第3話

 


 「また、トラブりましたね」


 おしぼりで顔を拭いているカウンター前の一男に、与志子が皮肉を言った。


「ちょっと気が強すぎたな」


 残念そうに言った。


「兄貴は気の強いのが好きですからね。僕をご覧ください。トラブルゼロだ」


 自慢気に言った。


「だから、お前の女はつまらないのばかりじゃないか。退屈しないか? 人形を相手にして」


 嫌味を言った。


「ウイスキーをひっかけるじゃじゃ馬よりはマシですよ。ハンカチを汚さなくて済む」


 与志子も負けじと言い返した。


「この野郎!」


「ハッハッハッハ……」


 与志子が笑うと、一男も苦笑した。



 一男はファッションデザイナーの巴子ともこの席に戻った。


「どうしたの? さっき」


 美夜子とのことを訊いた。


「反動でひっかかったんだよ」


 一男は誤魔化した。


「驚いたわ。大丈夫?」


 顔を覗き込んだ。


「ああ」


「ねぇ、今夜待ってるから」


 他に女がいても平気よ。巴子はそう言わんばかりに、大人の女を強調した。


「……ああ」


 一男の今夜の相手は巴子に決まった。



 ――与志子が野川清美のがわきよみと初めて会ったのは、紫陽花が色を鮮やかにする頃だった。晃の知人の社長夫人が、清美を連れてきたのだ。


 初めて清美を見た時、『ローマの休日』のオードリー・ヘプバーンを思わせた。セシルカットの、その柔らかそうな髪に触れてみたいという衝動に駆られた。


「紹介します。姪の清美です。この子、世間知らずの箱入り娘なので、社会勉強にと思って」


「伯母さまったら……」


 清美は、お喋りな夫人を迷惑がった。清美の前に座った与志子は、じーっと清美の顔を見ていた。そんな与志子に困惑して、清美は視線を逸らした。晃と夫人は会話を弾ませていた。


 与志子と清美に会話はなかった。清美はもどかしそうにオレンジジュースのストローをいじっていた。その時、バンドが与志子の好きな曲を流した。


「踊ろ」


 強制的に清美の腕を掴んだ。


「えっ? 踊れないもの」


「いいから、ほら」


 更に握力を増した。


「痛っ」


 痛がる清美の腕を引っ張ると、無理矢理にステージに連れて行った。清美の小さな体は、与志子の腕の中にすっぽりと収まった。そして、その髪に触れてみた。思ったとおりの感触だった。


「名刺をやるから、電話をくれ」


 清美の耳元に囁いた。鼻先に触れた高級シャンプーの香りが与志子を酔わせた。


「……ええ」


 清美は躊躇ためらいがちだった。与志子は、清美の背中に置いた指先をピアノの鍵盤を叩くかのようにおどらせた。すると、清美は陶酔の声を漏らしながら体をのけ反らした。その反応に与志子は満足した。



 数日後、電話を寄越した清美を部屋に誘った。学校帰りの清美は、パステルカラーの爽やかな青のポロシャツと白いキュロットスカートで、ショルダーバッグには白いサマーカーディガンを垂らしていた。


「コーヒーでも飲む?」


「ええ。いただくわ」


「アイスがいい?」


「ううん、ホットで」


 清美は微笑むと、小さなクッションを置いた窓辺のベンチチェストに腰を下ろした。


「キレイ」


 その横にある、青紫の鉢植えの紫陽花のことを言った。


「ああ。殺風景だからさ、花の一つもないとね」


 ドリッパーに湯を注ぎながら横顔を向けた。


「キレイにしてるのね」


「暇だからさ、掃除ぐらいしかなくて。恋人もいないし。清美ちゃん、恋人になってくれる?」


 清美を見た。


「……どうしようかな」


 らすような口振りだった。


「恋人は? いる?」


「ううん……」


「じゃあ、付き合おうか」


 ガラスのテーブルに、ペアのコーヒーカップを置いた。


「……考えとく」


「ああ。吉報を期待してる。淹れ立て飲んでみて」


「う~ん、いい香り。キリマンジャロ?」


 カップを手にした。


「ああ。スゴいな、匂いで分かるの?」


「ウソ。さっきパッケージが見えたから」


「なんだ、そうか。よほどのコーヒー通かと思ったよ」


 カップに口を付けた。


「でも、コーヒーは好きよ。一番好きなのはブルーマウンテン」


「じゃ、君のために買っとく」


 その言葉に清美は微笑んだ。そして、見詰め合った。――



 汗ばんだ清美の肌は、更にその湿りを増していた。そして、べとつく絡みの中で、清美は少女のように顔を赤らめていた。――



 部屋に客を招いたのは初めてだった。与志子の中では、清美は客の範疇はんちゅうではなかった。初めて会った時から、交際を前提にしていた。



 だが、そんなある日。渋谷までショッピングに出掛けた時だった。与志子は見てしまった。同年代の男とラブホテルから出てきた清美を。――与志子は歯軋りをすると、並んで歩く二人の背中を睨み付けた。


 ところが、その夜、清美は図々しく呑みに来たのだ。与志子は清美の来店を知りながら、他の客と濃厚なチークダンスを披露した。そんな与志子を見て、清美は沈んだ顔をすると、目のやり場を探していた。



 ダンスを終えても、与志子はその客の席に着いたままでいた。気を利かせた一男が清美の接客をした。清美のことは与志子から聞いて知っていたのだ。


「あんず酒でも飲みますか?」


 フレッシュジュースを飲んでいる下戸げこの清美に、アルコール度数の低い果実酒を勧めた。


「……ええ」


「たまには呑んで、さを晴らしたほうがいいですよ。ハハハハ」


 気の強い女が好みの一男は、大人しそうな清美に無責任な忠告をした。清美も釣られて笑った。


「こりゃどうも、清美お嬢様じゃん。いらっしゃ~い」


 酔っていた与志子はテレビでお馴染みの落語家の仕草を真似ると、横に座った。一男は静かに席を離れた。


「スゴい踊り方してたわね」


「そうですか? 普通ですけど」


 与志子はよそよそしい態度で、ヘルプが作った水割りを呑んだ。


「……」


 清美は表情を暗くした。


「もしよかったら、部屋に行っててください。これ、鍵です。私もすぐ行きます」


 与志子は横を向いたままでそう言うと、清美の手に鍵を押し込んで席を立った。

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