その10 海外転勤

「それじゃあ、論文の再投稿は無事に終わったのね」

「一応ね。直前の一週間はほとんど研究室に泊まらなければいけなかったけどね」

 10月中旬の日曜日の正午、恭太は莉緒とフレンチレストランでランチをしていた。恭太が日曜日に研究室に行かなかいのは、1カ月ぶりである。それほど、論文の再投稿の作業は大変であった。

「ちゃんと寝ているの?目のくまもすごいし、数カ月ぶりに会うけど5歳くらい年取ったみたいに見えるよ」

 莉緒があきれたように言う。顔は笑顔であるが、恭太の健康のことをかなり心配しているのが、恭太にもひしひしと伝わってきていた。


「それにしても、論文投稿するのって大変なのね。私の修論は先輩が執筆して投稿してくれていたみたいだから全然知らなかった」

「まあ、論文投稿だけでなくて、後輩の世話もあったからね。学部生の中間発表があって」

「なるほどね。そういえば、私たちの研究室も博士の先輩たちは、私たちのために休日出勤していたなあ。今思うと大変ね」

 莉緒が他人事のように言う。おそらく、彼女のように何も考えていない学部生や修士の学生が大半なのだろうと、恭太は改めて納得した。

「こちらとしては、後輩のために自由時間がつぶれる大変さをわかってもらいたいんだけどね・・・」

「あらあら、研究が好きで喜んで休日も研究室に行っていた恭太と、何か別人みたいね」

 重苦しくなりかけていた空気を振り払うかのように、莉緒が大げさに笑いながら言った。その笑顔につられて恭太も笑うが、内心はまだ重苦しかった。研究が好きだという気持ちは変わらないと思っていたが、楽しいと感じることより、辛いと感じることの方が圧倒的に多くなっていることに改めて気づかされたからである。


「あ、そうそう。今日は大事な報告があるんだった」

 莉緒が突然そう言うので、恭太は少しだけドキッとした。

「うん、どうしたの?」

「あのね・・・。来年の4月から海外転勤になったの!」

「へええ、良かったじゃん!前から莉緒、海外興味あるって言っていたよね」

 突然の報告に驚いた恭太ではあったが、莉緒の気持ちも考えて素直に一緒に喜ぼうと考えた。それにしても、入社二年目で海外転勤になるとは、恭太にとってはまったく想定外のことであった。

「そうなの、私もすごい驚いたけど嬉しかった。前も話した、女性の上司がすごく私のことを気に入ってくれて、めちゃくちゃ推してくれたみたい」

 莉緒の目は希望に満ち溢れていて、恭太とはまるで対照的であった。

「それで、国はどこなの?」

「フランス!」

「フランス!?」

 恭太は再び驚いた。フランスは恭太が年度末に学会に行くといったら、莉緒がとても羨ましがっていた場所であったからだ。

「それは良かったじゃん。学会でフランスに行くって言ったら、めっちゃ莉緒、羨ましがってたよね」

「そうなの。そこからすごくフランスを意識することが増えていたのだけど、まさか本当に行けるなんて!まあ、恭太が学会から帰ってきた後に行くことになると思うけど」

 莉緒の嬉しそうな表情を見て、恭太も心から良かったと思えるようになった。

「転勤の期間は二年みたい。ちょうど恭太が博士修了する頃に帰ってくることになると思う」

「そうかあ、それじゃあその二年間はお互いに頑張ろうね!」

 恭太は研究に対するやる気が少しだけ湧いてきた。


 帰り道、恭太の頭の中には、莉緒の笑顔が浮かんでいた。

「二年間フランスか・・・。莉緒が帰ってくる頃はお互い27歳になっているのか・・・」

 そう考えて、恭太はあることに気づいた。恭太が博士に進学してから、結婚について話すことがなくなってしまったのであった。

 昨年度までは、具体的に結婚の時期とかを話し合うこともあれば、結婚した後にどのような暮らしがしたいかを語り合うことも多かった。今年度に入ってから、会う頻度が減ったからとはいえ、話す内容はお互いの近況報告に近いものになってしまっており、将来についてはまったく話してなかった。

「莉緒がフランスに行く前には、もうちょっと具体的にお互いの将来について決めないとな。今度会ったときは、ちゃんと話し合おう」

 そう、帰りの電車の中で、恭太は決心した。

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