黒い湖

 鋭い渓谷の間に堰き止められた湖は深く、これといって上流から流れ込む微細な浮遊物もなく、水分子そのものの透明度が許す限りの深度まで降り注ぐ太陽光を透過させていた。風もほぼない。落ち着き払った水面のかすかな漣がトモカの頬や帽子のつば・・の裏側に映り込んでいた。

 彼女は背後に横目を向けて進行方向を気にしながら、櫂を水中に深く差し入れようと腕に力を入れていた。彼女が自分でも漕いでみたいと言って場所を代わってから3分ほど経っていた。

「似合ってないでしょ。今の恰好に、ね。わかってるの。大丈夫って言ったんだけど、ボートに乗るなら湖の上は日差しが強いからって、弥生さんが貸してくれて」

 トモカは先回りして説明した。僕の視線が気になったのかもしれない。確かに彼女の帽子は宇宙人のUFOよりも大きなつば・・を持っていた。おまけに色が真っ白なので、どうせ合わせるなら同じく真っ白のワンピースではないかと思わないではなかった。実際の彼女は普段と同じネルシャツにジーンズだった。

「失くしたり汚しちゃったりしたらイヤだな」とトモカ。

 いや、僕が気にしていたのは帽子じゃない。

「そんなに前を気にしなくても大丈夫だよ。まだ湖の真ん中なんだ」

「ぶつかるのが恐いわけじゃないの。まっすぐ進めてるのか」

「それなら僕と後ろの景色を重ねてごらんよ。曲がっているならずれていくし、まっすぐなら重なったままさ」

 トモカは何度か瞬きしてから、たぶんちょっと論理的な思考をしたのだろう、こちらを向いてまっすぐ僕を見た。

 唇の片方の端に少し力の入った真剣な顔だった。焦点は僕にはない。もっと遠くを見ている。

 僕は見つめられているわけではない。けれどその表情に対している間、自分の中に古い罪悪感の残滓のようなものがぽつぽつと湧いてくるのを感じていた。僕もまた実際の彼女の向こうに別の景色を見ていた。

「まだ何か変かな……」トモカは呟いた。

「変?」

「私の漕ぎ方」

「いいや、変じゃない。きちんと漕げてる。オールも深く入っている」

「でも、それにしては鷺森さん、満足いかないって顔をしてるのよ」トモカはそこで少しだけ言葉を切って適切な表現を模索した。「とにかく、少しネガティブな」

 僕はとりあえず頷いた。まるで彼女はとても重いボールを持たされているようで、早く受け取ってあげないとしんどそうだった。そうして頷いてみてから、僕は自分の内面に入ってどんな答えを用意するべきかを考えた。

「君はとても深い洞察力を持っている。この湖のように、とても深い。おそらく僕が自分でも自覚していなかった意識に君の方が先に気づいていた」

「鷺森さんが自覚できなかった意識?」

「そうだね、ある種のノスタルジーというのかな」

 それはかなり濁した表現だった。

「ノスタルジーってネガティブなものなのかしら」

「場合によるだろうね」

「場合?」

 僕はあまり話したくはなかった。ありのままのイメージを描写するのはいささかトモカに対してデリカシーに欠ける行為のように思えた。けれど彼女はどうやら話の主導権を僕に預けたがっていた。聞きたいのだ。ネガティブな内容だ、というのをわかっていてあえて耳を傾けているのだ。

 トモカは櫂を動かす手を止め、船の動きを惰性に任せていた。

 僕は言うことにした。

「僕の初恋の相手が君に似ていたんだ」

 それを聞いてもトモカの表情はあまり変化しなかった。わかっていたから変わらないのか、呆然としていて変えようがないのか、じっと見ていてもよくわからなかった。

「たぶん、そっくりというほどじゃない。見比べたら明確な相違があるだろうね。ただそれはあくまで顔立ちの、つまり、形而下のレベルで、内面や性格に及ぶものではない」僕はそこで目を逸らした。それはとても避けがたい身体の専行だった。湖畔と背景の山並みが漠然と目に入った。「上手く言えないな」

「顔のタイプ、容貌の傾向?」

「そういう表現が適当なら、ね」

「それが比較的詳細なレベルで近似しているのね」

「ごめん、あまり気分のいい話じゃないよね」

「全然。むしろ私って鷺森さんのタイプじゃないんだって思っていたの。でも、違ったのね」

 僕はトモカに向き直った。今度は彼女の方が目を逸らしていた。

「君は綺麗だよ。もし僕がまだ君と同い歳の少年だったなら、きっととても激しい恋愛感情を抱いていただろうね。耐えがたく、狂おしいほどの。こんな近くで見つめ合うなんて、とてもできない。とっくに肺か心臓が破裂して気絶しているだろう」

 トモカは笑った。

「嘘じゃないよ」僕は比較的真剣に否定した。「でも、どうしてタイプじゃないなんて?」

「ある種の驕り、なのかな」トモカは僕の真似をして答えた。ただ言い終わった時には彼女の笑みはすっかり消えていた。「こういうことはあまり他の人には言いたくないし、言うべきでもないと思うのだけど」

「うん」

「でも、正直なところ、私、自分の顔立ちはかなり悪くない方なんじゃないかって感じているの。それで、中学くらいからかな、私に気のある子って、先に私のことを見ていて、私が目を向けると目を逸らすの。その逸らし方が独特でね、逸らすのだけど、意識の軸みたいなものは私の方に向いたままなの。いつもいつもじゃない。ただ、ああ、そうなのかな、っていうのが時々あって」

「それから、告白される」

「うん」トモカは頷いた。彼女にとってそれが誇らしい栄光の記憶でも得意なステータスでも何でもないことは表情からして明らかだった。

「ねえ、鷺森さん、『もし僕が君と同い歳だったら』というのはどうしてなの?」トモカはいささか急に向き直って訊いた。

「僕と君は歳が離れているし、なにせ僕の初恋はもう20年も昔のことなんだ。それはもう終わってしまった感情で、もはや感情ではなく記憶なんだよ」

「嗜好が変わってしまった、ということ?」

「そうだね、でも、たぶん少し違う。変わってしまったというか、なくなってしまったんだ。僕はずいぶん長いこと彼女に思いを寄せていた。そしてその間に何度か堪えがたい挫折を味わった。彼女が僕を求めてくれることは決してない、未来永劫そんな瞬間は訪れない、それはもう明らか過ぎるほど明らかな事実だった。けれど希望を失った後も僕の感情はしぶとく、賤しくも燃え続けていた。自分の意思では消しようがなかった。頼れるのは時間だけだった。あたかも火種の上に少しずつ砂を積もらせるようにして、時の流れはその火を少しずつ消し去っていった。彼女への感情が決定的に薄れていくにつれて、誰かを愛したいという気持ちそのものが僕の中からなくなっていった。恋愛への関心が全く失われてしまったのかというと、違う。ただ、どうしようもなく狂おしいほどの感情は二度と湧いてこなかった。どんなに美しい相手にも、どんなに親しくした相手にも、『彼女』ほどの情動を抱くことはできなかった。それらは比べるまでもなくひどく希薄で、理性でどうにでもなる程度の感情でしかなかった」

「初恋の人って」

 僕は頷いた。

「彼女は僕が愛そうとした最初で最後の人だよ」

「そしてそれは実らなかったのね」

「実らなかったね。全く駄目だった」

 トモカは右手の櫂だけを水中に浅く差し入れた。櫂を乗り越えた水が泡を含んでちゃぷんと音を立てる。ボートは僕の左手側に旋回を始めた。

「私も誰かの愛を殺しているのかな」トモカは訊いた。

「それは君が負うべき問題じゃないよ。感情を抱いた側が自分で、あくまで自分の内側で向き合わなければならない問題なんだ。僕の話だって、感情を向けられる側にしてみれば聞きたくもない話のはずだ」

「鷺森さんは感情を向けられる側の気持ちも理解しているのね」

「僕もそちら側になったことがないわけではないからね」

 トモカは安堵の息をついた。それは僕への慰めであり、おそらく自分への慰めでもあった。「殺しているのかな」と言った時の彼女の目は本当に冷たかった。

「でも私には鷺森さんの気持ちを本当の意味で理解することはできないのだと思う」

「誰か1人に対して抑えがたいほどの好意を抱いた覚えがない、ということだね」

「そう。そうね、私はたぶん、ただ選んできただけなの。私を好きだと言ってくれた人たちの中から、この人ならいいかなって希薄な理由で取捨選択をして、それが人を好きになるってことなんだと思ってきた。私自身が本当は誰を好きなのか、とか、その人のために他の人の告白は全部断らなければいけないとか、そんなふうな考えって全然なかった」

「驕り、と言ったのはそういう意味だね」

「うん」

「狂おしいほどの愛おしさが羨ましいのかい?」

「わからない。そういうものを抱くことができれば、私はもっと毅然として人々の好意に向き合うことができるのかもしれない。でも、そういうものを抱くのはその相手に苦しみしか与えないかもしれない」

「それを抱くかどうか、自分で選択できるような種類のものではないよ」

「そうね。抱けないか、抱いてしまうか、どちらかなのね」

「君はよく考えているよ」

「考えているから悩まなくていい、というのは違うでしょう」

「そうだね、その通りだ」

 僕はボートの縁から水面を覗き込んだ。青く透き通った水だ。

「なぜ水が青く見えるのか知っている?」トモカは訊いた。

「太陽光が全ての色の成分を持っていて、水がその中の青い光をよく反射するからじゃないかな」

「そう」

「一番深いところまで届くのは赤い光だそうだ」

 トモカも水面を覗き込んだ。

「あ、反射しないんだから赤く見えるわけないか」

「まあね」

「この湖は赤い光だけを受け入れたのね」

「あるいはそうかもしれない。青い光は真っ先に弾かれ、緑の光もまた底まで辿り着くことはできない。大気中で拡散の憂き目に遭うしかない。我々の生きるこの大気圏は悲しみに満ちている」

 僕がいささか演劇調になったのでトモカはまた笑った。あまり思いつめた様子でなくて安心した。

 僕は背中を預ける場所があるか後ろを確かめてから仰向けになり、目を瞑った。太陽の明るさは瞼を突き抜けて目に入ってきた。トモカが水面に櫂を差し込む音がちゃぷちゃぷと聞こえていた。

「確かに、僕は恋愛というものの非対称性にうんざりしてしまったのかもしれない」

「『彼女』は鷺森さんの気持ちに何も返してくれなかったの?」

「いや、そんなことはないよ。彼女は僕の思いを知ってから、気持ち少しだけ僕のことを近くに置いてくれた。でもそれは優しさだった。愛ではなかったさ」

 ボートが揺れ、何かが太陽の光を遮る。網膜に焼き付いた光源の残像が仄かに赤く光っていた。

「この世の全ての湖は黒く、光は赤いスペクトルに満たされていればよかったのにね」

 トモカの声は真上から聞こえた。

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失恋少女は愛の死について語る 前河涼介 @R-Maekawa

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