【3】二年目(カナ視点)
二年目①
これ、絶対にお義兄さんに似合う。欲しい!
工房の定休日、カナは広島にいた。月に一度は広島に出てくる。大学時代の講師に会ってガラスの相談をしたり、結婚をした同期生と会ってランチをしたり、他にも様々なお店でいろいろなものを眺めるのが好きだった。
雑貨やインテリアがほとんど、そして、ついつい探してしまうのは――。
「倉重様ではありませんか。いらっしゃいませ」
若いスーツ姿の男性に声をかけられ、カナはウィンドウの前でびくっと固まった。
「こ、こんにちは」
百貨店の紳士服売り場。いつものお店の前につい足が向いてしまい、そこのウィンドウにディスプレイされていたジャケットとシャツ、ネクタイがとても素敵なコーディネートだったので、見とれていたところだった。
カナは常々『休日までシャツとスラックス、ジャケットで堅苦しいんだから。もっとカジュアルになれないの』と義兄が着るものについて気にしていた。そんな義兄が着られそうなものを探しているところ。
目の前のコーディネイトはまさにそれにぴったり。綿織りのソフトなニットジャケットに、白地に黒ラインの方眼柄シャツ、ざっくりとした綿素材のネクタイ。ビジネススタイルを崩さない義兄さんでも、これなら気楽に着てくれそう――。そんなものだった。
「またお義兄様のものをお見立て中なんですか」
お馴染みのショップスタッフに言われ、カナは気恥ずかしくなりながらも『そうなんです』と微笑んでしまった。
「トルソーから脱がせますから、ご覧になってください」
一目惚れだから仕方がない。カナはついにショップ中へと吸い込まれていく。
カウンターに広げてもらったジャケットを触ったら、もう欲しくて仕方がない。
「衿のステッチもしっかりしていていいですね」
「ニットジャケットは、選び方を間違えるとくたくたに見えてしまってみすぼらしくなったりもしますが、こちらなら薄さはありますがしっかり織られているので生地の風合いが優しくても、崩れることもありません」
「義兄は、休日までスーツ姿なんです」
「ああ、そうですね。倉重様のお義兄様はいつも黒いスーツでビシッとしていらっしゃいますもんね。着こなしも素晴らしくて、同じ男から見てもカッコイイですよね」
『そうですか』と、何故かカナは自分のことを言われたみたいにして、照れてしまった。
「花南さんが選ばれたシャツとネクタイもよく着てこられますね。義妹の方がセンスがあるから任せているとおっしゃっておりましたよ」
また、つい頬が熱くなってしまった。義兄は外でそんなことを言っているんだと――。
「こちら、頂きます。こちらのお直しいるかしら」
「お義兄様は、身丈もありますし腕の長さもありますから、これなら……お袖の直しは要らないでしょう」
「他にも、シャツとネクタイを――」
義兄が『おつきあい以外』での『お気に入りショップ』は、ここを入れて三店ほど。仕事柄スーツもシャツもネクタイもこれでもかというほど持っている。
カナの部屋にも彼は着替えをたくさん置いていて、そこだけでスーツは二十着入れられている。ベースのスーツは義兄が選ぶが、シャツとネクタイはカナがこうして休日に探して買いそろえている。
というより、買い物をしているとついつい義兄さんに似合うかどうかと目に付いて、最後には買ってしまう。
「いつもたくさん、有り難うございます」
今日も六点も買ってしまった……。義兄さんに怒られそう。と、思いながらもカナは自分のカードを差し出した。
精算が終わりサインをしている間に、スタッフの彼が商品を包んでくれる。
「先日、仕事の用事があって『萩』を通ったんですよ。倉重様の工房があると聞いて行ってみました」
「そうでしたか。有り難うございます」
「花南さんのステンドグラスの置きライトを頂きました。妻が凄く喜んでくれました。とても素敵だと。私もつい切子のグラスが欲しくなってしまって、晩酌用に色の付いていない透明なものを頂きました」
その彼が、カジュアルな服装で広島に来ているカナをじっと見下ろしている。
「花南さんの姿が見えたんです。そのグラスから」
職人としてこれほど嬉しい言葉はない。
「嬉しいです。手にしてくださったモノに惚れ込んで頂くことが職人の喜びですから、愛着が湧いてくださるといいのですけれど」
「グラスを使わせて頂いて、花南さんは本当に職人さんだなと、ようやく腑に落ちたと言いますか」
『と、言いますと?』、腑に落ちたなんて不思議な言い方をされたので、カナは首を傾げる。
彼がうっかりしたかのように、ハッとした顔をした。
「あ、失礼致しました。も、もし、お義兄様のお袖が合わなかったら、いつでもご連絡くださいね。送ってくだされば、早急に対応いたします」
彼がそれ以上は聞かれては困るかのような様子だったので、カナもそれ以上は聞けなくなってしまった。きっと一スタッフとして、お客様には言えないことを言おうとしていたのかもしれない。
カナもなんとなく察する。
お義兄さんのお洋服ばかり買いに来る、倉重のお嬢様。職人と言っても、なんの苦労もなくガラスを吹いていられるのは実家の財力と義兄の経営力に支えられて――。お嬢様の趣味なのだ。と言ったところだろうか?
なのに、実際にその商品を手にしたら『本当に職人だった』と納得してくれた、というところ。
――まあ、いいかな。実際に造ったものを手にして、本物と思ってくれたんだから。
それで良しとしたから、彼の言葉の先を追求しなかった。
ここは義兄に似合いそうだと思ってカナが選んだショップだった。
そのうちに義兄も、ここに足を運ぶようになってしまったらしい。
暫くは義兄のためとは言わずに、ひたすら個人のカードを出して精算をしていたのだが、そのうちにスタッフの彼が『失礼ですが、倉重耀平様の妹様ですか』と尋ねてきた。
驚くと『貴女が選んだシャツを、いつも倉重観光グループ副社長の耀平さんが着てこられるんですよね。耀平さんが妹がいつもここで見立ててくれていると教えてくださっていたので、カードを見てきっとと思っておりまして』――。義兄がそんなことを言っていたことも、カナが選んだシャツを覚えていてくれたことにも驚いて、『倉重観光グループの実娘』だと知れてしまったのだった。
それからは『ご兄妹で、ご愛顧ありがとうございます』と言われ、カナがこの店に来るのは『お兄さんの服をお見立て』で来るのだとわかってくれている。
「有り難うございました。またいらしてください、お待ちしております」
「いつもお見立て、一緒にしてくださって有り難うございます。お世話になりました」
日射しよけの黒いチューリップ帽を目深に被る。いつものシンプルなシャツにカーディガンに、スリムパンツにスニーカー。色合いはモノトーン。素材の良いものを選んではいるが、カナはいつもこのようなスタイルで、百貨店に行くからといって女らしいお洒落をしたことはない。
最初はいまのスタッフも『こんなにたくさん選んで、買ってくれるのかな』という顔をしていたような気がするが、カナがキャッシュで多めに買ったり、頻繁に店に足を運ぶようになると、親身に接客をしてくれるようになった。
やがて義兄が『おまえの従業員給料を全額かというぐらい、俺のものにつぎ込むのはやめろ』と怒って、『家族用のブラックカード』を作ってくれた。しかしカナは義兄の口座から引き落とされるのだと思うと、喜んで使えない。ただでさえ、彼が用意した家に住み、工房で職人をさせてもらっているのに。
カナには他の従業員と同じぐらいの一般的な給与を『倉重ガラス工房』からもらっている。家族といえども、そこは従業員という契約なので義兄も雇い主の義務としてそこはカナに与えてくれている。
ただ、カナにとってはありあまるものだった。衣食住のうち、食と住はほとんどが義兄持ち。そこはまったく不自由がない。金銭的にもノータッチで、義兄が小樽時代に作ってくれた通帳に『食費、維持費』と称して毎月多くもないが少なくもない金額を振り込んでくれている。
カナはそれで、義兄さんのために美味しいご飯を作るよう心がけ、家の中をくつろげるように整え、そしてそこから義兄さんを思ってシャツやネクタイ、その他のものを選んで買っている。
『範囲内』というのは勿論だが、あまりにもカナが義兄のものや航のものばかりに使うので、それで義兄が『俺ものばかり買うな。買いすぎだ』と怒りだす。
そこで義兄が対抗してきたのが、家族用『ブラックカード』。
でもカナは滅多に使わない。使うとしたら、航の為に使う時だけ。二人だけで食事に出た時、旅行先で、あるいは航のためのものを買う時――。その時だけ『お父さんが払ってくれるから』と言って、使わせてもらう。
今日も既に、ここに来る前に航の服を買ってしまった。それはブラックカードを使わせてもらった。
結局、カナは自分のものを買わずに、『家族のもの』を買ってしまう。
――だって。本当に似合うんだもの。
カナの密かな楽しみは、カッコイイ耀平兄さん。ビシッと決めた素敵なビジネスマンのお義兄さん。息子には優しく笑うお父さんでもあって――。その隣に、だんだんと大人びた顔になっていく航をちょっと生意気にお洒落をさせて、父子がかっこよくそこにいること。
それを見たくて、ついつい。
「お帰りは新幹線ですよね。お気を付けて」
「また来ます」
店先で見送ってもらい、さあ、帰ろうと前を向いた時だった。
黒いスーツ姿の男性がショップに入ろうとしていてすれ違った。その彼がカナを見下ろし、カナもふと気が付いてチューリップ帽のひさしから彼を見上げて――。目が合う。
「お、お義兄さん」
「カナじゃないか」
お互いに驚きで固まっていた。
「い、いらっしゃいませ。倉重様」
スタッフの彼もびっくりしつつも、どこか嬉しそうに飛び上がっている。
「お兄様と妹様がご一緒だなんて、初めてですね!」
カナも義兄もこの店に通っていることは分かり合っていても、一緒に見繕いに来ることはなかった。それが今日、初めて、ここで一緒になった。
「今日は広島に出ていたのか」
「菜々子とランチの約束していたから。お義兄さんはお仕事で?」
「ああ、この地域のブライダル会社のオーナーと会食をして、式場を見せてもらったりして回っていた」
で、なんでこのお店に来たの? と聞きたい。
「先日、迷っていたコートをもう一度見せて頂こうと思って――」
義兄がスタッフの彼に伝えると、彼も喜んで店内に義兄を連れて行き、春用のコートが並んでいる中から一着取りだした。
それを義兄が羽織って、もう一度、姿見に向かって確かめている。
「うーん。どうも若すぎる気がして迷っていたのですが、やはり若いかな」
そのコートは短めの丈で、縫いつけられているバックベルトや袖ベルトもどこかカジュアルで、衿もボタンも大きくダブル仕立て。言ってみれば、ピーコートの姿をしたスプリングコートとも言えた。
それで四十を目の前にしている義兄が『もう俺には若いな、カジュアルすぎるな』と悩んでいるようだった。
でもカナはそれを試着してるお義兄さんを見て『素敵! お義兄さん、それぐらいの軽さがあっていいよ。だってお義兄さん遊び心がなくて、いつもノーブルすぎて重厚すぎるんだもの』――と、叫びたい。
でも知らぬ顔をして、『じゃあ、お先に』と告げて帰ろうとした。
「花南さんに見てもらったらどうですか。私は、先日も申し上げましたが、これぐらいの軽さは春先だからこそお洒落だと思いますよ。若さはありますでしょうが、こちらの商品ですから素材と縫製で重みもありますから」
そのとおりだよーお兄さん! と、カナも言いたい。
「花南さん、いかがでしょう」
スタッフの彼は、カナより少し年上で三十代の男性だが、同じ三十代といえども義兄に比べると若い。義兄はだからこそちょっと悩んでいるのかもしれない。もうひとりベテランの中年男性がスタッフにいるはずだが、今日はお休みなのかいなかった。きっと義兄はそちらの男性にいつも見てもらっている気がする。
カナがいいよと言っても義兄は『若いカナ達だけの感覚だ』と信じてくれないかもしれない。でも、カナは。
「いいんじゃない」
と素っ気ないひと言しか出てこなかった。
こんなはずじゃないのに……。本当は耀平兄さん、それ素敵。いいじゃない。絶対にいいよ――と言いたいのに。
二年一緒に住んでいても、未だにカナはお義兄さんに素直になれない。
「これ、頂きます」
義兄があっさり決断した。
「ありがとうございます」
もう彼はまた嬉しそうにして、会計に行ってしまった。
「じゃあ、わたしはこれで……」
帰ろうとしたら、その手を掴まれた。
「俺もいまから山口に帰るところだ。車に乗っていけ」
「え、いいよ」
気まずいじゃない。義兄さん、無口な時が多いし……。と思ったのだけれど、その手を離してくれない。
「もう仕事も終わったから。今日は帰りにどこかで一緒に食事をしよう」
お義兄さんと行く食事はどこも美味しい――。それは捨てがたい。
でも天の邪鬼はついつい意地を張ってしまう。
「いいって……」
手を離そうとするカナが持っているショップバッグに義兄がやっと気が付く。
「おまえ、またそんなに俺ものを買ってくれたのか」
「いいじゃない。義兄さんがお休みの日に航とおでかけする時に良いなと思って買ったの。今日はほら、航の春用のジャンパーとか、シャツとかデニムパンツもみつけたの。今度のおでかけで着てよ」
『航とおでかけの時に必要』と言ったせいか、義兄がそこで呆れた顔をしたがなにも言わなくなった。
それでも溜め息を落とし、額を抱えた。
「おまえな。自分の服を買えよ。いつもそんなシンプルな服ばかりで。広島に出てくるのに、いつもの恰好で驚いた。カナが好きそうな服を着ている女性がいるなと思ったが、まさか本当にカナだとは思わなかったほどだ」
カナはムッとする。
「わたしに綺麗な服なんて必要ないじゃない。ほとんど工房でガラスを吹いているんだから。それに、これが気楽なの」
「あーもう。わかった、わかった」
これも義兄妹でよくやる押し問答だった。年頃の女性がお洒落もしないで、義兄と甥っ子の服ばかり揃える。たまにでかける時ぐらいの上等な服を持っていればいいのに、せっかくの都市に出てくるのにも、普段着でやってくる始末。俺達よりも自分に金を掛けろ。それが義兄のいつもの言い分だった。
でもカナもみすぼらしくしているつもりはない。シンプルでも上質な、すぐにくたびれないものを長く着れるようにきちんと選んでいるつもり。それは義兄もわかっている。割といいものを選んでいるんだなと、カナが脱ぎ散らかした服を手にして感心していたことだってある。
それでも義兄は、カナにも女性らしくしてほしいという願望は譲れないところがあるようだった。
会計に行っていた彼がレジから戻ってきて、そっぽを向いている二人を見て訝しそうだった。
きっと仲睦まじい義兄妹を想像していたのだろう。実際はこんなもん。特にカナが、素直じゃないから。
「今日も耀平さんは、花南さんが選ばれたシャツを着ていらしたんですね。花南さんいつも楽しそうに選んでいるんですよ。今日のシャツも、お義兄様にお似合いですね」
なにげないスタッフの言葉に、カナはもう顔が熱くなってしまい本当に走って逃げ出したくなった。
「では。また参ります」
義兄も買い物を済ませたので、一緒に帰ることになってしまった。
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