二年目②
山口まで、高速道路で帰る。軽快に走る車の中、やはり無口な義兄と一緒では会話が弾まない。
この人と話すには、仕事か航のことを話題にしないと。でも、なんだか今日は偶然にこんなことになってしまって、上手く言葉が出てこない。
なのに、高速道路を走っている途中、急に――。
「ふうん。そっかそっか」
なにか嬉しそうだった。
義兄はどこかご機嫌でずっと唇の端を緩めている。しかめっ面のビジネスマンが、微笑んでいる。
「でも残念だ。他の男には、カナがにこにこして一緒に選んでいるだなんてな。彼が目当てとかだったりしてな」
もう~。そうよ、そうなのよ。義兄さんじゃなくて、爽やかな彼に会いに来ているの。と言ってやりたくなった。
急に彼から話し始めたと思ったら、そういう『嫌味』。見透かしているくせに、それをわかった上での『嫌味』。
残念だと言いながら、義兄は満足そうにニヤニヤしてる。そう彼はわかっている。『俺のいないところでは、カナは俺を想って、俺のことで楽しそうにしてくれる。俺のことばかり考えている』――と。
「ありがとうな。航のことも、いつも。だから、ご馳走させてくれ。それぐらいいいだろう」
フロントを真っ直ぐに見据えている目が、真剣味を帯びる。
そのままいつものしかめっ面、無精髭の怖い横顔で、黙ってハンドルを回す無口なお義兄さんに戻ってしまった。
「航のことだって、当たり前だと思っているから。これを着たら、航が格好良くなるかなとか、あの子は怒るかもしれないけど、可愛いなって……」
それはお義兄さんも同じ事。本人を目の前にして、決してカナはそんな溢れる気持ちを晒したくないだけ。本当の意味で、彼とは愛しあってはいけないと思っているから……。
義兄に手をぎゅっと握られた。運転をしているから一瞬だったけれど――。
「カナだけだ」
短いひとこと。でもカナはそれで充分だった。それだけで嬉しい。お義兄さんと航を愛していること、これからもずっと――。このままでいいから。
「菜々子さん、元気だったか」
また友人のことも珍しく聞かれて、カナは驚きながらも答える。
「うん。結婚して子供も産まれて、なかなか外に出られないから、今日はランチが出来て嬉しかったみたい」
「そうか」
またそこで会話が途切れた。いつもこんな感じ――。他のことに話題が見つかっても、会話は続かない。
でも今日のカナは思うところがあって、その続きを、胸にあるものを吐露しはじめる。
「やっぱりね。ガラスをやっていることが羨ましいって言われた。学生の時からそう、カナは実家のサポートがあって良かったねって……。ショップの彼も、萩の工房でわたしが作ったライトと切子グラスを買ってくれたみたいなんだけれど、『グラスを見て、花南さんが本物の職人さんだと腑に落ちた』と言われた。わたしのこと、実家の力だけでガラスを吹いている、お嬢様の趣味だと思われているんだって、良くわかった」
愚痴なんて言いたくなかった。義兄さんには……。この人はシビアなビジネスマンだから、小さな事を言ったところで『それなら、誰にも文句を言われない上等なものを作ることだ』と言うに決まっているから――。
そうして義兄はハンドルを握って運転をするだけで、黙っている。
ほらね。くだらない――と思っているのよ。そう思うなら、どんどん吹け、商品を生み出せ――と思っているのよ。
その義兄が暫く黙っていたのに、急に話し出す。
「おまえ、結婚したいと思ったことあるか」
はあ? 今度はなんの話題?? カナは目を丸くして、運転するお義兄さんを見上げた。
「ないだろう」
答えも勝手に言いわれた。
「ないよ。一度もない。普通なら、この歳までに一度は思うのかもしれないけれど」
だって。好きな人が、奥さんと死別していて、子供がいるんだもの。しかも、義理のお兄さんで家族。カラダの関係だけが先に出来上がって、兄と妹として暮らしているだけなんだもの。それに――。その先を義兄がカナより先に言葉にした。
「ガラスを吹くことが、カナにはいちばんだった。なによりも……」
なによりも……というところが、どこか哀しそうに聞こえて、カナは首を傾げる。
「実家の財力でガラスを吹ける――は、カナをよく見ていない証拠だ。カナは、なにも持たずたった一人で小樽へ行った。実家のことは工房には伏せ、ひとりの修行する職人としてガラスを吹いていた。遠い北国で、帰りたいと思っても直ぐには帰ることの出来ない遠い土地で。それだけの決意があったのだと、初めて小樽まで旅をして俺は思った。カナの決意の固さも、そこで知った」
そんなこと、考えてくれていたの――と、カナは驚いた。いつも険しい顔で、厳しいことしか考えていない人だと思っていたから。
「それのどこが、実家に頼っていたことになるのだ」
「そうだけど……。世間ではそんなことより、実家の事業のお陰で……と思うもの」
「世間は、だろ。俺は、最初にお義父さんに事業をひとつ立ち上げてみろと言われた時、計画したものが二つあった」
え、ガラス工房以外に、他になにかあったの? 初めて聞かされる話で、カナはまた驚いている。
「和カフェを展開させようと思っていたんだ。コーヒーなどはもちろん、特徴としては県内有数の和菓子を仕入れさせてもらって、抹茶や緑茶を主力にした本当の意味での和カフェだ。山口には合うだろうと思って。まずは県内、できれば、小倉や広島の都市にも拡張できればと思っていた」
「緑茶が主流の和菓子カフェ、素敵じゃない。どうしてそっちにしなかったの。ガラス工房の方が軌道に乗せるのは難しいって義兄さんならわかったでしょう」
「俺の『やってみたい』が、工芸の仕事だったからだ」
それだけで、カナは納得している。義兄さんは、モノが大好き。もっといえば職人のその技を愛してくれる人だった。
「俺は職人にはなれない。でも、この時代、なかなか伝承しづらいだろう職人は守っていきたい。そしてこの土地に貢献できる産業を興したい。その思いだった」
「でもそれなら、萩焼もあるし」
「そうだな。なんの工芸にしようかと思っていたんだが――。ひとりの職人が造ったものが、俺の心をがっちり掴んでしまったんだ」
「そんな人がいたの? その人、スカウトしないの。あ、それとも萩の工房の親方のこと? 親方が作るグラスは素材が生きていてシンプルだけど綺麗だものね。技術だって――」
きっとそうだと思って話していたら、そこで義兄が急におかしそうにして、でも静かに笑っている。
「お兄さん?」
「マグノリアのキャンドルホルダー、だったな。こんな作品、初めて見たと。ホテルで使いたいと思った」
カナはあまりにも予想外で、もうなにも言えなくなってしまう。
マグノリアのキャンドルホルダーは、カナが小樽の工房で創作したものだ。親方が『勤務時間外に好きなものを作っても良い』というので、自由に造ったもののうちのひとつだった。
大小大きさが異なる木蓮のキャンドルホルダーを七つ作った。親方も褒めてくれたが『技術的に拙い。アイデアはいいが商品には出来ない。バラバラというのも特徴がありすぎる』と言って、ただの練習品になってしまった。
「いつ、マグノリアを見たの」
「小樽に初めて、カナを見に行った時に。親方が見せてくれた」
知らなかった……。あのキャンドルホルダーは、小樽を出てから山口に帰ってきて暫くすると、小樽の親方が『カナが造ったものをまとめたので送ります』と届けてくれた。
それでも拙いという意味が、いまは良くわかるので、カナも窓辺に置けずにいる。
「わたしの作品だったから? そう見てくれたの?」
「まさか。親方が誰が造ったものかも言わずに『どうですか』と見せてくれた。新しい商品の紹介かと思った。もしくは……、義兄の俺の忌憚なき意見と見る眼を試していたんだろう。確かに形がまだ
つまり――。そういって、義兄が言い淀んだが、躊躇いを振り払うように続きを言ってくれる。
「義妹の練習作品とは知らずに、一目惚れしていたわけだ。それがガラス事業を思い切った理由だ。お義父さんにもマグノリアの写真は見せた。お義父さんなら、娘の作品だろうがなんだろうが、事業となれば駄目のものは駄目と切り捨てる。そこで許可が出るかでないか。でも『倉重社長』は、『やってみろ』と言ってくれたよ」
それも、知らなかった――。
「周りになんと言われても、おまえはもうガラス職人としてやっていくしかないだろう。お父さんから、いや社長からも『やり遂げろ』と言われているのと同じなんだから」
カナは項垂れた……。お嬢様と言われて、職人だなんて誰も見てくれない。どうせお嬢様の道楽。そう見られているというもやもやは、この二年で大きくなっていただけに……。でも、それこそが甘えだったように思えてきた。
「そうだね。だって、ガラス……吹きたいし、造りたいものもいっぱいある」
「おまえの造ったものを手にすれば、誰もが本物だと言ってくれるはずだ。この二年でますます磨きがかかったな」
彼の大きな手が、カナの黒髪をすっと撫でてくれた――。
「誰にも負けないほど、ガラスと一緒だったではないか。どんな方法でも、カナはガラスから離れなかった」
結婚なんて眼中にないほど、ガラスを吹いてきた。それがカナを育てている。ガラスも育てている。そして、実家の事業を、彼が決意した事業を助けることになる。
「そういえば。さっきの彼も、グラスを手にして花南さんが見えたって言ってくれた。本物の職人さんだって言ってくれた」
「だろう。そういうことだ」
そこまでいうと、義兄はまた黙ってしまった。
でもカナのカラダは熱い……。お義兄さんが、胸の中にあるカナのわだかまりに、こんなに付き合ってくれたのは初めてだったかもしれない?
もう親方もいない工房で二年やってきた。商品になったものの中には、好評だからと義兄にもっと作るように言われて、定番商品になったものもある。
親方はもういないけれど、いまは義兄さんの眼が『鑑定人』だった。彼が良いといえば必ず売れ、どんなに渾身を込めた作品でも、義兄が駄目といえば売り物にはならず、あるいは試しに店頭に出してもいつまでも売れなかったりする。
この二年。その流れを見てきたカナにとって、義兄さんは既に『親方』みたいなものだった。
ガラス工房では、もう親方と職人だった。間違いのない関係。
そうして静かになった車内だったが、なんとなく、義兄さんと繋がっている気がしてならない。もう言葉は途切れてもカナは柔らかに微笑んでいた。
義兄がそのカナを見ているのもわかっている。いつも澄ましている義妹が笑っていると思っているかもしれないけれど……。
「俺も結婚はもう懲り懲りだ。結婚に興味はない。少し前に見合い話が来たが断った」
静かな車内で急に言われたので、カナはギョッとした。
「お互いに。結婚には興味はないって事で」
「……そう、だね」
「今日は、おまえのところに泊まっていく」
「う、うん、わかった」
俺も結婚しない。カナも結婚しない。だから一緒にいよう――ということなのだろうか?
カナも少しだけ思い直す。
これから、お義兄さんの横にいても見劣りしないようにしてみよう。
カナが大人っぽく品の良いお洒落な服をこっそりクローゼットに揃えるようになったのは、この頃から。
その日の夜。カナは、いつもより少し素直になって、彼と抱き合った。
義兄も、いつもより優しくじっくり、カナが好きなことばかりしてくれた。
一緒に過ごすようになって二年。少し痩せてしまったお義兄さんは、元の水泳選手らしい身体に戻った。いまも週に何度かジムへ行き泳いでいる。
慣れてきたお互いの肌、くちびる。元の逞しい肉体になったお義兄さん。
カナのカラダを知り尽くした彼の愛し方。
幾夜も重ねてきた肌と、繋げてきたカラダと身体。
甘くゆっくり柔らかに喘ぐことの、気持ちよさ。それに溺れて。
ずっと、このままでいい。結婚も『愛している』も要らない。
『義兄』と、義妹のわたし。ただ過ぎてゆく、けだるい関係。
それはゆっくりと、危なげに、あと三年続く――。
ずっとこのままを、カナは望んで。
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