雫のむこう③
今夜は大人しく、兄さんと寝ることにする。
義兄はさすがに日中も仕事、山陰から山口まで帰ってきたせいか横になるとすぐに動かなくなった。
カナは悶々としている。やっぱり頭から離れない。なにを造ろうかと考えてしまう。
目の前にいろいろな色彩がぐるぐる回っている。手が、吹き竿を握りたがっている。橙色にとろとろに熔けたガラスを巻いて、透明な玉にしようと吹く。
くるくるまわす竿、真っ青なガラスを被せて、厚みが均一になるよう回して吹く。その感触が……。目をつむっても。
でもアクセサリーは、ほんとうにささやかさがポイント。ぽつんとした輝き。
「ぽつん」
ベッドに横になったまま、カナはそっと自分のお腹に触れた。
いまここに、まだ人の形にも成さないけれど、わたしと兄さんからできた命が『ぽつん』とあるんだとカナは感じている。
小さな小さなトンボ玉をつくってあげるんだ。そのうちにこの子の持ち物にずうっとつけてもらったりして。何色がいいかな。その子をみて、ぱっと感じた色がなにになるか早く知りたいよ――。この子のガラスができたら、兄さんと航にもお揃いで……。
と、ここまで考えてカナはハッとした。
よく『お揃いのお洋服にしちゃおう』とママさんが考えるようなことを、洋服じゃないけれど、ガラスに置き換えてわたしも人並みに考えているじゃない!! という衝撃。
「そっかー、そうかー、やっぱ、ママになるんだー」
なんだわたしだって、ママっぽいところあったじゃない――と、嬉しいやら安心したやら、自分らしくないような。
それでもガラスがそこにあるというのが、また驚きだった。どうあってもわたしはガラス職人であろうとするんだなと。
「ガラスを吹くママになる」
涼しい風がはいってくるベッドルーム。今日は月はなく小さな星だけの夜空が見える。
少し気持ちが落ち着いてきて、とろんと微睡みそうになったその時。
先に寝たと思った耀平兄が、いつもそうしているようにカナの背中に抱きついてきた。
「頼む……。もう我慢できないだろ」
は? もしかして、あれだけ理性的に我慢していた兄さんが。まさか、抱きたくなったとかそんな気分になっちゃった?
それでもカナは頑として断ろうと……。
「もう、おかしくて我慢できない。おまえが、ママになるって独り言!」
そこで兄さんがタオルケットにくるまりながらお腹を抱え、ごろごろしながら『あはは』と笑い出した。
カナもやっと気がついた。カナをそっと寝かせようと、これ以上のお喋りはすまいと気遣って、耀平兄さんは『寝たふり』をしていたのだって。
「もう~、なんだよ! 笑わせないでくれよ。おまえが独り言をいうにしても、なんだよ、ママになるんだーとか、ママになるとか!」
「い、いいじゃない! これでも、こんなわたしがママになれるのかって不安なんだから。でも、ガラスはずっと吹きたい!」
ついに秘めていた心配をカナも叫んでいた。
それでも。しばらく耀平兄はおかしそうにしてクスクス笑い続けている。カナはもう恥ずかしくなって頬が熱くなってきた。
「兄さんなんて、嫌い」
カナもタオルケットにくるまって、兄さんから離れて寝転がった。
ずうっと前からそう。カナは『兄さんはズルイ』とか『嫌い』といって、わざと彼に背を向けてきた。それをわかっているから、彼がいつもカナの背を捕まえるようにして抱きついてくる。
なのにそれは、逆に彼を大好きだったカナを安心させる抱き方だった。そしていまも、また、兄さんはカナをそっと長い腕で抱いてくれる。
そして耳元に彼が囁く。
「カナ、俺もガラスを吹くママになってほしいと思っている。おまえのことだ、もう、頭の中にこの子になにを造ろうか考えているのではないのか」
彼の大きな手が、カナのお腹をさすった。
カナも、なにもかもわかっている兄さんはさすがと思いながら素直に答える。
「うん。この子だけのものを造ってあげたい。色はこの子を見た時に決めるの」
「楽しみだな。どんな色の子になるんだろうな」
「ほんとだね。この子はどんな色かな」
そっと振り向いたそこに、いつもカナを待っていた彼がいる。その彼と目が合うと、カナの頬を捕まえてキスをしてくれる。
いまは、今夜はここまで。そのせいか、兄さんのキスが深く長かった。
ふたりで抱き合って眠ると心地がよい。カナもそのまま眠りに落ちた。
翌朝。カナの様子だけ見に来た耀平兄さんだったから、もう豊浦の会社へ戻ろうとしていた。
暑い夏の始まり。涼しげなネクタイをカナは選ぶ。白地に金春色のラインで業平菱模様を描いたもの。なんだか昨日から『和』の気分。
スーツを着てネクタイを締めると、凛々しい副社長の旦那さんになっていく兄さん。でもカナはそんな彼を見上げながら、昨夜、ケラケラ笑い転げていた兄さんを思い出してしまう。
まるで若い青年みたいな顔で笑っていた。ずっと前の、なにもかもを信じていた時の純粋そうなお兄さんだった時の顔で笑ってくれていた。
結婚してからもお兄さんだけれど、でも、耀平さんはやっぱりわたしの夫になった人なんだ――。カナは今になって妙な実感に襲われていた。
「どうした、カナ」
「ううん。気をつけてね。こんな頻繁に豊浦と山口を行き来して、また事故を起こさないでね。もう、やだよ。あんな思い」
結婚前に交通事故に遭った夫のことを思い出すと、いまでもカナは泣きそうになる。
でも兄さんは、まだ丸くもなっていないカナのお腹へ視線を落としている。
「会いたいんだから、今まで以上に気をつけるから安心しろ」
また。あの優しい顔で頭を撫でてくれた。こういう時は奥さんというより、まだ義妹?
でも耀平兄は今日はご機嫌で、結んだばかりのネクタイをみつめている。
「うん、いいな。やっぱりカナに選んでもらえるとしっくりする。一日、気分がいい」
カナが揃えたネクタイも、夫になった兄さんのクローゼットにずらっと並んでいた。
彼もそのたくさんのネクタイをしばらく見つめて、感慨深そうに触れている。
「ここも、ガラスのようだな」
ガラスのよう? ビジネスマンの兄さんが、そんな表現で言葉にしたのが珍しく感じてしまった。
「カナが造るガラスとおなじものを感じているんだ」
季節の色、そして伝統的な柄。和風も、そして海外的なものも。ものがそこにあるのは成り立ちがあり、また技術がある。
そう言われれると似ているかもカナも初めて思った。
「無理するなよ。航のこと、頼んだからな」
出掛ける時、兄さんのいつもの言葉。そして兄さんの匂いがする白いシャツとネクタイの胸の中にぎゅっと抱きしめられ、カナもうんと頷いた。
―◆・◆・◆・◆・◆―
そんなお兄さんな夫がお仕事に出て行ってすぐだった。
カナはスケッチではなく、工房へと向かっていた。
すでに親方のヒロを始めとした、若い職人の青年達も作業を始めていた。
カナが現れたので、なんだか男達がそろって戸惑った顔を見せる。
作務衣姿のヒロもすぐにすっとんできた。
「おい、まさか今日はここで吹く気じゃないだろうな。いまはやめておけよ」
「うん。でも、ガスバーナーと、トンボ用の色ガラス棒が欲しいの」
「なにするんだよ。それなら、家の中に持っていくから」
持ってきてくれるというので、お言葉に甘えヒロにお願いをする。
ダイニングテーブルにそれが揃うと、カナはさっそく作業に入る。気になるのか、ヒロは戻らずにカナが始めたことを眺めている。
「舞が引き受けようとしていた、通販のアクセか」
「そうだよ。いつもの感覚で小難しいものをデザインしたら、社長に却下されてね。でも、なんかわかった気がする」
そう、ネクタイと一緒なんだ。カナのなかにいま溢れてきている。
「どうするんだよ」
「みてて」
細いガラス棒をガスバーナーの炎にあてる。原理は一緒、下玉のような玉を造り、それをステンレスの細い棒に巻き付け、丸くなるよう転がす。
トンボ玉より、かなり小さな玉をつくる。ほんとうに『雫ひとつぶ』のような小さな玉を。
そこからカナは色ガラスをつかって色をぽとんとのせる。その調子で、三つほど色違いをつくった。
「うん。色合いがいいな」
「これは海、これは夕焼け、これは夜空。花、葉……。透明な玉の下に色を入れて、まるでガラス瓶に閉じこめたお好きな自然みたいなかんじ。これに雲母の粉できらめきをプラスすると存在感が出ると思う」
「シンプルだけれど、これならさりげなくつけられて服の邪魔にもならない。でもガラスの透明感と色の存在感もあるし、何色か揃えたくなるかもな」
「あとは。ネーミング。しじまの海 とか、夜の帳、花のほほえみ、葉のささやき、みたいな詩の世界のようなものを通販会社のバイヤーさんに名付けてもらって」
「なるほど。うん。このシンプルさなら、うちの工房職人全員で揃えて造れそうだな。少しいびつで不揃いな方がハンドメイド感が出ると思うから、まったくおなじ寸法という精度もそれほど必要はない」
ヒロも前が開けてきたように、目が輝き始めている。
「サンプル造るよ。それを社長に見せてみるね」
「うん。できたら俺にも見せてくれ」
職人相棒の同期生の反応にも押され、カナはガスバーナーの炎に向かう。
不思議だった。ガラスだけを見つめていると、もうカナはその中に入り込んでいる。つわりなんて、どこにいってしまったのだろう。
赤いガラス玉。青いガラス玉。きらめく銀粉に、雲母の輝き。
ママの中にある色と世界だよ。わかる?
この子にも通じますように。
季節が変わるころ。小さなガラスに色彩ときらめきを閉じこめたペンダントトップのサンプルが認められ、耀平が正式に通販会社との契約を結んだ。
―◆・◆・◆・◆・◆―
通販会社と契約した『雫のむこう』と名付けられた小さなペンダントトップは、工房の職人と手分けをして作成し、カナの出産前までに無事に納品ができそうだった。
サンプルから少し改良をと通販会社のバイヤーから注文があった。
そのバイヤーさんの言葉が『オレンジの上に少しだけグリーンなどの色を付け足せませんか。サバンナの夕暮れ、青い海にカシスの夜明け。みたいなイメージです』。
その言葉だけでカナもヒロもいろいろ思いついてしまい、最後にはたくさんの雫の向こうに見える自然界をつくってしまい、バイヤーさんが『これを五点にするつもりだったのに、選べない!』と困らせてしまった。
今日もカナはガスバーナーに向かっていた。
いまは自由にトンボ玉を作成している。もういろいろな世界が溢れだしてきてたまらない。
吹き竿はカナの日常だったけれど、いままでおみやげ物程度で売れ筋商品だからと思ってショップ用に少しだけつくっていたトンボ玉に、新しい世界を見出していた。
ついに。リビングの端にカナがガスバーナーの作業をするための場所まで、兄さんが誂えてくれた。
そこでカナは作業を続けている。淡々と造られるトンボ玉。
「ただいま」
その声が聞こえたけれど、カナは小さなガラス玉に模様付けの最中。
「カナ」
呼ばれたけれど、ごめん、いま振り返れないし手がとめられないし、声も出したくない。
「カナ、ただいま」
ついに黒いスーツ姿の彼が側まできた。
「ごめん」
「わかっている」
妻が没頭中はどんなに声を掛けても相手もしてもらえない。それも重々承知の旦那様になってくれていた。
でも、トレイに転がっている冷却を終え完成したトンボ玉へと、夫の視線がむく。
「またいいのができているな。すごいな。俺もトンボ玉の再認識をさせられたな。小さな宇宙だ」
帰ってきて新しくできているトンボ玉を見るたびに夫はそういってくれる。
「しかも。うちのガラス工房のサイトにある通販でもすぐに売れてしまうらしいな。固定客が新作が出るとすぐに購入してくれるし、新規開拓にもなっていると舞さんが喜んでいた」
「その中の何個かは、社長の却下を喰らうけれどね」
「そうだな。時たま、奇抜なのが混ざっているのが……、面白いな」
「面白いの?」
思わず手をとめそうになってしまうが、カナは我に返り小さな玉に集中する。
「思い出すな。この子、こんな作品ばかり創っていて大丈夫なのか――というのが、カナというガラス職人を美月に紹介してもらった時に思った感想」
「もう~。そんなひどくなかったよ」
「いやいや。酷かった。変わっていれば個性的、これぞ芸術という若さと、押しつけがましさが滲み出ていた」
自分でも分かっているから、カナはそこで黙った。
「いまは、俺達にもわかるような世界をみせてくれる。嬉しいよ」
作業台を前に椅子に座っているカナのお腹はもう大きく膨らんでいた。そこが目の前になるように耀平兄さんが床に跪く。
そして。そっと丸くなったお腹に手を当ててくれる。
「きっと伝わっているな。いま、母さんには見えているガラスの宇宙を一緒に見ているんだろうな」
カナもお腹をじっと見つめる。時々、ぽこぽこと可愛らしく蹴るようになっていた。
お腹の子は女の子ではないか――とのこと。
女の子ならば、どんなものをつくってあげようかな。
カナのトンボ玉つくりは、まだ見ぬ娘に会うまでの、ガラスを造ってあげるまでの鍛練なのかもしれない。そう思って夢中になってしまう。
「なんて名前にしようか」
兄さんは最近、そればっかりだった。
しかも目尻にものすごいしわがでちゃうほどのにっこにこの笑顔で。
――カナちゃん。
あの頃のお兄さんの顔。いまはもうパパの顔。
「航とちゃんと相談してね。この前も喧嘩になっていたでしょう」
名付けで、父と息子が争うという光景も勃発中。
「古くさいといわれたり、それはいわゆる読めない名前の類になるんじゃないかってうるさいんだ」
「航のほうが保守的だよね。わたしも笑っちゃったよ」
「すっかり兄貴だもんな」
大きくなった息子が、そうして初めてのお兄ちゃんになる様子を知るのも、耀平兄には幸せなようだった。
「花の名前がいいな。ママになる花南とおなじ、花がいい」
そうして幸せそうな兄さんがつけた娘の名は、『
千年、咲き誇れますように。そんな願いを込めて。
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