【5】雫のむこう(カナ視点)

雫のむこう①

 水鉢の金魚を見ていても、まったくまったく癒されない。

 庭の花の匂いでさえ、ムッとする。

 話には聞いていたけれど、こんなに辛いだなんて思わなかった。


 工房と繋がっている裏口からチャイムが鳴ったけれど、しばらく無視した。


 それに眠気も酷い……。皆が勤務中だから申し訳なく思うのに。こんな状態だから、無理をするなと休ませてもらっているところ……。


「大丈夫か。カナ」


 ソファーでぐったりしていると、奥の工房から本宅へと親方のヒロが様子見に来てくれる。


「うー、だめだよ。つわりがこんなに辛いだなんて……」

「舞もそうだったよ。1ヶ月ぐらいで酷いのはだいたい収まるから、あと少し頑張れよ」

「無理だよー。あー、ガラス吹きたいのに吹けないし、切子も集中できない。なんなのこれ……」


 このわたしがガラスに触れられないなんて、よけいに気分が落ち込むというもの。


「だから、ほんの一時だから。いまは気分が悪いなら頑張らずに横になっておけっていってんの」


 既に一児の父親となった職人相棒で大学の同期生であるヒロは、経験済みだからどんとしている。

 これがまだ何も知らない若い職人である彼等だと、カナがちょっと吐き気をもよおす姿を見せると『お嬢さん、大丈夫ですか』どうしよう――とオロオロするのに。


「ふうー、もうすぐ航が帰ってくるから……。今夜のご飯も適当になんか買ってきてもらおうかな」

「はあ、仕方がないな。舞になんか持たせようか?」

「いいってば。舞さんだって、小さな子のママで大変なんだから……」


 ヒロと舞の間には男の子が一人。一歳を過ぎたところだった。もう小さくてちょこまかして、あの子がいるとみんなが追いかけて動かされる。


 そんな小さな子供がいる風景を見て、カナは密かに恐れている。

『わたし、ママになれるのかな』と――。

 ずうっとガラスばかり吹いてきて、夫になった義兄ですら『おまえ、結婚なんて考えたことがないだろ』とカナの心情を見抜いていたほどなのに。


 だからって。義兄さんとふたりきりがいいなんて思ったこともない。甥の航も小さい時はそれはそれはかわいくて、面倒を見るのも楽しかった。


 だからこそ。今度こそ、義兄さんに血の繋がった子供をわたしが……。

 わたしも、義兄さんの子供が欲しいよ。また航みたいな小さな子がわたしたちを賑やかにしてくれて、笑わせてくれるよね。そう思って、待ち望んでいたのだって本当の気持ちだ。


 でも。『妊婦になる』は、どのようなことかわかっていても、自身のカラダになるとこれほど辛いものだとまでは考えていなかった。


「ムカムカするよー」


 ソファーのクッションを抱えてゴロゴロするしかない。


「何事もふーんて顔でやりすごすカナが、そんなに追いつめられるだなんて。やるな。お腹の子」


 ヒロがのたうちまわるカナをみて面白そうにしているので、睨み返してしまう。


 そんな時。庭の緑の垣根から車の音。二人一緒に振り返ると、黒いレクサスが停車したところで、そろってびっくりする。

 暑くなってきたのに、相変わらずに黒いスーツをビシッと着込んでいる耀平が運転席から降りてきた。


「おーっと、お邪魔になるから、俺は戻るなー」

「うん、ありがとうー」


 そしてまたヒロがニヤリとする。


「もう~、社長も心配で気になって仕方がないんだなあ。だって、おまえみたいな言うこと聞かない女が、じっとしてるはずないっておもってんだよ。実際は、お腹の子がしっかりと止めてくれているけれどな」


「うるさいな。ヒロだって、舞さんが出産するまでオロオロしていたじゃん!」


 思わず抱えていたクッションを投げてやる。でもタイミングよくヒロがバシリと払い落として命中せず。


「今度はこっちが楽しく眺めてるなー。じゃあな!」


 作務衣姿の親方ヒロがうひひと妙な笑みをこぼして、工房へと消えていった。


 ヒロが消えて間もなく、玄関をあがってきた夫の耀平がリビングのドアを開けた。


「ただいま。ああ、やっぱりな。そうなっていると思った」

「おかえり~。どうしたの、仕事、大丈夫なの?」


 カナの妊娠がわかってから、耀平はこうしてこまめに様子見に帰ってくるようになってしまった。


「大丈夫だ。お義父さんも心配していて、様子を見に行ってこいと言ってくれるほどだよ。ガラスを吹きたくて、暑い気候になってきたのに無理して工房に居座っていないかと心配している」

「みてよー、そんなわけないじゃない。もう、どうにもならなくて……。気がおかしくなりそう」


 こんなに一カ所でじっとしているカナを見るのは滅多にないことだからなのか、ソファーでぐったり大人しくしているカナを見て、義兄の耀平がそっと笑った。


「そうみたいだな。航からもメッセージが入っていて、なにも食べてくれないと心配していたもんだから」


 そのほうが心配になって来てしまったと、あの怖い顔ばかりしているお義兄さんが、優しく微笑みながらカナの目の前に跪く。


「しんどそうだな……。辛いだろう」

「う、うん……、ずっとムカムカする……」


 そういって優しく額まで撫でてくれる。いつもの厳ついお父さんの顔じゃないから、カナのほうが戸惑ってしまう。


「ほら、これをみつけてきたんだ。これぐらいはどうだろう」


 小脇に抱えていた紙袋を開けて見せてくれる。ゼリーがいろいろ入っていた。


「トマトゼリーなんてあったんだ。ほかにもフルーツゼリーも」

「うん。おいしそうだね。それなら食べられそう」

「では、冷やしておこうな。今日の夕飯は心配するな。航と俺の分ぐらいなんとかするよ」

「助かります~」


 へろへろの声で答えると、義兄がますます面白そうにくすりとこぼした。


「なに、兄さんまで」

「だってな、そんなへたばっているカナを見るとは思わなかった」

「なによ。若い男の子達はおろおろするのに。経験者の男たちは余裕で面白そうにして――」


 と、そこまで言って、カナは我に返り後悔する。


 妻の出産を見届けた経験がある男たち。同期生のヒロと、そして……姉の夫だった耀平義兄さん。そう言ってしまったことになる。


 それは耀平義兄もすぐに気が付いたようだった。


「別に、経験があるからってわけでは……。これでも、豊浦では心配で心配で……」

「ち、違うの。そういう意味で言ったんじゃなくて……」

「わ、わかってる。いや、否定するつもりも、その、わざわざ思い出したくないわけでもなく――」

「いいんだよ。わたし、お姉さんとの結婚生活の頃を、兄さんが話しても全然平気――」


憧れだったんだから。わたしはガラスで生きていきたかったから、幸せそうな家庭のお裾分けをお姉さん夫妻と航から見せてもらっていたの。


 カナがそういうと、耀平兄の眼差しも柔らかく緩んだ。


「兄さんには、前の奥さんかもしれないけれど。わたしにとって『前の奥さん』は、ただのお姉ちゃんなの――」


 やっと彼も穏やかに微笑んで、またカナの額に手を当ててくれる。


「そうだな。もし、美月が生きていたら。きっとこんなおまえの世話をやいていただろうな。出産するまでカナについているとかいって、夫の俺もほったらかしだったかもしれないな」


 それほど、おまえたちには強い絆があったよ。時々、なんとなく入れない時があって、俺はおまけかなと思うこともあった――。なんて、耀平兄が言いだして、カナは驚く。


「やだ。兄さん……。おまけなんかじゃないよ。わたし、お姉さんもお兄さんもほんとうにあの時から大好きだよ」


 思わず、寝そべっているままカナは側にいる義兄に抱きついてしまった。


「カナ……。俺には最初からおまえだけだったんだ」


 黒いスーツ姿のまま、義兄さんもカナを抱きしめてくれる。

 そのまま目があって、つい、キスを重ねていた。


「こんな暑いのに、スーツ着込んで……」


 首元に手を当てるとじんわりと汗をかいている。でも、そこからいつもより爽やかなマリンノートのトワレの香りが立ちこめている。


「お父さんがそうしているから、負けるわけにいかないだろ」

「なに争ってるの」


 そういいながら、またキスをした。今度は舌先を絡めて愛しあうキス。

 そうしながら、カナは義兄の首元にきつく締めているネクタイを少し緩める。そして、空いた首元、喉仏へとくちびるを移してキスをする。


「やめろ、そんなことしても、どうにもできないだろう」

「なに? 我慢できなくなっちゃう? わたしもだよ……」


 妊娠初期でまったく控えているところ。耀平兄は決してカナに無理強いをしないし我慢してくれている。カナも気分は悪いけれど、彼に触れるとそうなりたいと思う気持ちは湧く。


「だ、だめだ。離してくれ」


 でもカナはさきほど大人しくしているのを面白がった仕返しに、彼の首元、耳元を舌先で舐めて愛撫し続けた。


 我慢をしている分、義兄の吐息が辛そうなのがわかる。

 わたしをいじめると、仕返しがひどいから――。そんな気持ちで彼の肌を愛した。


 なのに。その途端にまた吐き気がきて、カナはついに兄さんから離れて、ソファーへと逆戻りうつぶせになって嗚咽を繰り返した。


「うーー、もう、なんなのよ……」

「ほらみろ。俺だって我慢しているんだから、おまえもそこまでだ」

「もうー」


 なんの抵抗も出来ずにぐったりすると、また義兄さんが楽しそうに笑う。


「冷やしておくな」


 改めて冷蔵庫へ向かい、買ってきてくれたゼリーを冷やしてくれる。


「ごめん……、お抹茶も作れそうにないよ」

「そんなおまえに作ってもらおうだなんて思っていない。暑いし、もう我慢せずにビールにする」


 もうこの家に帰ってきたから仕事もない。だからもう気にしないでくつろぐことにしたらしい。

 そうして耀平兄がネクタイをほどきながら冷蔵庫から缶ビールを出した時だった。


「ただいま」


 息子の航が帰ってきた。


「あ、父さん。帰ってきたんだ」

「うん。カナが心配だったんだよ」

「よかった。カナちゃん、なにも食べないんだ」


 またぐったりしているカナを見つけて、航が困った顔。そういう時は、なにもできなくて困惑している子供の顔になる。


「つわりはそんなものだ。おまえの母さんだってそうだったよ」


 今度は姉のことをさらっと口にした。でもカナはそれでいいと知らないふりをする。でも航はギョッとしてカナを見た。


「そ、そうなんだ。母さんも、俺の時に……?」


「おなじだ。一時だから、そういうときは口に出来るものだけ食べればそれでいいんだよ。そうおもって、カナにトマトゼリーとか買ってきたところだ」


「さすがだね、父さん。なんか知らないけど、カナちゃん、最近、トマトトマトっていうんだよ」

「美月はパイナップルだったなあ」

「人によって違うんだ?」


 なんて、もう父子でお母さんと叔母さんの話を平気でしている。


 それでいい。航にとっては、姉さんは生みの親だもの。それに、カナも覚えている。お腹が膨らんできた姉の姿を。その時は優しい顔でお腹を撫でていた。あんなことなどなかったかのようにして。


 母親がどんなふうにして女として生きてきたかはともかく。航には姉の母親としての姿は知っておいて欲しいと願っているから。


「こんにちは」


 航が帰ってきたのとほぼ同時に。今度は舞が訪ねてきた。


「カナさんどうですか」


 そういう舞の両手には、トマトが入った箱がある。


「トマトが食べたいと言っていたので、今日のお土産に」


 一の坂川のショップ販売と経理を任せているため、舞もすでに倉重ガラス工房の社員として働いてくれている。一歳になった男の子は保育園に預けるようになっていた。


 だからこうして、夫が親方を務める工房へとよく訪ねてくる。


「舞さん、お疲れ様。ショップはどうかな。困ったことはありませんか」

「大丈夫ですよ、耀平さん」


 元々、親の都合でお見合いをして婚約一歩手前まで行かされそうになったふたり。そのせいかいまでも名前で呼び合っている。


 それでも、出会いのきっかけはともかく、いまは工房社長と従業員。しかも舞は政治家である実家の手伝いをしていた経験を活かして、工房の事務も取り仕切ってくれていた。


「耀平さんが帰ってきていて、ちょうど良かったです。ひとまずカナさんに報告しようと思っていたんですけれど……」


 舞がひとつの封書をダイニングテーブルに置いて、そこに立っている耀平へと差し出した。


「なんですか、これは」

「商品を作って欲しいという依頼です」


 義兄がその封書をさっそく開いて、中身を覗いた。


「依頼はまずメールできました。所在と事実かどうかを確かめるために、こちらから電話をして確認も取っております。封書の中にあるのは、私が集めた資料です」


「通販サイト? 聞いたことがあるな。大手ではないですか」


 驚いた父親の声を気にして、側にいてひといきの冷茶を飲んでいた航も覗き込んだ。


「あ、この通販サイト。俺も知ってるよ。このまえ茶道部の女の子達が一緒に注文して色違いとかで分けあっていたもんな」


「そうなんです。けっこう老舗の女性向け通販サイトです。そこで、カナさんに女性が喜ぶようなアクセサリーを作って欲しいとのご依頼です」


「カナに? 名指しなのか」


 また耀平兄が驚いた。


 そしてカナも。ぐったりしながらも耳がぴくりと動いていた。


「しかしな、いま、カナは……」

「そうですよね……。お返事は保留にしていますが、社長と相談してからと伝えています」

「手作り感がある、繊細な、日常的アクセサリーか」


 また義兄が溜め息をついた。


「カナはこういうのよりかは、こう、もっと大きめの作品を造り続けてきたからどうか……」

「御殿場の『オールドグリーンジェイド』さんで、カナさんが作ったガラス製品をこちらのスタッフがよく目にしていたそうです。銀賞作家だと聞いてますます興味をもたれたとか」


 山中湖の工房でお世話になっていた芹沢親方の姪が、御殿場でヒーリングショップを経営していて、そこによくカナは女性向けのインテリア的小物をつくり卸していた。どうもそこで目に付いたと言うことらしい。


「兄さん、みせて。その資料……」


 ソファーで寝そべったまま、カナは力無く腕を伸ばした。


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