その11 苦しいクリスマス

「クリスマスイブも研究室行かなければならないの面倒だよなあ。その晩は、彼女とイルミネーション見に行ってディナーする予定なのに」

 隣の部屋から石口 進のボヤキが恭太にも聞こえてくる。クリスマスイブにあたる十二月二十四日に、今年最後の研究室ゼミがあることに対して文句を言っているのであった。

「そりゃあクリスマスは日本じゃ平日なんだから、ゼミがあるのは当然だよな」

 同じ部屋にいた小早川 勇樹がボソッと呟いた。勇樹も進の話を聞いていたのだろう。


 クリスマスに研究室に行かなければならないのは、恭太も当然のことに思っていた。勇樹が言うように、日本では平日であるのだし、学校や会社もほとんどのところがクリスマスもあるからである。ただ、クリスマスや年末の時期も夜遅くまで残らなければならないほど忙しいことを少しだけ苦しく思うようになっていた。


 年が明けると、卒論発表や修論発表などの行事が立て続けに行われる。そのため、年末までにはある程度成果をまとめておく必要があり、学部生や修士の学生は追い込みの実験をしていた。恭太は卒業する学年ではないが、当然のように後輩の指導やサポートのために、毎日のように夜遅くまで残っていた。

 昨年までは、クリスマスイブは莉緒とレストランで食事をすることにしていた恭太であるが、今年はお互いに忙しいことを理由に会わないことにしていた。年末年始もあまり休みは取れないと思われたが、祖父の元太の体調が良くないこともあって、何とか親戚に会う時間を作ろうと苦心しているところであった。


 そこに、嬉しそうな顔をした前田先生がやってきた。

「小早川君、桜田君。つい先ほど落合さんから連絡が会ったのだけど、彼女、イギリス人の彼と結婚したらしいよ」

「え、本当ですか」

 恭太は少し驚いた。

「あ、そうか。桜田君は知らなかったか。落合さんはイギリスに留学していた時に、滞在先の研究室の男性と付き合い始めたんだよ。今は二人でアメリカに住んでいるみたいだけどね」

 それだけ言って、前田先生は鼻歌を歌いながら教授室に戻っていった。


「落合先輩、すごいですね」

 恭太は、博士進学を決めるきっかけにもなった落合美菜のことをとても尊敬していたし、研究以外でも充実した生活を送っていることに尊敬の念を抱いた。

「ああ、そうだね。落合先輩がイギリスから戻ってきた後は、研究室の飲み会とかはその話で持ち切りだったなあ。前田先生がしつこく聞くものだから、落合先輩は少し嫌そうにしていたけど」

 勇樹が淡々と答える。どうやら、恭太が研究室に配属される前から有名な話であったようだ。


 ふと、ちょうど一年前の忘年会で、勇樹が美菜について言ったことを思い出した。

「そういえば、小早川先輩。去年の忘年会の時、落合先輩はかなりハードワーカーだったと言ってましたけど、本当ですか。ちゃんとプライベートもしっかりしていたのじゃないですか」

 恭太がそう尋ねると、勇樹はウーンとうなって答えた。

「確かに結果的にはプライベートも順調だけども、研究室にいたときは一日中研究ばかりしているような人だったよ。落合先輩がアメリカで働いている理由の一つは、日本の研究環境から逃げたいということもあったって聞いたことあるし。もっとも、アメリカも労働環境はすごいと思うけどね」

 恭太は、勇樹の言っていることが未だに信じられなかった。

「それでも、留学先でできた彼氏と、日本に戻ってきた後も関係性を続けているということは、プライベートをしっかりとっていたのではないですか」

「いや、それは違うと思うよ。日本に戻られた後は、もちろん連絡は取っていたと思うけど、結局博士修了までは一度も彼と会うことなかったみたいだし。アメリカに行く前には、冗談ぽくではあったけど、彼と付き合っていると言えるのかわからないっておっしゃっていたよ」

「そうなのですね・・・」

 恭太は、未だに美菜が研究室の中でどのような感じなのか想像つかなかった。美菜が、外部に見せる姿はキラキラしていて、苦しんでいるとすら思えないほどであった。


「そういえば、四年前のちょうど今頃だったかな。落合先輩はちょうどこの居室で、いきなり泣き出したことがあったんだよ」

 勇樹の発言に、恭太は心の底から驚いた。

「え、あの落合先輩がですか?そして、何があったのですか」

「イギリスから帰ってきて暫くした頃だったと思うけど、相当追い込まれていたと思う。自身の研究もそうだけど、まだ進路に迷っていて就活も少ししていたみたいだし、前田先生からの絶大な信頼もあって5人くらいの学生の指導もしていたし。泣いたことについては、何かきっかけがあったというよりも、本当に突然泣き出したって感じで、落合先輩自身なぜ泣いているのかわからないって言っていたよ」

 恭太は、突然泣き出す美菜を想像しようと思ったが、到底不可能であった。恭太の頭の中には、爽やかな笑顔の美菜しか思い描くことができなかった。

「その年末は、研究室で年越しをしたという噂も聞くなあ。まあ、本人に確かめたことがないから本当のことはわからないけど」

 そう言って、勇樹は再び自身の作業に戻った。


 恭太はとても混乱していた。自分自身が、周りよりもかなり苦しい状況に置かれているように感じていたが、クリスマスの頃が苦しいのは、博士学生に共通しているのかと考え始めていた。

 そして、何よりも恭太自身が、お手本としている美菜の一側面しか見ていなかったことを知らされた。美菜の本当の姿はどのようなものであるのか、そもそも恭太自身は美菜をお手本とすべきなのか。いろいろな思いが恭太の頭の中でグルグルしていた。

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