その2 終電帰り

「うわぁ、眠い・・・」

 午前八時半、研究室に着くなり恭太はすぐに大きなあくびをした。それもそのはず、恭太は昨晩終電の時間ギリギリまで研究室にいたからである。


 昨日は恭太にとってとても大変な一日となった。リジェクトされてしまった論文について、前田先生と議論する必要があったからだ。

「正直言ってがっかりだよ」

 いつもは恭太に優しい言葉をかけてくれることが多い前田先生ではあったが、論文のリジェクトに関しては、厳しい口調で恭太に接していた。

「論文投稿するのに十分な実験をしていなかったというのは、研究者としてどうなんだろうね」

 恭太は、前田先生の話を終始無言で聞いているしかなかった。十分な実験ができなかったのは、論文投稿の話を急に前田先生に進められたからという思いが正直あったが、そのようなことは口がさけても言えなかった。

「とりあえず、同じジャーナルに再挑戦できるかどうかは、今後の実験結果にかかっているよ。今日中に今後どうしたいか決めてもらいたい」

 そう前田先生に言われた時は、すでに午後五時を過ぎていた。

「わかりました・・・」

 恭太は消え入るような声でそう答えるのが精いっぱいであった。結局、その後前田先生に報告できるような状態になるまで実験をする必要があり、終電ギリギリまで研究室にいたのであった。


 疲れが残っている状態であったが、恭太はこの日も朝早くから研究室にいる必要があった。論文の方向性について、前田先生と午前中に話そうと言われたからという理由に加えて、この日は海外の研究者を招いたセミナーが開催予定であったからだ。セミナーの内容を予習しようとするが、眠気がどうしても勝ってしまうので、恭太は近くのコンビニに行って、エナジードリンクを買うことにした。


「前田先生、全然来ないな・・・」

 午前十時半を過ぎたが、一向に前田先生が研究室に来る気配はない。午前中に話そうとしか言われていないため、前田先生が予定を守っていないとは言えないが、恭太は少しだけイライラしていた。この時間まで来ないとあらかじめ知っていたら、もう少し家で寝てから研究室に来れたからである。


 結局前田先生は午前十一時半になってやっと姿を見せた。

「おはよう、桜田君。論文の件はどうなったかな」

 昨日の厳しい表情からは一転、前田先生はとてもにこやかであった。

「あ、先生おはようございます。昨晩、実験を何とか終わらせることができて、論文の目途がつきました」

「そっか、それは良かった。じゃあ、論文書けたらまた教えてね。それじゃあ」

 そういうと、前田先生はどこかに行ってしまった。

「え、午前中に話そうって、これだけのこと・・・」

 あまりにも内容のない会話で終わってしまい、恭太は拍子抜けしてしまった。


 午後になって、恭太はセミナーが開かれる会議室に向かった。開始まではまだ十五分ほどあるが、すでにたくさんの人がいた。

水川みずかわ先生こんにちは」

 恭太は、隣の席に座っていた、別の研究室の助教である水川 文則ふみのり先生に声をかけた。

「ああ、桜田君。元気にしている?」

「あ、はい。だけど、昨晩は遅くまで研究室にいたので少しだけ今も眠いです」

 水川先生とは、これまであまり話したことがあったわけではなかったが、優しそうな見た目をしていることから、つい恭太は本当のことを話した。しかし、水川先生の表情は一瞬にして曇った。

「うん、遅くまでってどれくらい?」

「あ、終電ギリギリだったので十二時過ぎすかね」

 そう恭太が答えると、水川先生は鼻で笑った。

「へ、それくらい当たり前のことじゃん。それがどうしたの」

 この返事に恭太は少なからず衝撃を受けてしまった。自分の中では大変だと思っていたことが、水川先生の中では日常茶飯事に過ぎないというのが信じられなかった。

「まあそうですよね、ははは・・・」

 恭太は、そう言ってはぐらかして、水川先生との会話を切り上げた。


 セミナーはその後すぐに始まった。しかし、恭太の頭の中は、水川先生に言われたことでいっぱいになってしまい、セミナーの内容はまったく頭に入ってこなかった。

                 

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