎よ。いつでもうちに来ていいし、いつでもななをお持ち帰りしていいよ。ね、ななもそう言ってくれるの待ってたんだもんね」


 すると、私の頭のすぐ上から「うん」という声がして、ななちゃんの両手が私の肩にかけられた。

 いつの間に移動していたんだ、全然気がつかなかった。


「またこうやって会いたかった。お母さんは『一度背中押してあげたんだから、それくらい自分で伝えなさい』って言うし、私からは……ムリだし、お姉ちゃんからも言ってくれる気配もなかったから、すごく嬉しい」


 もしかして、だからななママは有無を言わさずに私を中に招き入れたのだろうか。ななママ、恐ろしいな。

 

「でも、勉強のためっていうのを口実にしようとするのはちょっと考えものね」

「えへへ、素直じゃないお姉ちゃんかわいい」


 あれっ、なんか私がめちゃくちゃななちゃんに会いたがってたみたいになってない? 

 なに勝手にふたりでほっこりしてるんですか!

 

 よし、話は済んだし私はもううちに帰るぞ。全力で逃げてやる。

 肩に置かれたななちゃんの手をつかみ、腰を上げる。 


「それでは私はこれで、失礼します」

「もう帰っちゃうの? ななのこと持って帰る?」


 ななママ、本気ですか、冗談ですか、わかりません!

 とりあえず、拒否しておくことにする。


「いや、遠慮しておきます」

「あら残念」

「そ、それではまた」

「またいつでも来てね」

「はい、ありがとうございます。ななちゃんも、またね」


 ななちゃんを見下ろして言うと、ななちゃんは私の手をきゅっと握り直し、上目遣いにコクコクと頷いた。


「うん、バイバイ」




 数分後、私とななちゃんはベランダで衝立越しにお喋りをしていた。

 結局こうなるのよ。


「ねー、お姉ちゃん、今日はどうしていつもの金曜日より帰ってくるの遅かったの?」

「んー? ちょっと学食で友達と話してたから」

「……は?」


 ななちゃんが静かになる。

 あーあ、そういえばななちゃんってお母さんにも妬いちゃうくらいヤキモチやきだったなあ。言わなければよかった。


「お姉ちゃんって、友達いないんじゃなかったの?」

「いやいや、たくさんいるって言ってたでしょ」


 たくさんはいないけどね!


「ふーん……がくしょくって何?」

「大学にあるご飯食べたりするところよ」

「へー……へー……そうなんだ……へー……」


 悩ましげな声を出しながら、ななちゃんが隙間から手を差し伸ばしてきた。

 

「お姉ちゃん……手」

「は、はい」


 若干尻込みしつつ、彼女の手をとる。

 何かフォローが必要ですかね? そうですかね?


「あのー、ほら、こうやって手を繋ぐのはさ、ななちゃんだけだから」


 これでいけるか? どうだ!

 ななちゃんの様子を伺うと、少しの間があってから声を弾ませた。


「ほんとっ? えへへ、お姉ちゃんは私のものだもんねー」


 ふっ、ななちゃんちょろいわ。


「それに、さっきななちゃんのおうちに行けたのもその人のおかげなんだよ」


 私の余計な一言に、ななちゃんは「ふんっ」と言って手を握る力を強めた。

 まあ、あんまり痛くはないけども。


「なんか負けてる気がする」

「え、勝ち負けとかあるの?」

「あるに決まってるでしょ、私負けないから」


 語気を強めて決意するななちゃん。

 おおー、莉々くん、なんか君の知らないところで敵を作ってしまったよ、ごめんよ。でも少し面白そうだから放っておくよ、ごめんよ。


「ねーねーお姉ちゃん、明日大学お休みだよね? お姉ちゃんのお部屋行ってもいい?」

「うん、いいけど、何時ごろ?」

「あさイチで!」

「それは勘弁して」


 苦笑した時、ななちゃんの部屋から「あら、ななの方からアタックしちゃうのね」という楽しそうなななママの声がした。


「お母さん、勝手に入ってきて盗み聞きしないで!」

「晩ご飯できたから呼びにきたのよ。この子ったら、何かきっかけがあれば積極的になるみたいね。ねー、優花さん」


 なぜかそれを私に言い残し、スタコラと去っていくななママの足音だけが聞こえた。


「もー、お母さんってば……」

「あはは、可愛いし面白い人だよね」

「むう……お姉ちゃんはちょっと、お母さんと話すの禁止ね」


 この衝立の向こうで、ぷくーっとむくれているんだろうなあ。


 こうして今日またほんの少し、ななちゃんとの関係が進歩したのだった。



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