第4話 現実

「 ―さん、藤倉未来さんのお電話で間違いないでしょうか、至急ご連絡いただけますか?」


「いつもお世話になっております、オリエンタルコーポレーションの山下と申します、連絡お待ちしています」


「こちらは新生活信販の大村です、藤倉様へご伝言が御座います、至急当社まで連絡下さい」


「藤倉未来さま、レディースライフの島袋です。至急ご連絡いただけませんでしょうか? よろしくお願い致します」


私の目の前に広がる、白い靄の摩訶不思議な(生きているのか、死んでいるのかわからない)世界は、次第にぼんやりと色付き始めて、鮮明な現実世界へ切り替わってしまった。

このまま靄の中で暮らすのも悪くないな。

そんな私の感情なんて、きっと誰も許してはくれないのだろう。

なんとなく、そう思う。

引っ越して来た当初は、シミひとつなかった天井も、長年の生活によって黄ばんでいた。

外から聞こえる喧騒は、意外にも心地よくて、不安定な気持ちを落ち着かせてくれた。

車のタイヤがアスファルトを滑って行く。

空吹かしのエンジン音。

自転車のベル。

女の子達の笑い声。

自分のいる場所が確定出来ずにいた私は、ゆっくりと起き上がって、玄関に投げ出されたハイヒールを揃えながら確信した。


ここは私の家。


昨夜は、鍵もかけないまま意識を失った。

リビングの電話機が鳴っている。

わざわざ固定電話を引いたのは、電話権は信用だからとママが言ったからで、時が経つに連れて、私は昔の習慣に感謝するようになった。

プライベートはスマホ、見たくない現実は電話機と、使い分けが出来たからだ。

留守番電話の応答メッセージが流れた後で、女性の事務的な声が室内に響き渡る。

私を、現実に引き戻すには充分過ぎるメッセージ。


「藤倉様、レディースローンアイユウの木下です。先月のお支払いの確認がまだ取れておりません。至急ご連絡いただけませんでしょうか?」


私は、録音メッセージをすべて削除して、冷蔵庫のグレープジュースを飲んだ。

時計の針は、九時ちょうどを指している。

頭の中で、作戦参謀が思惑を語り始めているが、私には同意するしか道はないのだ。

従順な下僕。

それが私。

銀行に行って、お金を下ろさなくちゃ。

援助の増額のお願いを、パパとママにお願いしよう。

無意味な毎日を送っている話は、決してしてはならない。

パパはともかく、ママは特に心配性だから。

食事や友人、学校生活はもちろん、彼氏についてもあれこれと詮索してくる。

口癖は。


「いつでも帰っておいで」


だ。

そんな古臭いママの考え方に、反抗した時期もあった。

ウザったいママとの関係を、友人たちにはよくからかわれた。

思春期の男子みたいじゃんなんて―。

でも今は、緊急事態なのだと自分に言い聞かせながら、私は受話器に手をかける。

その時、再び電話が鳴った。

私は、恐ろしくなって飛び退いた。

借金の催促なんて、聞きたくもなかった。

不幸な私に襲いかかる現実。

そんな世界から逃げ出したくて、私は部屋を出ようと玄関へ向かった。

留守番電話の再生音が聞こえたのは、ドアノブに手をかけた時だった。


「もしもし未来? ヤスだけど…」


聞き覚えのある声。

ゆったりとした口調が懐かしい。

ヤスは大学時代の同級生で、医療機器メーカーで働いている。

昔はやっこと元彼との四人で、いつも遊び歩いていた。


「あのさ、聞いたんだけどさ……元気出せよ」


私は忘れていた。

ヤスは学生時代、やっこと付き合っていた。

一年も続かなかったけど、今でも連絡は取り合っているらしい。

沈黙がしばらくあって、さっきまでとは違う、妙に明るい声が聞こえて来る。

無理して上げた1オクターブが、正直嬉しかった。


「また飲もうぜ!」


私は、スマホを取り出していた。

人肌恋しかったから、ヤスへのメールは躊躇しなかった。



渋谷の大衆居酒屋で、久しぶりにヤスと飲んだ。

失恋話をするつもりはなかったから、話題は学生時代の思い出や将来の事、ついでにヤスの愚痴を聞く形になった。

賑やかな店内の奥座敷からは、学生達のコールが聞こえている。

それを耳障りに感じながら、どこか羨ましくも思う。

あの頃がいちばん楽しかったのだ。

何もかもがうまく行って、私自身の将来も、問題なく進んでいくと思っていた。

ところが、今では完全にひとりぼっち。

親友には裏切られ、原因不明の病が、私を奈落へと追いやっていく。


「あのさ、明日は予定はあんの?」


ヤスの声で、私は我に返った。

首を横に振ると、ヤスは白い歯を見せて笑った。


「いいじゃん、だったらとことん飲もうぜ!」


「でも仕事じゃないの?」


「ぜんぜん平気、俺さ、ザルだもん」


ヤスが頼もしく見えたのは、今日が初めてだった。

社会がそう変えたのか、私が変わらないだけなのか……。

串焼きの盛り合わせと卵焼きを食べながら、串はやっぱり塩に限るとヤスが頷いている。

味の違い、あなたにわかるの?

意地悪に問い詰める私。

ふて腐れる顔も、食欲旺盛なほっぺたも可愛い。

私は、焼酎を水割りで何杯も飲んで、終いにはすっかりテンションも上がり切っていた。

大きな声で。


「ばかやろ~」


と、叫んでヤスを困らせて、店を出る頃には終電も無くなっていた。

ふらふらの私は、ヤスの身体にもたれながら歩いていた。

香水のいい匂いがした。


「すこし休むぞ」


ヤスに全てを任せて、私達はホテルへ入って行った。

抱かれている間、私は考えていた。

元彼のことを。

私も浮気はしていた。

だけど上手に隠し通していた。


「浮気は愛の隠し味」


そんな自分に責める権利もなく、それでも勝手だけど、怒りや嫉妬は芽生えていく。

最低……。

気が付いたら、ヤスはひとりで果てていた。

私にはお構いなしに。

無性にシャワーが浴びたくて、熱いお湯を、身体と心に沁み込ませていると、首筋にチクリとした感覚があって、私は鏡を覗き込んで納得した。

自分を追い詰めていると。

白い湯気の向こうには、ちいさな傷がまたひとつ、私の身体に増えていた。

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