セピア・インストゥルメント③

 そんなに嬉しかったのかな? その晩、カナはベッドの上で息を切らしながらそう思っていた。


 ふたりでチョコレートを食べて、ちょっとだけブランデーを含んで……。留守にしていた間の話を、豊浦の実家で父と母がどのように過ごしているか聞かせてもらって、ふたりの時間を過ごした。


 そのまま夜が更けて、ブランデーでほろ酔いになった兄さんから、ガウン一枚になっているカナの肌に触れてきた。


 ゆっくりと優しく、カナの肌を露わにして、ほろ酔いブランデーの香りがする吐息をカナの肌に滑らせて――。


 ベッドの上で重なると、いつもより彼が強よめにカナの中に入ってきて、なのにいつもよりじっくりと腰を動かして、上からしみじみとカナを切なそうに見下ろしている。


「に、にいさん……」


 カナも上から愛されるまま、みつめられるまま、彼を見つめ返した。

 そんなに嬉しかったの? わたしのチョコレート。そう聞きたかった。


 結局――。こっそりとぶきっちょなチョコレートづくりをしていたのがバレてしまったし、きちんと完成したものをプレゼントすることができなかった。


 なのに。兄さんは始終嬉しそうにして、不格好なチョコレートを食べてくれた。


嬉しかったんだよ。あんなに素っ気なかった義妹のおまえが、結婚して妻になったらこんなにかわいいことをしてくれるようになったのが。


 そう耳元で囁かれると、天の邪鬼はここでそっぽを向いてしまう。なのに、その顔も義兄の目線へとむき直され、どこにもカナの視線が逃げないようにされてしまう。


「わたしらしくなかったね」

「カナらしいにも、ほどがあるだろ。隠れて、しかも……」


 愛されている途中なのに、彼がそのままの格好でくすくすと笑い出してしまう。


 なんだかムードが壊れちゃって、カナは眉をひそめる。

 もう、やっぱりやるんじゃなかった。


「最高のガラス職人の、チョコレートは秀逸だったよ」


 もうすごい嫌味。でも義兄さんはそれがまた楽しかったようで、クスクスと笑ったままカナにキスをする。


 そのキスがまた……。いつもと違う。もうどうしようもないとばかりに、義兄さんの方が今日は熱くなっている。


 壊れたムードは、またすぐに色づいてこっくりと深くなって、カナの首元、胸元、そして乳房へと彼の口先がせわしく愛撫を繰り返していく。そしてカナもすぐに彼の愛撫に溺れてしまう。


 兄さん、にいさん……。


 航がいるから、喘ぎ声だって我慢しているけれど、今日はとっても熱くなっている兄さんにカナは何度も押し流されて悶えた。


 汗ばんだカラダを寄せ合って、ふたり一緒に朝まで眠る。

 カナの背中に抱きついて兄さんは眠っている。カナも背中から抱きしめられてうとうとしていた。


 でも、なんだか今夜はよく眠れない。兄さんが今夜はとってもはりきって愛してくれたからなのかな? いつもなら兄さんと一緒に眠りに落ちているのに。


 いつもとは違う感覚の睡眠に悶々として、ついに目が覚めてしまった。

 わたしらしくない。

 そう思い至った途端。カナは兄さんという夫の腕をといて、ひっそりと裸のまま起きあがっていた。


 胸の真ん中から何かが湧き上がってくる。夫と愛することで汗ばんでいた肌。汗はひいたけれど、カナはいつもの感覚に襲われる前触れを感じ取っていた。


 義兄に肌を愛されて、そのべたついたカラダのまま炎の前に行く――。

 カナは急いでベッドを降りた。ぐっすりと眠っている耀平兄をそっとして、いつもの工房での服装に整える。職人のエプロンをして部屋を出た。


 カナが向かうのは工房。溶解炉の火はいつだってついている。焼き戻り炉の火も、今夜はつけたままだった。すぐにやれる。


 ただ、相棒がいない。カナは時計を見る。まだ夜中の二時。ヒロや後輩の職人がくるまで、あと三時間。


「いい、ひとりでやろう」


 カナは吹き竿を手に取っていた。セピア色のガラス棒から模様にする分だけ砕き割り、柄付けの準備をする。


 ひとり、溶解炉にある透明ガラスを吹き竿の先に巻き取る。


 吹き竿の先には真っ赤に熔けている液状のガラス、息を吹き込む前に、カナは呟く。


「セピア・インストゥルメント」


 これがわたしがものを作る感覚。ものをつくる時の姿。この道具こそ、わたしの鏡。


 また、あっちにいったりこっちにいったり、様々な感情を経て、カナは夜の内にそっと削ぎ落とす。そこに残った純真の核をいまからそこに生み出す、息を吹き込む。


 外に雪がちらついていたようだったが、熱い炎にひとりで挑むカナには気がつかないこと。


 ガラス工房は冬でも暑い。そこ一点に、カナは夢中になる。そこに何かが還ってくる。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―



 せっかく夫が『おまえ達とゆっくりと週末を過ごしたいから、早めに帰ってきた』のに、その週末、カナは急に襲ってきた感覚をもとに、ガラスを吹くことにまた没頭してしまっていた。


 目が覚めたようにして『お腹がすいた。家に帰ろう』と思ったのは、翌日の夕方だった。


『またお嬢さんが没頭しはじめましたよ。いつまで続くのでしょう』

『放っておけ。まったく夜中からずっとやっていたみたいだな。いつものことだよ』


 後輩の島崎君とヒロがそう囁いていたのが聞こえていた。

 ふらっとしながら自宅へ戻ると、キッチンで父子が男同士で黒いエプロンをしてなにかを作っているところだった。


「父さん、なにしたんだよ」


「わからない。ほんとうにわからない。父さんも目が覚めたら、隣にカナがいないから驚いていたんだからな」


「あれじゃないの。チョコレートがうまくいかなかったから、ガラスで自信を取り戻そうとしているんじゃないのかな」


「まさか。そんなことでガラスを吹くようなカナじゃない。あれだけ没頭し始めたということは、また何かが降りてきたんだろう」


「去年は結婚式前に、木蓮が咲いて十日間、人間生活じゃなくなったし……。今度はなに」


 なんだろうな――と親子で首を傾げていた。


「ただいま」


 リビングの扉を開けると、耀平兄と航がとても驚いた顔を揃えていた。


「カナ、終わったのか」

「カナちゃん、もういいのかよ」

「お腹すいたから」


 また二人がそろって驚き顔で、なにかを確かめるように二人で顔を見合わせている。


 没頭すると十日は人間生活をしなくなり、家族である耀平兄や航との会話もそっちのけになるカナが、お腹がすいたとか自分から話しかけてきたからびっくりしたのだろう。


「なにを作っているの。わたしの分もあるのかな……」


 シンとしていた。二人ともまだ戸惑っている。だがしばらくして、航がエプロン姿でカナのところに来てくれ、キッチンの中へと誘ってくれる。


「あるよ。よかった出来上がる前で、ラーメンを作っていたんだ。昨日、買い物に行ったスーパーで、ご当地ラーメン展やっていたから買ってきたんだよ」


「カナはなににするか。俺は函館塩ラーメン、航は荻窪しょうゆラーメンだ」


「わたしも、塩ラーメンかな」

「茹でる前だから、着替えてこいよ」

「うん」


 にっこりと微笑み返すと、どうしたことか、男二人がそろってほっとした顔になっている。


 ガラスに没頭するとあんなに心配させているんだ――と、改めて知った気がした。



 着替えようとリビングからベッドルームへと向かう廊下を歩いていると、工房へ向かう扉が開いた。


 そこからタオルはちまきに作務衣姿のヒロが顔を出した。


「ヒロ、どうしたの」

「カナ、あれで完成なのか。もういいんだな」

「うん。あのまま冷却炉に入れておいて」


 没頭していたのがたったの一日だったので、ヒロも意外だったよう。


「あれ、いいな。いい風合いと柄だった。新商品にするのか」

「ううん。あれは義兄さんにあげるの」


 ヒロもここで面食らった顔になる。


「おまえ、まさか」


「チョコレート失敗しちゃったんだよね。それはそれで当たり前だと思うんだけれど。なんか昨夜、急に造りたくなって窯に向かっちゃったんだよね。やっぱり、わたしってこれだよね」


「はー、おまえがバレンタインにプレゼントって。……いや、違うか。バレンタインだから、その日に合わせてこれ造ろうなんてもんじゃないよな。特にカナは」


 そこはガラス職人同士。その感覚をよくわかってくれるのは、ヒロだからなのだろうなとカナも嬉しい。


「なのに。その日に造れたというのは、それだけおまえが社長と通じてるからなのかもな」


 そういう恥ずかしいことをいうのもやめて――と、言いたかったけれど否定もできなかった。


 昨夜のあの感覚は、いまだからこそなのかもしれない。いましかない、義兄が夫になって一年経とうとしているこの時期だから。もう、この感覚は二度と襲ってこないだろう。来年、もしまたなにかを造るならもっと違う感覚になっているはず。今度はバレンタインではない、なんでもない日に襲ってくることだろう。今回はたまたま。


「来年はもう造らないよ」

「だろうな。つうか、勿体ないな。あれ、店に出したら売れるぞ」

「……義兄さんだけのものになると思う」

「そっか。なんか、羨ましいなあ。俺も舞にそんな感覚になったものを捧げてみたいもんだ」


 そこもガラス職人的な『羨ましい』だった。


 工房にヒロが戻っていく。ガラスがゆっくりと冷えた頃、義兄さんはまた豊浦のお仕事に戻っていく。その時に渡そう。そう決めていた。


 


 ―◆・◆・◆・◆・◆―


 週明け。また義兄さんが黒いスーツを着て、副社長の顔に戻っていく。


「楽しかったな」


 カナが選んだネクタイを綺麗に締めた兄さんが、目の前にいる職人姿のカナをそっと抱き寄せ黒髪にキスをしてくれる。


「今度は木曜あたりに帰ってくるつもりだ。航を頼んだぞ。生意気に強がってカナよりしっかり者の顔をしているが、まだ子供だからな」

「うん、わかっています。ヒロと舞さんもいるし、キーパーさんも来てくれるから大丈夫だよ」


 そこで兄さんがカナをまたなんとも言えない眼差しでみつめている。


「どうしたの」

「いや、今回はどんなガラスに夢中になったのかと思って。しかも入り込んでいる日数が短かったな。出来上がったら見せてくれるよな」


 工房の主として、創作ガラスを任せている職人が、なにに没頭したのかとても気になるようだった。


 カナはベッドルームのテーブルに準備していた小さなペーパーバッグを義兄に差し出していた。


「これですよ。社長」

「そうか。見せてもらう」

「時間がないでしょう。豊浦の会社でじっくり品定めしてください」


 義兄が腕時計を見て溜め息をつく。


「本当だ。わかった。見させてもらった感想は、また夕方連絡をするな」

「お願いします」

「それにしても、小さいな」


 そういうものを思いつきました――と、カナは職人的な口調で付け加えると、義兄も社長の顔でそれを受け取って出掛けていった。


 その日の正午、カナがランチタイムに入って、ようやくスマートフォンを見ると着信履歴がいっぱいあった。


 メッセージが届いていてアプリを開くと、『カナ、ありがとう。びっくりした』と一言だけ着信していた。


 それと同時に電話が鳴る。天の邪鬼は無視をした。『ありがとう』と言われるのが照れくさかったから。


 そのままお気に入りのカフェにランチに行こうとコートを羽織って一の坂川沿いを歩いていたが、その間にも何度もスマホが震えている。


 ついに。カナは観念して電話に出た。


「はい、カナです」

『カナ。ありがとうな。おまえ、あれを造ってくれていたのか』

「うん。あの日の夜、いつもの感覚が襲ってきたからそのまま」

『すごくいい……。色合いも、柄の風合いも、雰囲気も』

「ありがとう、お兄さん。副社長さんのデスクで使ってね」


 義兄にペンを一本だけさせるスタンドを贈った。セピア色と透明ガラスの流線模様の球体で、すぐにペンをもてるように斜めにさせるものを。それをシリーズもののようにして、形を変えて小さなものを数個造った。ペンをささなくても並べるとちょっとしたオブジェになる。


「トリュフは失敗したけれどね」

『これ、商品にできないか』


 ヒロと同じ事を言うし……、そこ最後は社長さんになっちゃうんだとカナは何故か笑っていた。


「義兄さんのためだけに出来上がったのに。売り物にしちゃうの」

『いや、そういうわけでは。いや、その本当にいいと思ったから』


 いいよ。兄さんがそう思うなら。第1号はたったひとつだけ。純真な核、そこに義兄さんの姿はないけれど、でも義兄さんを通ってできたものだから。それさえ残っていれば。


「社長にそこまで惚れ込んでいただけて、職人冥利に尽きます。社長の判断に任せます。それでは」

『待て、カナ……、カナ、』


 ほんとうは恥ずかしいんだってば。もう勘弁して、兄さん。カナから切ってしまう。


 川沿いを歩くカナの口元には白い息。まだ冬の西の京。盆地の冬はとても冷え込む。


「ビーフシチューに赤ワインつけたいな。でも、仕事中だから我慢かな……。仕事でなくても、しばらく我慢かも……」


 小雪がちらちらと舞ってきた中、サビエル聖堂からカリヨンの鐘の音。カナも時計を見てランチへと急ぐ。


 もうすぐ結婚して一年。まだ子供はできないけれど、もしかして、そろそろ? いつも義兄が帰るとカラダの中でなにか起きているかもと思うこの頃――。


だから、赤ワインはしばらく我慢。

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