雫のむこう②
「いや、しかし」
「山中湖では小さなものをいっぱい作っていたよ。御殿場のお店の姪御さんからは、いまも作って欲しいって受注があるでしょ」
「まあ、あそこは親方との付き合いもあるもんだから」
「でも。売れるんだって。わたしのちいさいのも。見せてよ」
父親が躊躇っているのが焦れったかったのか。航が隙を見てひょいとその封書を奪ってきた。
「こら、航」
「いいじゃん、見るだけでも」
航が寝そべったままのカナへと封書を差し出してくれる。
舞が集めてくれた資料が数枚。その通販サイトで販売されている『企画もの』のアクセサリーと、売り上げ順に表示されたアクセサリーの一覧だった。
確かに。他の通販サイトではない手作り感がある。大袈裟ではなく、女性が好みそうなさりげないもの。でもそこだけでも目を惹き光る存在感を醸し出すもの。他にはない『ここだけ』というデザイン、今回の販売のみという限定感が購買意欲をそそっている。
「へえ、お洒落……。わたしも欲しいな」
カナの反応を見て、舞が嬉しそうに近寄ってきた。
「でしょう。私もここのアクセサリー好きなんです。ここでの売り上げも馬鹿になりませんよ。大量生産ならお断りだったのですが、企画もの期間限定品の販売個数はあちらの会社側でだいたい予測が付くそうなので――」
そうして舞はカナがまだ見ていない書類を一枚抜き出して、差し出した。
予測個数と依頼個数の仮注文書だった。それでもけっこうな個数……。これを一人ではどうだろうかとカナは不安になった。
「企画ものですから、まずデザインを話し合わなければなりません。その時間も含めて、販売は来年の夏、一年後――ということになります」
「出産後だね……。じゃあ、出産前までになんとかすれば、どうにかなるかな」
その気になっているカナに気が付いて、耀平兄が割り込んできた。
「やめろ。そんな確実性のない今はだめだ。受注をして、ではおまえが調子が悪くなったからキャンセルなんてできないんだぞ。それこそ契約違反で、違約金が発生する」
「……そうだね」
カナが気を緩めたその隙をみて、耀平兄が手に持っている資料をサッとカナから奪い去ってしまった。
「でも、耀平さん。ここでまた工房の名を広めることが出来るのですよ」
舞は工房のために受けて欲しいという顔をしている。舞はもう『おかみさん』と若い子達に呼ばれている。社長夫人のカナではなくて、工房親方をきっちり支えている内助の功の妻である舞がそう呼ばれていた。
彼女は夫が親方として仕切るガラス工房を絶対に守りたいという意志がある。舞はガラスを吹く勇ましいヒロに惚れ込んだのだから、その想いはカナ以上に強い時がある。
「カナだけに作って欲しいという条件を緩めてくれたら考えましょう。この話はヒロには?」
「もちろん、伝えております。ですが判断は社長である耀平さんがするものだから、まず社長とカナさんの意見を聞いてこいと……」
「それでもヒロはなにか彼の考えを舞さんに話していましたか?」
政治家の娘で元お見合い相手だったが、今はいろいろと力を貸してくれる舞には、耀平兄はいつもお嬢様を扱うような丁寧な言葉遣いなのはいまもそのまま。でも、その聞き方は問いつめるという険しい顔になっていた。舞もそれに気が付いたのか、気後れした顔でうつむいてしまった。
「ヒロは、無理だろうと言っていませんでしたか」
「……言っていました。カナさんが妊娠していなければ受けられたのにと。或いは、カナさんのデザインだということで、他の職人がそれに基づいてカナと一緒の製造を許されるならできるかもしれないと」
「まさにそれですね。私もヒロと同じ意見です」
「では、どうされますか。倉重社長は――」
従業員としての舞の問いに、耀平兄が迷うことなく返す。
「わかりました。私がその通販会社と交渉をしましょう。ヒロがいうとおりの条件を許してくれるのなら考えると――」
「あちらにカナさんが妊娠されていることを伝えてもよろしいかと思います。あちらは女性スタッフが多い部署のようなので、或いは考慮してくださるかもと。カナさんの商品が欲しいのであれば、販売時期も企画スケジュールもずらしてもらえるかもしれません」
「なるほど。わかりました。舞さん、いつも有り難うございます」
舞の女性としての意見は、男の義兄からは思い浮かばなかったようで、そこは耀平兄もハッとしたようだった。
「兄さん。じゃあ、なにをつくるか考えてもいいの、わたし」
まるで社長と秘書のような話し合いをしていたので、カナは職人として間に入れなかった。
「あ、そうだった。というか、カナ。おまえもう何か閃いた顔しているな」
「うん。こんな小さなものだったら、ガスバーナーで作れるよ。ただ個数はいまの体調だと保証できない。みんなの協力は必要かな……」
「デザインできるな」
「うん。もう、思い浮かんだ」
そういってカナはようやっとソファーから起きあがった。
「航。テーブルにあるわたしのスケッチとコンテと色鉛筆をちょうだい。それとカメラ……」
「でも。カナちゃん……。無理しないでよ……」
まだ夏の制服姿の航が心配そうにして、動いてくれない。スケッチブックを手にしたら、また人の生活を捨てるほどに没頭するかもしれないと案じているのだとわかった。
「大丈夫だよ。わたしだって……。せっかく出来た赤ちゃんがいなくなったら立ち直れないよ。それはちゃんとわかってる」
「ほんとに? 俺、弟か妹ができるの楽しみにしてるんだから」
子供の顔になった航に言われたら、カナだって裏切れない。
「大丈夫。航は来年にはお兄ちゃんになってるよ」
そういうと、航がスケッチブックを持ってきてくれた。
それをカナは開く――。
ひさしぶりのスケッチブックの匂い。コンテの粉の感触。
もうなにかが花南の中で生まれている。
だるかったカラダを起こして、むかつきを堪え、カナは初夏の風がそよそよと入ってくるリビングのソファーでスケッチを始める。
ガラスを吹けないせいか、もどかしさが急にそのスケッチに現れた。ぱあっと放たれる感触。
古都の色、季節の色、花の色、風の匂い、空の青さ。それらがカナを包みこむ。
『では、私が連絡をするとしましょう』
『お願い致します、社長。親方にも報告してきますね』
経営を担っている二人の会話はもうカナには聞こえない。
夜になると涼しい風。少し前からちりちりんと風鈴の音も聞こえるようになった。
耀平兄が初夏になると必ず、書斎にしている部屋の窓辺に掛けるようになった。
今夜もそこで彼はノートパソコンを目の前に、書類と向きあって仕事をしている。
仕事の黒いスーツを脱いで 白い綿シャツというラフな姿で涼しげな格好になって黙々と……。
カナはこの部屋にある一人用のベッドでスケッチをしていた。
「おい。なんで今夜はそこで描いているんだ」
耀平兄が窓辺の机から振り返った。
「え、どうして」
「向こうの部屋でいつも描いているだろう。あっちの部屋も涼しい風が入ってくるし、むこうのベッドのほうが柔らかくて座り心地もいいだろう。向こうでくつろいだらどうだ」
「邪魔なの? 気になるの?」
この部屋は本当に耀平兄が一人で仕事に集中するためにあるようなものだった。
カナとただ一緒に住んでいた頃は、カナの機嫌が悪いと義兄は広いベッドルームではなく、このこぢんまりした書斎部屋の狭いベッドで寝ることもあった。カナと距離を置くため、この家の自分だけの場所だったり、疲れたらそのまま眠ったり。そういう耀平兄のための場所なのだ。
ここにカナが留まることはほとんどなかった。なのに今日は彼にひっつくように一緒にいる。スケッチもベッドルームのカウチソファーでするのがお決まりだったのに。
「どうした」
ついに耀平が椅子から立って、カナがいるベッドへとやってきて腰を掛けた。
しかも書きかけのスケッチブックをカナから取り上げた。
「どれ……。どんなものを思いついたんだ」
どうかな……。そうカナはそれを見て欲しくて、ここにいるのだと気が付いた。
いつもなら。制作と創作に関しては、義兄の意見など気にしない。出来上がるまでは『カナの自由』。出来上がってから彼が売り込みをする担当者、社長として品評する。
なのに、今夜は……。デザイン段階で社長の意見を聞きたくなるだなんて。
カナは溜め息をついた。『なんだか、いつものわたしじゃない』。そう気が付いた。
しかも隣にいる耀平兄は、もう社長の厳つい顔に戻っていて、カナが昼からスケッチをしたもの十数点を見定めている。
カナ、職人としてドキドキと緊張する瞬間……。
そして、彼がついに言う。
「どれもだめだな。考え直してくれ」
スケッチブックをすっと冷たく返された。そのまま彼が机に戻ろうとした。
「どうして。どこが悪いの」
戻ろうとする耀平の白いシャツの裾を抓んでひっぱっていた。
そんな、往生際悪いカナではない。カナの気質などわかりきっているからこそ、耀平兄が驚いて振り向いた。
きっとカナは不安に駆られた顔をしているのだと思う。
「カナ、どうした」
厳しい社長の顔をしていた耀平が、兄さんの顔に戻ってベッドへ腰をかけ直してくれる。しかも、そのままカナの肩を柔らかに抱き寄せてくれる。
スケッチブックを抱えたまま固まってるカナの手も優しく握ってくれた。義兄さんの白いシャツの胸に頭も抱きしめてくれる。
「さすがに。カナも、らしくなくなってしまうんだな……」
そうして今度は、カナのお腹に手を当てた。
「ここにいることは、すごいことだと思う。だからこそ、カナにも変化が起きているんだよな」
妊娠をして情緒が不安定になっている。だから、いつものようなものが描けないし、思いつかない。そして自信をなくして不安になって、兄さんの側に来てしまった。カナもやっと認識した。
胸に抱きしめているスケッチブックを耀平が再び手にして、カナと自分の目の前に開く。
「舞さんから話を聞いてパッと思いつきはした」
すぐに描けたのは『古都の色彩』と題したトンボ玉だった。古都らしいセピア色や藤色の中に、桜や水流などの和の模様を描いたものだった。
「独りよがりだ。カナにとっては身近でもあるだろうが、通販サイトを覗くユーザーのすべてが気に入るとは限らない。まあ、好きな女性が一定数はいるだろうがね」
「わかってる……」
「夏の和は涼しげだから、悪くはない。ただもうすこしシンプルにするべきだ。他の職人が作れるもの、それも今回の受注では大事な点だ。デザインはいいが、カナが一人で作るにしても限界があるデザインになるだろう」
「うん。わかってる」
「もっと簡略化してくれ」
そう言うと、スケッチブックを閉じてしまった。
「やめよう。俺ももうやめる。向こうの部屋で休もう」
耀平兄がカナの手を優しく握る。自分の仕事を終わりにしてまで、カナを休める場所へと一緒に行こうとしてくれた。
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