1-5 垂簾/5782 7C3E

 ケナの眼前には、大理石のように白く硬質な一枚岩が佇んでいる。

 影も実体もなきその直方体は、息遣いて言紡ぎ、それに呼応して表面を鋸波状に波打たせる。其の佇まいは見れば見るほど頭を抱えそうなほどに異質だが、彼はなんてことのないかのようにそれと相対している。なにしろそれは彼のみが見ている虚像なのだった。


「お前の報告書、養父上ちちうえより伝え聞き相分かった。……そのような大事が起こり始めていたのであるな」

 変声期前の少年のごとき、快活さといとけなさを残した声。ただしそれは少年のそれには非ずして、むしろ性徴の最中にある少女に特徴的なものだ。


些事さじならば伝えずとも良い、ということはこの世には多くある。相手が童で、その事象が荒事であればこそ。……伝え与えれば余計にあなたを育てうる事なら尚更だ」


「全くだ。何しろこの国に於いて我が族家の占めたる領域は見た目より少なし。例えヤサカの名の下に命任されし大臣おほおみの座も、執政の衆に飾りと見られるようでは立ち行かぬ」


「獅子身中の虫がはらわたを離れたならば、其の虫を誰が育てたかの責任の所在を争うのは自明だ。なればこそヤサカは秘密裏に大王と大臣の名の下にて虫を炙り出しにかかったんだ。ワタヌキ家にその争点が飛び火する前に」


「……ヤサカがあの時オキ島にいたのはそれが理由か。ならばなぜそれをあたしに伝えぬ……」


「奴ならきっと、役割の分担なのだと言うだろう。御家みやのあなたも、ここからは貴方の思惑の元に動かれてはいかがか。あなたには誰にも委ねることなき魂を持っているのだから」


「忠告痛み入る。……時に、義兄上あにうえはイヨという娘のこと、どう思われる」


「ムマレと同様、聡明な少女だ。是非とも目通りをさせたいと思っている」

 即答するその様に、白御簾の向こう側でムマレと呼ばれた者のため息が聞こえる。


「御主はどうやら三国の厄を摑まされたという自覚がないようであるな。呑気なことよのう


「王位継承者の幼子おさなごなど、珍しいことではないだろうに。それはムマレが一番よく存じていることのはずだ」


「よく存じているとも、なればこそが身には付きしたがうべき人が必要となる。……ミクラがそうであり、同じようにヒムカにはクニオシヒトという摂政が存在するのだが、イヨにもまたまごうことなく垂簾すいれんの外を受け持つ者が存在する。イヨがヒムカの宗女であるならばまずその者は彼らの腹心……。まあ全ては百禽も伏したること、あくまで吾が臣の推測に過ぎない」


「何故厄根多なのかは概ね推測がついたが、答え合わせを貰おう」


 しばしの沈黙、深呼吸の波紋ののち重々しく口火が切られる。

「吾が家のみならず義兄上にとっても忌むべき名だろう。サヌヒコホノニキ、元イト国の首長……」


「なるほどな。だがその線を追おうにも、本当に彼女の摂政なのかというところからまでも繋がりを洗わなければならない。現状カラタケの背後に付いている者から繋がりを辿ろうにも情報が少なすぎる状態だ。場合によっては貴国の内部まで踏み込む、となると…… 内と外両方から報復を受ける可能性もある。俺が今相手にしようとしているのはおそらくそういう奴だ」


「……気が重くあろうな」


「いんや、全く? 面白いじゃないか。上手くいけば敬愛するの役に立てるわけだ」


「上手く事引かなかった場合はどうなるかわかっておるのか、たわけが! ……あたしはその時お前との関与をことごとく否定しなければならない。薄氷のごとく危うい均衡がお前の手で壊れるのであるぞ、解っているのか!」


「気に重く持っているのはあなただからこそその発想になるんだ、同時に大きな誤解をしていると言わざるを得ないな。イヌサカケナという人間はすでに存在せず、それを騙る名もなき人間が動いていた…… それを証明する用意は我が族家においていつでもできている。もちろん今回もまたそのようなことは起こりえないだろうがな」


「かような軽々しい言葉で何をほざくのか。お前は神々に魂まで売ったわけではないのだぞ」


「その通りだ。俺は俺なりに、己の信念に基づいてこの事件を幕引こう。その過程において何が起ころうと、あなた方の悪いようにはしない。知っての通りそれを証明してみせる手段は、信用していただくこと以外他にないのだが」


 またもや深いため息が波紋を生み出す。一枚岩はまた沈黙を伸べた。

「良かろう。我が家も出来る限りの支援は惜しまん。忠誠を持たぬ執行者の名の下に影を探り当ててほしい」


「例えそれが俺でもな」


「......改めて問うが、お前のその態度は自信ゆえか。それとも酔興か」


 フン、と息をつくと大袈裟に肩をすくめてみせる。それでもケナの表情には、その両方だと言わんばかりの凄みがあった。

「ムマレ、人間は自分の思う通りに善き行いができるかというとそうではない。俺じゃなくても例え己が悪と信じようと、人間は同族を幾千幾万も殺せる。それは自分の手で起こせるものではない、起こるものなのだ」


「莫迦な。それが神の教えに叛くものだとしても? 自らを穢すことを神が許すと?」


「それが間違いの元なんだ。善きことも悪きことも、自分がやっているわけじゃない。......そう、神がそうさせていたりするのかも知れないな。だが人間は操られている者ほど自らが傀儡であるという自覚はない。......あなたがそうではないことを祈るよ」


「吾が身をおもんぱかるなら今一度聞かせたもうか。......どうあればこのしがらみに身を解き放てる」


「最後に救われていればいいと祈り続けるもよし、自分がやりたいように生きればいいだろう。傀儡子くぐつしの気が済むまでおどれば、その御簾の内でも楽しかろう」


「......もう良い。まだお前の心内を理解するには、吾は幼すぎるらしい。......だが、せめて肝に銘じておこう。さればこれにて」

 したから竹籤たけひごのようにバラバラに翻っていき、浮かぶ墓石のごとき一枚岩はパラパラと音を立ててくうへ消え去る。まるで、白い旋風つむじかぜのように。

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