セピア・インストゥルメント②

「兄さん、お抹茶できましたよ」


 ベッドルームに着替えに行った彼を呼びに行く。

 カナが休日用にと選んだシャツとソフトジャケットを選んで着替えていた。


「カナ、ちょっといいか」


 ベッドルームにある小さなソファーコーナーへと呼ばれる。夜、そこでスケッチをすることが多い。義兄が結婚後にカナのために作ってくれたスペースだった。


 小さなカウチソファーと小さなテーブル。アロマキャンドルと、カナが自分でつくった小さなガラスのランプ。僅かな灯りの中での夜のスケッチはカナの習慣だった。それを義兄が本を読みながら静かに眺めている。それが夫妻になった義兄妹の日常になっていた。


 その小さなテーブルへ行くと、義兄がテーブルにシックな黒い箱を置いた。


「広島で買ってきたんだ。今夜、一緒に食べよう」


 黒い箱の中身は、いまどきのデパートでよく見かける一口サイズのチョコレートが並ぶアソートだった。


「今年、いちばん話題のものだ。広島でも並んでいて大変だった」


 とても綺麗で洗練されたチョコレートが並んでいた。やっぱり今年も自分で買ってきた。山口ではなかなか売られていないから、いつも福岡か広島で探してくる。


 やっぱりあのチョコレートでは勝ち目がない。わかっていたけれど、カナはもう力が抜けてしまい、かえって諦めの微笑みを浮かべることができた。


「おいしそう。今夜のお楽しみだね。やっぱりブランデー? それともウィスキーにする?」

「ブランデーだな」


 義兄がソファーに座った。冬日とはいえ、穏やかな陽差しがベッドルームに入ってくる昼下がり。カリヨンの鐘がひとつ鳴ったところ。


 このベッドルームは、秘密を抱えて一緒に過ごしていた五年の頃よりも、カナにとっては優しい部屋になっていた。


 こうしてほんとうに義兄とふたりきりになれるカナの居場所。ガラス職人ではなくて、彼の義妹で彼の妻になれる場所。なのに、やっぱりわたしって……。女の子らしいことしようとすると全然ダメ……といま落ち込んでいる。


 自分が買ってきたチョコレートを満足そうに見つめていた義兄が、なにかに気がついた顔でカナを見上げていた。その目が、なんだか心配しているような目にも見えた。


「カナ」

「なに?」


 ドッキリとする。年上のお義兄さんには、天の邪鬼を良く見抜かれる。さっきの『航に頼まれて作っているんだからね』なんていうでまかせの言い訳だって、ほんとうは嘘だって見抜かれているのではないか。そんな気がしてきた。


 だけれど、ソファーに先に座っている義兄が、また立ち上がる。ソファーになかなか座らず立っているカナの目の前へと近づいてきて、上からじっとカナの顔を見下ろしている。


「なに、兄さん」


 今日は不精ヒゲがない、爽やかな副社長さんのスタイル。少し伸ばしている黒い前髪をふわっと自然に横流しにしていて、ほんとうに清潔感満載のビジネスマンの顔で、いつものトワレの匂いも漂わせて大人の色香を放っていて……。


「ここに、チョコがついている」

「え?」


 義兄がカナの頬の下、顎の近くを覗き込んでいる。


「うそ」


 手の甲でこすろうとしたら、その手を兄さんにとめられてしまう。


「カナ」

「は、はい」


 今度はすごく真剣な眼差し。止めてくれた手は右手だったから、今度は左手がカナの頬に触れた。彼の薬指には銀の指輪。カナが彼の指にはめてあげた夫の指輪。


 その夫が真剣にカナを見つめる時――。やっぱり、彼がそっと首を傾げて、唇をカナの頬に寄せてきた。そして、チョコが付いているというところへと熱い唇をあてられる。そこをぺろっと舐められた感触。


「甘いな」


 ふっと囁かれ、ちょっとしかついていないはずなのに、義兄はいつまでも舐めている。


「に、にいさん、くすぐったいって。も、もうとれたでしょう」

「まだだ」


 えー、なにいつまでも舐めているの? しかもチョコがついているとかいう箇所から耳元に舌先が移っているし。


 でも。すごく気持ちがよくて、カナはうっとりしてしまっていた。そのまま彼に抱きついてしまう。


 なのに。カナが抱きついたのが勝利の合図のようにして、兄さんは熱い舌先の愛撫をやめてしまう。しかもカナの耳元でクスクスとわらっている。


「ほんとうに、おまえは天の邪鬼だな」


 やっぱり。さっきのばれている! カナはそう悟った。せっかく抱きついたけれど、天の邪鬼はその胸を突き飛ばそうとした。だけれどそれも先読みされてしまい、彼の胸をつっぱねる前に、彼にぎゅっと抱きしめられる。


「俺はいまでも、そんなカナがいい。いいんだ、ほんとうに」


 ばれているのかばれていないのか。そこに義兄は触れようとしない。カナが不格好なチョコレートを作っている姿をみられたことを気にしているとわかっているような言い方だった。


「もういいからな。カナ。充分だ」


 愛おしそうに何度も黒髪の頭を撫でてくれる。


 でも、作ったチョコレートで驚かせたかったよ……。カナは言えずに、抱きしめられたまま心の中で呟いた。


 黙っているカナを見下ろしている義兄が、胸元にいる義妹の顔をもう一度覗き込む。その顔が、あのお兄さんの笑顔。この笑顔でみつめられたらもう……。


「……チョコ、あげたかったのに」


 カナはついに白状する。

 でも耀平兄は、また優しそうに微笑んでいるだけ。カナがいちばん大好きな、一度は消えてしまったあの笑顔には敵わない。


「もうカナからもらったからいいんだ」

「え?」

「うまかった」


 また耀平兄がチョコが付いていたという頬をすっとキスをして、少しだけ舐めた。


「まだ甘いな」


 ハッとする。チョコレートが付いていたカナを味わったから、もうチョコはいらないという意味だと気がついた。


 カナのカラダと頬がいっきに熱くなる。


「もう今年のチョコはいまもらった。でも、あのチョコレートも今夜一緒に食べていいだろう。食べてみたい」

「だ、ダメだよ! あんな綺麗なチョコと一緒に食べないでよ」

「では、今夜はカナのチョコレートだけでいい」

「ええっ。い、いいよ。あんな失敗作を食べなくても! あれ、捨てる」

「はあ? もったいなことをするな。手作りのチョコレートなんて、すごく嬉しかったんだけれどなあ」

「見たでしょ。あの不格好な出来映え! 材料だってそこらへんのもの買っただけなんだから」


 やっと正直に嘆いた天の邪鬼奥さんをみて、耀平兄がまた楽しそうに笑ってカナから離れ、ソファーに座った。


「それでも……。カナがそんなことをしてくれるだなんて……。思ってもいなかったな……」


 感慨深そうに眼差しを遠くに馳せた義兄の横顔に、カナは何も言えなくなる。


 結婚するまで(結婚した後も少々)、義兄には冷たい天の邪鬼ばかりしてきた。素直に愛せないのは辛かったけれど、素直に愛してもらえない耀平兄も辛かったのかもしれないと初めて思ってしまった。


 そんな義兄の隣へと、カナもソファーへと座った。


「食べてくれるの……」

「もちろんだ。嬉しかったよ、カナ」


 長い腕がカナの肩を抱き寄せる。また指輪をしている手がカナの頬に触れ、今度ゆっくりとその熱い舌先で愛してくれたのは、カナのくちびる。


 ひとしきり、ふたりで抱き合ってくちづけを繰り返した後、口元から離れた義兄がまたカナを見つめて言う。


「味見もいっぱいしたんだな。カナの口も甘いじゃないか」

 そういって、またキスをされる。

「カナ、会いたかった」


 結婚したのに。耀平兄さんが帰ってくるのはこの家なのに。義兄はいまだにそんなことを言う。


 仕事でどうしてもいない日が多い。甥っ子と留守番をしている日が半分ぐらい。


「わたしも、兄さんが帰ってくるのを待っているよ。いつも。おかえり、耀平さん」


 カナからも彼の唇を愛した。


『父さん、まだなのかよ。俺、着替えたよ。はやくお茶も済ませろよな』


 外からそんな声が聞こえてきて、お父さんと叔母さんはやっと離れた。


「他の食材も適当に揃えてくるな」

「はい、お願いします」


 三人でお抹茶のおやつを済ませると、高校生になった甥っ子と父親の義兄が楽しそうにでかけていった。

 そんな楽しそうな父子を、カナは金魚の水鉢がある窓辺から見送った。


 

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