【4】セピア・インストゥルメント(カナ視点)
セピア・インストゥルメント①
甥っ子が帰ってくるまでに、すべてを終えたかった……。
それも叶わず、カナの目論見は発覚する。
「な、なにしてるんだよ、カナちゃん」
黒い学ラン姿の甥っ子が、近所にある高校から帰ってきたところだった。
カナはキッチンで奮闘中で、甥っ子に見られるくらいなら片づけようと午前中は意気込んでいたのに、いざ始めたらトラブル続きで上手くいかず、引くに引けずにいま現在に至る。
「見ればわかるでしょ」
そして甥っ子も目を丸くして、しばしアイランド型キッチン台のそばに佇むだけで、カナに近づこうとしない。
「手伝おうか?」
「い、いいよ。ひとりでやれるから」
「うまくいっていないみたいじゃん……? というか、カナちゃんがスイーツづくりしているの初めてみたんだけど」
「だから。こんなことになってんじゃない」
お菓子作りの本を買ったり、インターネットで検索しているうちに、自分でもできるのではないかという気に初めてなった。そんな気持ちになれば、女なら思うもの『好きな彼に、今年は手作りでチョコレートをあげたい』と。
もうすぐバレンタイン。夫になった義兄に、初めての手作りチョコレートをプレゼントしようとしている。
「もしかして。トリュフに挑戦してるとか」
しかし、カナがここまで頑張った結果。理想とは程遠い不格好な物体が、キッチン台に並んでいた。
「見た目が悪いだけなんじゃない。つーか、この変な色はなにいれたの」
小さな声で『抹茶』と言ってみる。航が眉をひそめる。
「ちゃんと分量を計ったのかよ」
「計ったよ。うんと簡単に作れますって書いてあったのにこの有様なのよ」
甥っ子が腕を組みながら、うーんと唸って首を傾げる。
「あの熱く熔けていて非常に扱い難そうなガラスを操れる職人なのに、扱う物質が違うと器用そうな職人さんでも、勘が異なると証明ができたようなもんだね」
そこ感心しているのかと、生意気な甥っ子の物言いにカナは力が抜けていく。
「もういい。明日、もう一度挑戦するから」
「あ、俺もやってみたい。レシピだけ見せてよ」
なんだか甥っ子がやるというと、彼の方がなんでも器用にこなしそうで怖い。だけれど、もしかすると? 最強のアシスタントになってくれるのではないかとカナは思ってしまった。
「いいよ。そこのテーブルの上にプリントアウトしたのがあるから見て」
「おー、これかあ。最近、カナちゃんが眉間にしわを寄せて、それほど見ないインターネットと睨めっこしていたと思ったら」
「そんな顔していた?」
身に覚えがあり、カナはつい眉間に指をあてしわを伸ばそうとしてしまい、それを見た甥っ子が楽しそうににっこり笑う。
昔から変わらない心から楽しそうに笑う顔だったので、生意気なくせに可愛く見えてしまいカナはうっかりきゅんとしてしまった。
「ふうん。父さん、びっくりするだろうなあ。まさか、カナちゃんがバレンタインを意識してチョコレートを手作りして準備しているだなんて知ったらさー」
「ぜぜぜったいに、内緒なんだからね」
「わかってるよ。俺も父さんが驚く顔を見てみたい。最愛の妻でさ、かわいい義妹のカナちゃんが、結婚前はラブラブイベントなんて素っ気なくしてきたのに、結婚した途端にその気になってくれるだなんて、絶対に喜ぶって。父さんたら普段はしかめっつらで怖い顔しているけど、それがどんだけ崩れるかってマジで楽しみ!」
「やめてよ。あんまり、からかうと義兄さんも意固地になっちゃうから。というか、その前に、まともなものが完成しない可能性が大だけどね……」
我ながら、生活面では不器用なことが多くてまいってしまう。ガラスや写真、絵を描くというアートは手に馴染んだようにサッとできるのに。
料理だってうまくなるまで少し時間がかかった。義兄の耀平が満足してくれるまで二年か三年はかかったと思う。いま思えば、よく我慢して文句も言わずに黙って食べてくれていたなと感謝してしまうほどだ。
いままで、彼にチョコレートをプレゼントしようなんてまったく思わなかったわけではないけれど、愛人のような生活をしていた以前の状態だと『決して義兄さんを愛しているだなんて感じさせたくない』とカナも意地になっていた頃。あげたくても、いつ彼と別れてもいいように構えていたからあげられなかった。素直になれなかった。
いまなら! 結婚をして正式に妻になったいまなら、なんの遠慮も要らない! と初めて奮起してみた。
「もう、やめちゃおうかな。来年までにできるようにしておくとかにして」
本気でそう思った。これはにわか仕込みではできそうにない。たまに作って経験を積んだ方がいいような気がしてきた。
「不格好でも、カナちゃんが作ってくれただけで父さんは喜ぶよ。父さんは甘いものも結構食べるし、確かにチョコレートといえばトリュフ系を買ってくること多いよね」
「そうなのよね。仕事柄、食べ物にもアンテナ張っている分、流行のお菓子はひととおり試すために、自分でいろいろ買ってきているものね」
義兄は、自分の楽しみで甘いものを買ってくることが多い。和菓子はもちろん、流行のスイーツなどなど。チョコレートも高級なものを数粒だけ買ってきて、夜のお酒のおともにして楽しんでいる姿をよく見る。
『カナも一緒にどうだ』、『うん、お抹茶を点てるね』。『珈琲を淹れるね』、『ブランデーがいいかな』と、結婚する前からそうして義兄はカナにもご馳走してくれて、ふたりで一緒に楽しんできた。
彼が洋酒の香りがよいトリュフのチョコレートが好きだとわかっているから、知っているから、見てきたから……。だから作ってみようと思った。
「はあ、諦める。バレンタインまでに他のチョコレートを探して買うことにしよう」
「えー、もったいないなあ。まだ日があるだろう。俺も一緒に考えて手伝うから、もう一度やろうよ。買うっていっても、父さんだってバレンタインになったら自分で買ってきちゃうだろ」
「そうなんだよね。バレンタインって男の人にあげるのも女の子の楽しみだけれど、自分のご褒美に今年だけのチョコレートを買うのも女の子の楽しみなんだよね。なのに、義兄さんたら……、男性のくせにバレンタイン限定チョコレートを、自分のために買ってきちゃうんだもの。その分、お目も高いから、ほんとハードル高いのよ」
義兄のこんな趣味が『わたしがあげようが、あげまいが、義兄さんはひとりでバレンタインを楽しんでいるし』と思わせてしまい、いままでバレンタインをまともに過ごさなかった原因でもあった。
「うーん。俺も茶道部にもっていきたいけれど、上手くできるかな」
「航はもらうほうでしょ。なんで、作るのよ」
「女の子同士でチョコの交換なんて、最近じゃあたりまえだろ。そういう感覚。それに海外では男女関係なくプレゼントしているだろ」
「まったく、父子そろって、女の子以上にチョコレートを楽しもうとしているんだから。やっぱりうちでは女性からバレンタインなんて無意味なのよ」
はあ、もうバカバカしくなってきた――と、カナは散らかったキッチン台を片づけようとした。
――『ただいま』。
玄関のドアが閉まった音。そして、聞き慣れた男性の声。
カナと航は思わず顔を見合わせる。
「と、父さんの声だったよな」
「うそ! だって、帰ってくるのは明日だったじゃない」
義兄は豊浦の会社と山口の自宅を行き来するため、この家に帰ってくるのは二日置きが基本だった。
今回も『週末に帰ってくる。航のことを頼んだぞ』と言って豊浦の会社と出掛けていった。今日は義兄さんがいないとわかっていたから、カナもこうしておおっぴらにバレンタインの準備をしていたのに! これではカナが何をしようとしていたのかばれてしまう!
「航、片づけるの手伝って!」
作りかけのものをすべて冷蔵庫にいれようとした。航も制服姿のまま、慌てる叔母に急かされて手伝おうとしてくれるが、既に遅し……。リビングのドアが開いてしまう。
「なんだ甘い匂いで充満しているな」
黒いコート姿の夫、耀平が現れた。
そうして義兄さんが妻と息子が一緒にいるキッチンへと初めて目を向けてしまう。そこにはエプロン姿の妻になった義妹と、高校生の息子。そして散らかっているキッチン台。不格好な手作りチョコ。
見られちゃった! カナはもうドキドキしていたし、汗がどっと滲み出そうになった。
「わ、航が。茶道部にチョコレートをもっていきたいっていうから、その、手作りしてみようって一緒に作っていたの」
咄嗟に出た誤魔化しがそれだった。今度はでまかせに利用された航がギョッとした顔になった。
「ね、航。茶道部の女の子達とチョコレートを交換するんだよね」
「……え、うん。そ、そうなんだ。女子ばっかりだからさ。女子達とおなじことさせられちゃうんだよな」
主である自分が留守の間。妻と息子がしていることを、義兄は妙な眼差しで黙ってじっと見つめている。
そうして義兄は脱いだコートを小脇に抱え、黒いスーツ姿でキッチンへとやってくる。
カナが悪戦苦闘した不格好なチョコレートをじっと見下ろしている。微笑みもしないし、蔑むわけでもない、感情が読みとれない眼差しを見せているだけ。
「ふうん、ずいぶんと苦戦したようだな」
それだけいうとふいっと背を向けてしまった。
「留守の間、変わったことはなかったか」
「うん、なかったよ。義兄さん」
「向こうの仕事がいいぐあいに区切りがついたんで、こっちに帰ってきた。次は週明けに向こうへ行く」
「そう。じゃあ、今夜のお夕食は、三人一緒にできるね。だったらお鍋にしようかな」
「いいね。賛成。俺、スキヤキがいいな!」
ちゃっかり息子のすかさずの提案に、カナと耀平は一緒に笑ってしまう。
「もう航ったら。お父さんが帰ってくる度にご馳走にしないでよ」
「あれ、カナちゃんは食べたくないんだ」
「これでも一応、この家の主婦ですからね。お父さんから渡されている生活費内で頑張らなくちゃいけないんだから」
「知らなかった。カナちゃんでも節約とか考えているんだ」
そりゃ、ぶきっちょなりに考えているよ、特に結婚してからは。と言いたいのに、また生意気な甥っ子にどれだけ言い返されるかと思うとここらへんで降参しておこうかなと、叔母で義理母になったカナは黙ってしまう。
「あはは。面白いなおまえ達は」
なのに、先程までいつものお仕事的な厳つい顔をしていた義兄が、ケラケラと笑ってソファーに座った。
「俺が留守の間も、ずうっとそんな感じなんだろうな」
黒いジャケットを脱いでシャツの姿になると、そこでネクタイをふっと緩めている。その笑顔がとても穏やかで、ずっと昔、彼がカナのことを『カナちゃん』と呼んでくれていた頃のお兄さんの笑顔になっていた。
カナが大好きなお兄さんの笑顔。彼が何も知らない姉の夫だった時の、幸せを疑っていなかった頃の純粋な、彼の笑顔。それがいまここにある。カナの胸がまたきゅんとする。今度はどこか切なさも含むちょっとほろ苦く締めつける甘さがあるときめきだった。
「それなら今夜の肉は、俺が買ってこよう。航、あとで一緒に買い物に行こうな」
「やった。父さん財布なら遠慮いらないな」
「ちょっと航。お父さんのお財布だって限りがあるんだからね」
「はあ、なんか最近、カナちゃんが本当の母親みたいになるんだよなあ」
「そりゃそうでしょ。一応、お父さんが留守の間はわたしが保護者なんだから。豊浦にいたらお祖母ちゃんだってこれぐらい言っていたでしょう。お祖母ちゃんにも任されているんだから」
いままでは離れて暮らしていたから『時々会えるお姉さん、叔母さん』という感覚だっただろうけれど、一緒に住むようになってたまにカナが口うるさいと、航も嫌な顔をするようになった。
でもそれも『親子』になったからこそ。そこはカナよりも航がわかってくれていた。
「まあまあ、いいじゃないか。スキヤキなんていつしたか? 今年はまだやっていないだろう」
そうして最後は幸せそうなお父さんが、あの穏やかなお兄ちゃん&パパの顔で、妻と息子の間をまとめてくれる。
そんな幸せそうな義兄さんを見てしまったら、カナもどうしようもない。それに航と耀平兄が楽しそうにしているのを見たら、カナもふんわりした幸せに包まれてしまうから流されてしまう。
「カナ、お抹茶を頼む」
「うん、わかりました。お兄さん」
未だに夫になった彼のことを『お兄さん』と呼んでいる。時々ハッとするけれど、誰も違和感がないままのようだった。
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