第5話 覚醒

私はとうとうひきこもりになってしまった。

春の太陽も嫌いになった。

散り際の桜にも、心を奪われなくなった。

夏の刺激的な暑さも、プールの匂いも、スモッグに包まれた夜の都会も大嫌い。私の存在を無下にする人間達も、どっかに行っちゃえばいいのにと思う。

そんな私の唯一の楽しみといえば、真夜中に出かける近所のコンビニ。

社会と交わる最後の砦。

難攻不落の不夜城だ。

スマホや留守電には、ママやヤスから連絡がきていたけれど、私は完全に無視を続けた。

ただ、仕送りをお願いする時だけ、ママにはこっそりと電話をしていた……。

この頃になると、些細な感情の起伏でも傷が現れるようになった。

サスペンスドラマで人が殺さるシーンや、こどもが一生懸命にお買い物をしている番組を見ても、かすり傷みたいな跡が出来た。

凄惨な事件を伝えるニュースは、私の身体には致命傷だった。

首やおでこや顎、瞼にも傷は出来て、心と身体に激痛を伴った蛇が這いずり回っていく。

それ以来テレビは見ないし、ラジオもネットも繋がない。

音楽はジャズばかりを聴いて、昼はたっぷり眠って、夜に起きて活動する。

ふくろうみたいな毎日で、生命を守っていた。

出掛ける際は、首にスカーフを巻いてマスクを付けて、帽子を深く被って、だて眼鏡をかけた。

コンビニの若い店員は、眉間に皺を寄せながら私を見ていたけれど、ポテトチップやお茶やチョコレート、お弁当やファッション雑誌にアイスクリーム、冷凍の鍋焼きうどんやビールにカクテル、そして、焼き鳥串を大量にカゴに入れると、てんてこまいな顔をしながらレジを打ち始めて、私の外見を気にする余裕など無くなっていた。

沢山の荷物を抱えながら歩いていると、ある時、二人のお巡りさんに呼び止められた。

懐中電灯で私を照らしながら、痩せたお巡りさんがやさしく言った。


「これからお帰りですか?」


人と会話するのは久しぶりだったから、私は緊張で喉が渇いてしまって、はじめの一言がなかなか出せなかった。


「お家はこの辺なのかな?」


「……はい」


後ろで、年配のお巡りさんが無線で何やら話をしている。

私は、早くこの場を立ち去りたくて。


「あの、帰りたいんですけど……」


勇気を振り絞って発した言葉に、年配のお巡りさんが反応した。


「すみませんね、最近この辺りは痴漢の被害が多いものですから、こうして巡回しているんですよ」


「はい……」


「あの、ちょっとおねえさんの顔を確認したいんだけどね、いいかな?」


私はムッとした。

そして強い口調で言った。


「嫌です!」


年配のお巡りさんは、動じる様子もなくニコニコと続けた。


「え、どうして? この暗がりだとちょっとお顔が見えないんですよ、ちゃんとお話したいんでね、お若い女性が一人でさ、こんな夜中に歩いているなんて危なっかしいじゃない」


「それでも嫌なんです!」


「なんか理由でもあるわけ?」


包み込まれるような口調に、私は泣きだした。

今までの出来事が、フラッシュバックしていく。

元彼や、やっこやヤスのこと。

ローンの支払いや、淋しい毎日を送っている現実。

大学を辞めてしまったことまでも―。

年配のお巡りさんが言った。


「なにかあるんならさ、お話を聞くよ」


私は、マスクや帽子を取って。


「私、病気なんです…」


と、言った。

ポロポロと涙が止まらなかった。

二人のお巡りさんは、私の傷だらけの顔を見て明らかに戸惑っていた。

無線の声は聞こえなくなっていた。

私は、再び帽子を被ってマスクを付けた。

年配のお巡りさんは、パパのような口調で。


「どうしたのその傷、困ったことはない?」


「大丈夫です」


「お家はこの辺?」


私はこくりと頷いた。


「我々が送りましょう」


その言葉に反論する気はなかった。

なんとなく心細かったし、人との触れ合いも心地のいいものだったから――それに、このお巡りさんはとっても安心出来た。

いつもよりゆったりとした足取りで、私は歩き始めた。

自転車を押しながら、二人のお巡りさんもついて来てくれている。

軋んだペダルの音と足音が、風にのって頬をかすめていく。

ほんのりとした綿菓子みたいな感触、


「もう秋なんだ」


季節を感じた喜びと、たった今、出来たばかりの左肩の傷の痛み。

そして透き通る夜空の下、私の気持ちは穏やかだった。

お巡りさんは、病気のことを色々と聞いてくれた。

傷の話を聞いてもらったのは、初めてのような気がした。

お医者さんには話したのだけど、あの時と違って、お巡りさんは真剣に受け止めてくれている。

そんな気がする。


「僕にもあなたと同じくらいの娘がいてね、なんか気になっちゃったんだよ」


「そうなんですか?」


「うん、最近は口も聞いてくんないけどな」


年配のお巡りさんは笑った。

若いお巡りさんも、はにかみながら笑っている。

だから、私も笑った。

マンションの下まで来て、私は深々と頭を下げた。


「ありがとうございました」


年配のお巡りさんは。


「おお、ここかここか!」


と、言いながら私に名刺を手渡した。


「なにか困ったら、いつでも連絡してきてください」


その言葉に頷いて、私はエレベーターに乗った。

凹みっぱなしだった私の心のふうせんは、ちょっとだけ膨らんだようだ。

翌日には求人情報誌を買って、ついでに真っ赤な自転車も買った。

籐のかごのついた可愛い自転車―。

日差しの暖かな日を選んで、私はサイクリングに出掛けるようにもなった。

住み慣れた街が、私の両隣をすり抜けて行く。

タートルネックで首元を隠して、だて眼鏡とマスクで傷は隠しているけれど、清々しい開放感とそよ風は気持ちがよかった。

公園の自販機で買ったミルクティーを飲む。

お茶が並んでいなかったことに不満を抱きながら―。

イチョウの木々が黄色く染まった広場は誰もいなくて、錆付いたブランコがちいさく揺れていた。

この時期は風も強い。

冬の匂いが私をくすぐる。

陽のあたるベンチに腰掛けて、ぼんやりと空を見上げる。

背もたれに身体を預けて、私は思い切り仰け反った。

高すぎる空は、いくら手を伸ばしてみても届かなくて―私は、大好きな恋愛小説の一文を思い出していた。

何かを掴もうと、必死にもがく私の手。

その手は虚しく空を切るばかりで、役立たずのかわいい出来損ない。

今の自分とおんなじ……。

また嫌な気持ちになるのがたまらなかったから、私は立ち上がって空気を思いっきり吸い込んだ。

鼻の奥を、ツンとした空気が刺激する。

草木の匂いと、都会の香りが脳を目覚めさせてくれる。

やっこたち、どうしているのかな?

余計な感情まで覚醒させる素敵な午後。

左ふくらはぎに電流が走る。

新たな傷に。慣れっこになった私の現実。


「バカみたい……」



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