失恋少女は愛の死について語る

前河涼介

万華鏡の井戸

「ごめんなさい、ちょっと遅くなっちゃった」

 トモカはそう言って前髪を何度か撫でつけた。前髪の分け目の反対側はピンで留められていた。初めて見るピンだった。 

 もしかしてそのピンを目立たせるために髪に手をやったのだろうか。

「ああ、素敵な髪留めだね」僕は言った。

「そう? これ、蛇紋岩なの。いい模様だなあと思って、弥生さんに見せたらピンを持ってきてくれて」

 トモカは満足そうに微笑んだ。もともと機嫌のいい口角がにゅーっとさらに持ち上がる。

 髪留めに目を戻してよく見ると、細長い二等辺三角形の石材で、やや緑がかった黒い下地に白い網目の模様が走っていた。とてもいい艶があるので黒髪の上につけても全然沈んで見えなかった。

「手作りなんだね」と僕。

「そうなの。よく磨き込んで、あとは瞬間接着剤でペタッと」

「ペタッと」

「そう。案外時間がかかっちゃって、昨日の夜は全然課題が進まなかったの」

「息抜きみたいなものだね」

「まあ、ね。毎日同じように進まないのってあんまり好きじゃないんだけど、でも、鷺森さんに褒めてもらえたから、それで十分」

「いい出来だよ」

「ありがとう」

 そう。

 そう、それで……。

 ああ、もう話が続かないな。僕はふとそう思った。

 トモカの微笑を真似して、一歩下がって道に出る。


 朝の8時40分。いい天気だ。冷たい風が吹いている。シャツ1枚で気持ちのいい日差しと風の塩梅。

 採石場跡まで歩こうと昨日トモカと約束をして、鯉苑の裏口で8時半に待ち合わせをしていた。実際トモカは少し遅れてやってきたわけだ。

 はあ、別に時間なんていいじゃないか。ここでは誰も電車やバスの時刻表なんか気にする必要はないのだ。腕時計をしてきたのは外出する時の癖だった。

 気を取り直そう。

 僕は先導して歩きながらトモカの恰好を思い出した。青と赤のチェックのネルシャツに青いジーンズ、黒いスニーカー。服装は作業の時と同じだ。ただ普段なら後ろ髪は後頭部にまとめてキャップで押さえているはずだけど、今は後ろで一つに絞っているだけだった。キャップも被っていない。

 僕はその結び目がどのくらいの高さにあったか、ヘアゴムはどんなデザインだったか、思い出しながら歩いた。それを確認するためだけに振り返るのは変な気がした。

「どうかしました?」トモカが薄ら笑いを浮かべてそんなふうに言うのが思い浮かんだ。僕ももう若い女の子の恰好を上から下までまじまじ見つめるような歳じゃない。


 特に話もしないで10分ほどで採石場に到着した。道のガードレールの下に植生を剥がされた白い石切り場が見えてくる。

「ああ、こっちの道だと上の方に出てくるんだ」トモカが言った。ガードレールが汚いので触らないように景色を見下ろしていた。

「そうか、前に来た時は石を探しにきたわけだから、下のゲートから入ったんだね」

「うん。あの門は知ってるわ。この高さだと、もしかして井戸の方は上に出られるの?」

「出られるよ」

 僕はガードレールを乗り越えて林の中に踏み込んだ。トモカも足をかけてひょいっと踏み越える。

「足を滑らせると危ない。ここからは気をつけて行こう」

 僕が差し出した手をトモカはしっかりと握った。彼女の手の柔らかさよりも爪の硬さの方が気になるくらいだった。


 やがて植物がなくなり日差しの下に出る。10mほど先で白い地面が急に途切れていた。トモカが「井戸」と呼んだものがそこにある。

 弓のような弧を描いた断崖が50mも下まで垂直に切れ落ち、下には真円に近い水溜まりが深く水を湛えている。詳しいことは知らないけれど、マグマの貫入で生じた貴重な鉱石を掘り出すためにこのような掘り方になったらしい。採石場はすでに機能していない。掘削した竪坑に雨水が溜まってブラックホールのような不気味な深淵を作り出していた。まさに井戸だ。底は見えない。地殻を破って地球の中心まで伸びているんじゃないか。そんなふうに思えるほどの深みだった。

 僕たちは交互に「井戸」を見下ろしたあと、断崖から5mほど離れた石の上に腰を下ろした。腰を落ち着けてしばらくしてもトモカは手を握ったままだった。「井戸」が恐いのかもしれない。この高さは僕だって恐い。

 それに高さ・・は不安定な人間を引きつける。感じやすい少女をこんなところで放ってしまうのも気が引けた。

「上から見るのは初めて?」僕は訊いた。

「うん。すごく恐いのね」

「僕も何度か来てるけど全然慣れないよ」

「恐いけど、でも、綺麗だった。水はあんなに青いものだって、まるで教えてくれているみたい」

 僕は彼女の横顔を見た。彼女の目は山々の稜線のあたりにとまっていた。網膜に残った井戸の青さを空のスクリーンに映して比べているのかもしれない。

「トモカちゃん、今日はごめんね。こんなところへ連れてきて」

「綺麗よ。見られてよかった」

「ううん。それはいいんだけど、そうじゃなくて、普段ならこの時間は納屋で彫刻をしている時間だからさ。休憩は午後だ。違う?」

「ああ、そういうことね。でも、太陽の向き。午前中じゃないとこの井戸は青く見えないんでしょう? 午後は陰になるから。だからこの時間だったの」

「うん」僕は頷いた。

 たぶん、彼女もなぜ僕がこんな朝から散歩に行こうと誘ったのか疑問だったのだ。だからそんな考察がするすると出てくるのだろう。

 もしかすると昨日の夜はそれが気がかりだったのかもしれない。髪留めより作業が手につかない方が先だったのかもしれない。

 考えすぎだろうか。

「私こそ、ごめんなさい。そんなこと気にさせちゃって」

 トモカにそう言われて僕は首を振った。

「君はルーティーンを大切にしている。そうやって自分の生活を――自分の人生を調律しているんだ。繊細に、敏感に、調律している。それが上手くいったからどうということはない。でも上手くいかないと調子が狂ってしまう。どことなく気持ち悪い。違う? そういう気持ちなら僕にもわかる」

 トモカの両目がまっすぐに僕を見つめていた。黒くて虹彩のわかりにくい瞳だった。人間の目というのはこんなに黒くて大きいものだったのだろうか。じっと見返しているとそんなふうに思えてくる。

 そう、井戸のようだ。

 重力の向きを変えてしまうような不思議な力がそこにはあった。

 瞬き。

 風が彼女の前髪を揺らす。

 彼女は少し目を細めて右手で前髪を押さえた。

「うん。そうだと思う。たぶん私は毎日を同じものにしようとしているのだと思う。均質で、平坦で。昨日と今日の微妙な違いを捉えるためにはそういう状態が必要なの。そして微妙な違いを捉えられなければ、たぶん私は私の作品を作ることができないの。私はたぶんそういう微妙なものを作品に託したいのだと思う」

 トモカはおもむろに髪留めを外して手の上に置いた。

「なんでこの形にしたんだろう」

 僕はなんだか不安な気持ちになってきた。

「そういうのって憶えておけないの。自分の中でも言葉になっていないから」

「だから形にしている?」

「そうね、たぶん。……つまらないと思うでしょう、毎日同じなんて。だから誘ってくれた」

「どうかな。僕にだって気分はあるんだよ。ああ、明日はここへ行こうって何となく思ったんだ。そして君を誘ってみたくなった」

「そう……」

「うん」

「私ね、そんなのって当たり前かもしれないけど、完璧に同じ日ってないと思うの。どれだけ同じ場所にいて、同じことをして、同じように生きていても、どこかが微妙に違ってしまう。それは記憶に残らない。あとから思い返してしまえば、ああ、同じような1日だったって思う。でも、必ずどこか違っている」

「そうだろうね」

 細めたままどこか遠くを見つめていたトモカの目がまたふと僕の目を正面に捉えた。しっかりした視線だった。

「鷺森さん、それってまるで万華鏡みたいだって私は思うの」

「万華鏡?」

「そう。こうやって、望遠鏡みたいに目に当ててくるくる回すの」

「近々見ないね、そういえば」

「同じものが入っているのに、同じ模様ってできないでしょう? ルーティーンと同じ。私はじっと万華鏡を覗き込むみたいな生き方をしているのよ」

「そして一度しか見られない模様を捉えているんだね」

「そう」

「綺麗なイメージだね」僕は少し目を瞑ってトモカが天体観測員みたいに巨大な万華鏡を日々少しずつ回しながらじっと覗き込んでいる姿を想像した。

「鷺森さんの物語で使ってもいいわよ」

「前々から自分のルーティーンのことをそう思っていたのかい?」

「たぶんね。そんなことを思ったこともあったなって、鷺森さんに訊かれて思い出したの。……ああ、違うかな。あの井戸を覗き込んだからかな」

 トモカはそう言って立ち上がった。

 僕の右手が持ち上がる。彼女はまだ僕の手を握っていた。引っ張ったといってもいいくらいだ。

「私、この場所好きよ。ねえ、またここに誘ってくれる?」

「構わないけど、午後にしようか?」

「ううん。この時間でいいの。べつにいつでもいい。だって、決めてしまったら誘ってもらう意味がないでしょ?」

 ああ、そうか。

 彼女は決して完璧に同じ1日の繰り返しを求めているわけではない。あくまで守るべきルーティーンとその外側からやってくる刺激との間に生じるせめぎ合いの中に生きていたいのだ。

 僕のあらゆる誘い、働きかけはその外側・・に位置している。でも彼女は決してそれを期待していないわけではなかった。

 僕は頷いて腰を上げた。

 万華鏡が回る。新しい模様が現れ、古い模様は戻らない。

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