その9 次々とやってくるタスク

「論文はMajor revisionか・・・」

 前田先生から転送されたメールを見て、恭太はボソッとつぶやいた。Major revisionとは、投稿した論文をジャーナルに掲載してもらうには大幅な修正が必要であるということだ。もちろん、Rejectされるよりは良い結果ではあるが、締め切りまでに再実験や再計算など多くの労力を要することになる。メールによると、再投稿の締め切りは10月頭とあと1カ月ほどしかなかった。


 恭太はメモ帳を取り出して、再投稿までにしなければならないことをまとめた。論文を修正して、前田先生を含む共著者に確認してもらう時間を考慮すると、来週中には再実験を終えなければいけないことに気づかされた。

「うーん、今週末も研究室に行かなきゃだめか・・・」

 恭太の頭には入院を続けている千葉のおじいちゃんこと元太の顔が浮かんだ。元太の入院が長引いており、元太の妻の詩乃が泣きながら恭太の家に電話してきたことを、母親の理美から聞かされていた。週末に予定がなければ、恭太も元太のお見舞いに行くか、せめて詩乃と電話で話そうと考えていたところであった。


「研究って家族の健康より重要なのかな」

 恭太はこれまでモヤモヤしていた疑問を始めて声に出した。



「桜田先輩!!」

 急に後ろから声がしたので、驚き振り返るとそこには学部四年の進がいた。もともと前田先生から期待されていた進であったが、博士進学どころか、学部卒業したら就職することを知られてから、急激に前田先生との関係性が悪くなっていた。もっとも、進自体はまったく気にしている様子はない。

「石口君、どうしたの?」

「桜田先輩と中間報告会に向けての進め方について相談したくてきました」

「そうか、そんな時期だったね・・・」

 恭太はため息をついた。二週間後には、学部四年生が学部全体の中間報告会を迎えることになっており、そこでの印象が最終的な卒業論文の評価にも大きく影響する。進を指導している恭太は、発表準備をサポートする必要があった。


「あの、どうやって進めれば良いかまったくわからないのですけど教えてもらえますか」

 無責任な進の言い方に少しムッとした恭太は、思わず進のことをにらんでしまった。しかし、進はまったく悪気のない様子だったので、恭太は軽く深呼吸して冷静になるよう努めた。

「まずは、発表の要旨を作ってもらいつつ、発表スライドの構成をちゃんと決めてもらいたいな。中間報告では、研究目的・新規性・今後の方針について少し専門の違う先生方にも理解してもらう必要があるから」

「なるほど、要旨とスライドの構成はいつまでに完成すればオッケーですかね。ちょと今週バイトいれすぎちゃったんですよね」

「個人差も大きいし、要旨やスライド構成のクオリティにもよるから、いつまでと一概には言えないのだけど、時間があまりないから一刻も早くできたものを見せてほしいかな」

 少しだけきつめに恭太が言うと、進はスマートフォンを取り出して自分の予定を確認し始めた。

「そんなこといれても、バイトはもう外せないんですよねぇ。じゃあ、たまたま土曜日空いていたので、その日に集中して一緒にやるっていうのはどうですか?」

「土曜日は実験しようと思ってたから、多分一緒にいろいろ進める時間は取れると思うよ。じゃあ、そうしようか。だけど、それより早めに終わらせられるよう頑張ってみてね」

「オッケーです。じゃあ土曜日よろしくお願いします。休日も研究室に来なきゃいけないとか、この研究室ブラックですね」

 そう言って、進はニンマリと笑った。

「それじゃあ、今日は帰りますね。桜田先輩、お疲れさまでした」

 進はさっさと研究室を出ていきバイトに向かって行った。


 取り残された恭太は、正直かなり苛立いらだっていた。恭太は、自分の研究とは別に時間を割いて進を手伝っているというのに、進にはその自覚がないどころか、恭太に任せればよいと考えているのが手に取るようにわかった。また、休日研究室行くことになったのは、単純に進が平日にバイトをたくさん入れていたからであり、それをブラックと呼ぶのはおかしいと感じていた。さらには、休日に恭太に研究室に来て、中間報告の手伝いをさせることを、進は当たり前のことのように感じていたのであった。

 博士課程に進学してからわかったことであったが、学生の多くは、自身が夜遅くや休日に作業をしなければいけないことについては文句を言う割に、先生方や博士の学生に夜遅くや休日に作業させることを当然のことのように感じているのであった。そのことをわかってもらいたいと思うときもあるが、先生方や他の博士の学生は何も文句を言わずに、夜間や休日出勤しているのを見ると、恭太も文句を言うことができなかった。本当のところは、前田先生は休日出勤するたびに、博士の学生に愚痴をこぼしていたのであったが、学部や修士の学生が知るよしもなかった。


 進に割かなければいけない時間を考慮して、もう一度論文再投稿までのスケジュールを立て直した恭太は、スマートフォンを取り出した。元太の状況について、理美が何か連絡していないか気になったからであった。理美からの連絡はなかったが、かわりに一通の通知が来ていた。

「あ、やば」

 恭太は思わず声に出してしまった。送り主は莉緒からであった。

「元気?連絡するって言われたから待ってたけど、もう1カ月経つよ」


 論文などに追われて忙しかったため、お盆の頃に少し連絡頻度が少なくなるかもと伝えてはいたが、そのまま恭太は莉緒に連絡することを忘れていた。二人が付き合ってから、定期的に会っていたほか、連絡はほぼ毎日とっていたため、これだけ連絡していなかったのは初めてのことであった。慌てて恭太は莉緒に電話をかけた。

「莉緒、本当にごめん。いろいろ追われていて連絡できていなかった」

「ううん、大丈夫。私も忙しかったら。それより、今度会う日を決めない?いろいろ話したいことが溜まっているし」

 莉緒の声からは怒っている様子は感じられなかったので、少しだけ恭太はホッとした。

「そうだね、じゃあ論文の再投稿が終わった後の10月中旬でも良いかな?」

「いいよ、じゃあ二週目の土曜日にしよっか。楽しみにしているね」

 電話を終えた後、恭太の心は少しだけ温かくなった。莉緒と連絡をとっていなかった間は、今思い返すと何となく心が沈み込んでいた。どんなに忙しくても、莉緒に連絡を取るのが恭太にとっては一番精神を落ち着かせられる方法であると改めて気づかされた。

 莉緒と次会うのを楽しみに、それまで頑張ろう。恭太は強い決心をした。

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