その8 祖父の見つめる先

「おじいちゃんお久しぶり。なかなかお見舞いに行けなくてごめんね」

 修士課程の修了式があった日の翌日、恭太は先月から入院している祖父の元太のお見舞いに行った。恭太の顔を見るなり、元太はベッドから体を起こして、くしゃくしゃの笑顔を見せて喜んだが、その姿は明らかに以前よりも痩せこけてしまっているのが恭太にはわかった。


「おぉ恭太、忙しいのに悪かったねえ。わざわざありがとう」

 そう言うと、元太は再びベッドに横になった。入院中に体力が急激に衰えてしまったようで、体を起こして話し続けるのもきついようであった。

「あなた良かったわねえ。ずっと元太のこと気にかけていたもんねえ」

 付きっ切りで看病をしていたであろう詩乃も笑顔を見せる。理美も恭太と一緒にお見舞いに来たが、和やかな笑みを見せているだけで終始黙っている。


「おじいちゃん、ゆっくり休んで早く元気になってね」

 恭太は元太の手を優しく握りながら話しかけた。元太の手はとてもひんやりとしていたため、恭太は元太の手を何度もさすった。


「そんなことより、恭ちゃん。最近どんなことをしているかおじいちゃんに教えてあげて頂戴。それがきっと一番のくすりになると思うから」

 詩乃がそう提案してきたので、恭太は元太に話すことを考えた。

「そうだねえ。なんといっても修士課程を無事修了して、来月から博士課程に進学するよ。あ、それに最優秀修士論文賞というのを受賞したんだよ」

 恭太は持ってきていた賞状を取り出して、元太に手渡した。

「ほほう、そうかいそうかい・・・。恭太は本当に立派に成長したなあ」

 賞状を見ている元太の目にはうっすらと涙がこぼれていた。


 元太はゆっくりと目元をハンカチで拭った後、再び恭太に尋ねた。

「それで、春休みはゆっくりとできたのかな。博士進学するとはいえ、友達とはお別れだから思う存分遊んだのかな」

「あーえーっと、莉緒と一泊の温泉旅行には行けたよ。だけど、それくらいかな」

 恭太の返事に、元太は少し驚いた表情を見せた。

「おや、一泊しか遊んでないの。卒業旅行とか言ったりしなかったの」

 詩乃も驚いたようで、そう恭太に聞いてきた。

「ああ、卒業旅行も行く予定だったんだけどね、春休み中も研究が忙しくて僕は行くのやめたんだよね。論文とかやらなきゃいけないこともあって、結局春休みらしい春休みは一泊の旅行だけで、それ以外はずっと研究室にいたかな」

 恭太の返事に病室内の空気が少し凍り付いた。恭太はどうしてこのような空気になっているのか理解できなかった。


「理美さん、一回部屋を恭ちゃんと元太さんの二人にしたいから、私たちは外に少し行きましょう」

 詩乃が突然そう理美に話しかけた。詩乃は淡々と話していたが、声のトーンがいつもより低かった。理美も無言で頷くと二人は病室の外に出ていった。



 病室に残された二人であるが、しばらくは元太は無言で窓の外を眺めているだけで、二人の間には沈黙が流れた。

「恭太、窓の外を見てごらん」

 やっと元太が口を開いた。恭太は言われた通り窓の外を眺めた。病院は海の近くにあるため、窓からは海岸が綺麗きれいに見えた。

「ほら、空にはカモメが見えるよね」

 元太の指さす方向を見るとカモメが数羽飛んでいるのが見えた。

「ほんとだ。久しぶりにカモメを見た気がする」

「カモメはね、これから日本を離れてアメリカの方に行くのだよ。皆で群れを作って、お互いを守りあいながら繁殖地に向かうんだ」

 元太の説明を聞いて、恭太は素直に感心した。今までカモメの生態系など考えてきたこともなかったから興味深く思えた。


「カモメを見ているとな、明敏のことを思い出すんだよ」

「え、お父さんのことを?」

「そうじゃ、そして今はカモメが恭太に語りかけておる」

 元太の話に、恭太はまったくついていけなくなった。元太は何を思い出しているのであろうか、そして何を伝えようとしているのか。

 元太の表情から意図を探ろうとするが、元太はどことなく寂しそうな顔でカモメを、いやその先の何かを見つめているようであった。


 しばらくして、詩乃と理美が病室に戻ってきた。そして、恭太は元太と詩乃に別れを告げると、理美と一緒に家に向かうことにした。


 帰り道、理美が恭太に話しかけてきた。

「あのさ、恭太。ちゃんと約束したこと覚えているよね?」

「ああ、幸せに暮らすことを一番に考えてってことだよね。もちろん」

 恭太にとって、理美と約束した日のことは今でも強烈に残っていた。

「そうよ、私は恭太がそのことを約束したからこそ、博士に進学することを今は心から応援しているのよ。だから、もし恭太がその約束を守らなかったら・・・」

 そう言って理美は深呼吸をした。

「その時は全力で恭太の前に立ちはだかるわ」

 理美の声は少しかすれていて小さかったが、その中にも太い芯のようなものがあった。


 理美に改めて言われた言葉、そして元太の言葉と見つめていた先。恭太にとって気になることがたくさんできた一日となってしまった。とはいえ、数日後には、恭太は博士課程の学生となる。家族のことは気になるが、改めて夢に向かって頑張ろうと決意し直した日にもなった。


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