7 ふかふかふかふか


「お母さーん、アイスないー?」


 朝。

 うだるような暑さに、私は寝起き早々リビングのソファに倒れ込んだ。

 台所に立っていたお母さんが、眉間にしわを寄せてジト目をくれる。


「それくらい自分で買ってきなさいよ」

「やだよこの暑いのに……てかなんでクーラー入れてないの? 暑さで溶けそう、アイスのように」

「だったら自分の部屋に戻んなさいよ……ななちゃんほっといて何してるのよ」

「んー、そうするわー」


 はあ、ママンが冷たいよ、アイスのように。……全然甘くないけど。

 

 しょうもなさに心の中でアハハと笑ったその時、遅れてやってきた謎の違和感にドキリと心臓が跳ねた。

 寝起きと暑さでボーっとする私の脳は、しばらくの時間を要してようやくお母さんの言葉に疑問を抱えることができた。

 ソファに肘をついて上半身を起こす。


「ちょっと待って、ななちゃんが何て?」


 お母さんがきょとんとする。


「は? ななちゃんがあんたの部屋にいるでしょ」


 あー、なるほどね、ななちゃんが私の部屋にね。


「いやいやいや、なにそれ、今の今まで私寝てましたよ。ってか今何時!」

「十一時」


 そういえば昨日、ななちゃんが十時には私のとこに来ると言っていたなあ。そのことは昨日お母さんに話してたし、普通に私の部屋に通したんだろうなあ。

 なぜその前に私を起こしてくれなかったのか甚だ疑問だけれども。

 まさかこんな時間まで寝てるとは思わなかったのかしら。

 まあこれは完全に私に非がありますよ、はい。


 ちなみに、ななちゃんのことについては結構以前からお母さんには話していた。

 というよりも、「あんた最近ベランダで誰と話してるのよ」などと怪訝な顔をしたお母さんに聞かれたのだ。

 そのこと自体は別段隠す事でもないし、正直に話したというわけだ。



 周囲をきょろきょろと見回す。

 それにしたってななちゃんの気配がどこにもない。

 私の部屋にいたのなら、今私についてきていそうだし、そもそもその前に話しかけてくるだろうし、さらにそもそも寝ていた私を起こすはずでは?

 私が寝ぼけていたにしても、起きた時に声をかけられればさすがに気づくだろうに……これは一体どうしたことか。


 などと、一転して冷静な思考をこねまわしつつも、私はとりあえず部屋に戻ることにした。

 ゆっくりとドアを開け、自室に入った瞬間、事態を理解した。変な笑いが漏れる。

 確かに彼女は私の部屋にいた。

 ベッドの上に丸まって、すやすやと眠っていたのだ。


「おやおや、こんなところに天使かな?」

 

 ななちゃんの幼い寝顔を見下ろして、どうしようかと考える。


「ふむ……よし、二度寝しよ」

 

 ななちゃんを起こさないように、そっとベットに横たわる。

 ななちゃんの方に身体を向け、ブランケットをかけてあげる。

 同じブランケットに包まれるのは、なんだか心の端っこがくすぐったくなる。


 そんな気持ちをごまかすように、ななちゃんの頭に手を伸ばし、髪を優しく撫でた。

 すると、ななちゃんの瞼がピクリと動いた。

 

「ん……おねーちゃん……」


 寝言のようにおぼろげな声を出し、うっすらと目を開く。

 視線がぶつかった瞬間、ななちゃんは目を見開いた。


「おおおねお姉ちゃん!」


 おそらく、ななちゃんの背中に腕をまわす体勢で必然的に距離も近いからだろう、あっという間に顔を真っ赤に染め上げたななちゃんは、身体を一層丸めて縮こまった。

 しかしそれも束の間、ななちゃんはジリジリと隙間を埋めるように私に密着し、私の鎖骨に額を寄せた。


「へへへ、私今、世界一つよい」

 

 何の話だ!


「ゆーかお姉ちゃん、お姉ちゃん」


 とろけた甘い声でそう言いながら、鎖骨に当てたおでこをグリグリと押し付けてくる。

 どうしよう、反応の仕方がわからない。

 とりあえず頭を撫で続けとくか。


「お姉ちゃんお姉ちゃん、ふかふかしてる、いい匂いー。ふかふかふかふか」


 なんかめっちゃお胸触られてるんですけど。

 ななちゃん、早く正気に戻って。


 それからしばらく幸せそうに私を堪能したななちゃんは、

 

「んーふふふ……あれ、お姉ちゃんが喋らない」


 と、ようやくいつものななちゃんの声の調子で顔をもたげた。依然として私のお胸を触りながら。


「ななちゃん、とりあえず手を止めようね」

「たぶんね、私はこのためだけに生まれてきたんだと思う」

「うん、もっと大事なことはたくさんあるよ」


 キラキラした純粋な瞳でそんな不純なことを言われましても。

 あれ、ななちゃんってこんなことする子でしたっけ。

 頭の中でこれまでのななちゃんを想起する。結論、割とそんな感じだったかもしれない。


 これが逆だったらシャレにならないくらいヤバいよなあ。って、そんなことを考えること自体がまずヤバい。猛省しよう。

 

 なんて考えている間にも、ななちゃんはお胸にあてた手をひたすらに動かし続けている。

 ブランケットの下とはいえ、お母さんが部屋に入ってきでもしたら、私の人生終わるのでは。


「ななちゃん、そろそろやめてよ」

「えー……じゃあ私のことを好きって十……いや五十……いや、ひゃ、三百回言って」

「やだめんどくさい」

「ふふふ、そうでしょ。だから諦めて」


 したり顔で満足そうに頷くななちゃん。

 なんか無性に悔しいから本当に言ってやろうか。……面倒だからやめておこう。

 その代わりに、


「あのねえ、たくさん言えば良いってもんじゃないよ、そういうのは回数じゃないんだよ。一回にどれだけ気持ちを込められるかなのよ」


 私はななちゃんの頬に左手を添えて、額同士がくっつくほどに顔を近づけた。

 至近距離で見つめ合うと、ななちゃんはその綺麗な目を泳がせた。


「や、さ、さっきのはその、じょ、冗談だから……うー……」


 息をのむななちゃんをジッと見つめ、指先で頬をさする。ななちゃんの肩がぴくりと跳ねる。


「ななちゃん、好きだよ」


 静かに囁くと、ななちゃんは亀のようにブランケットの中に頭を引っ込めてしまった。


「おーい、出てこーい」


 喉の奥で押し殺した「ぁぁぁぁぁ」という震えるか細い声が布の下から聞こえる。

 ななちゃんのこの反応を見て改めて思うが、この子、めちゃくちゃ私のこと好きだよなあ。正直、謎すぎる。


 ななちゃんが身じろぎをして、もぞもぞと顔を出す。上目遣いにちらと私を見て、また先ほどまでのようにおでこを鎖骨にあててきた。


「お姉ちゃんは極悪人だ」

「え、なんで」

「お姉ちゃんは私をからかっただけで本当はそんな気ないくせに、私をドキドキさせるから」


 鋭い指摘に言葉が詰まった。

 ななちゃんが「ふふっ」と笑い、体の揺れを感じる。

 

「私もお姉ちゃんをドキドキさせたいなあ」

 

 そう呟いたななちゃんは、さりげなく私のお胸を手のひらでポヨポヨとしてきた。


「お姉ちゃん、大好きだよ」

「おっぱい見ながら言われましても」

「照れ隠しだよ、照れ隠し」


 私のお胸に向かって「ねー」と声をかけるななちゃん。

 大丈夫かなあこの子。お姉ちゃん心配になってきたよ。


 おもむろに身体を起こすと、ななちゃんも真似するように起き上がった。

 そして横から私の右腕に両腕を絡めて、ぴったりとくっついてきた。


 こうやってベランダ以外で会うのは昨日の夜を抜かせばまだ二回目だけど、ななちゃんはもうすっかりこの距離感に慣れてしまったらしい。

 照れておどおどするななちゃん可愛かったのになあ。少し残念。


「うへへ、今日はお姉ちゃんと添い寝できて幸せすぎたなー」

「そうかい……ななちゃんってさあ、私のこと好きだよね」

「うん、大好き」

「なんで? 理由を知りたい」


 ななちゃんが私を見上げ、おめめをぱちくりとさせる。

 「理由?」とつぶやいたななちゃんは、唸り声を漏らして私の右肩に頭を預けた。


「なんでだろうねー、難しいねー」

「難しいのか」


「うーん……ずーっとお姉ちゃんの声を聞いて、お姉ちゃんを見てたからかなあ。それがすごく楽しみだったから、かなあ?」

「ふうん、ななちゃんもあんまり分かってないのか」


「だって、そうやっていつの間にかお姉ちゃんのことばっかり考えるようになってたんだもん」

「ま、そんなもんよねー」


 昨年、受講していた心理学の講義で習った、単純接触効果という理論を思い出した。

 人は他者との接触を繰り返すたびに、好感度が高まるらしい。

 学校に行かなくて、でも他者との関わりに飢えているななちゃんにとって、一方的な私への認知がそれをなおさら濃く作用させでもしたのだろうか。


 そう思うと少し、私の存在がななちゃんにとってすごく特別なものであるかのように思えて、まんざらでもなく嬉しくなる。


 はあ、ななちゃんに出会って、私も変わってしまったなあ。

 

「アイス、買いに行こうか」

「やだ、いかなーい」


 肩に頬擦りをしながら、私の提案を即答で拒否するななちゃん。

 その頬擦りの感触と彼女からかかる体重が、私にとってひどく重苦しい愛しさを感じさせたことを、私は知らぬ振りをした。


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