第15話 預かり物のお守り

 目深に被られた帽子、深緑色のゴーグルに口元を覆う布。それらが血で染まるのも意に介さないのか、スバキは鮮血の幕を突っ切って、勢いよく飛び出てきた。


 しかし例の棒で跳躍する彼女が向かう先は、雌のドラゴンの炎から免れる場所ではなかった。あろうことか、スバキは一直線に雌のドラゴンの元へと自らを発射させていた。


 スバキの突拍子の無い行動にルハナがあっけに取られるのは、この短い時間で実に二度目である。前回同様、彼は全く動くことができず、唯々目の前を吹き抜けるスバキという疾風を目で追う。それは一種の催眠状態のようであり、ルハナがそれから覚めたのは、スバキがすっぽりとドラゴンの口の中に納まった時だった。


「スバキ殿!」


 慌てたルハナは声を張り上げ、彼女の名を呼ぶ。だが慌てていたのは、なにもルハナだけではない。


 雌のドラゴンはスバキが口の中に突っ込んで来たことに驚き、ルハナ達に向かっていた突進の軌道が大いにぶれた。それもそうである。今まさに口から炎を吐き出してやろうと意気込んでいた矢先に、逆に羽虫が口に飛び込んできたのだから。


 思わず激しく首を振り、頭をあげ、翼をバタバタと羽ばたかせる。自然と失速し、完全に突撃体勢は崩れる。赤茶色の巨体はそれでも凄い速度でルハナの横を過る。


 進路が逸れ、やむなく不時着したドラゴンをルハナは追う。奴は口の中のスバキを二重の牙で粉々に噛み砕こうと顎に力を入れている。だが口が閉じない。何度やっても、開いた状態で固定されたようにその大きな口が閉まらないのだ。どうやら口の中でスバキが武器をつっかえ棒にして空間を確保しているらしい。


 噛めないと悟ったドラゴンは、今度は上を見上げ、頷くように縦に首を振る。喉元の筋肉が首の上下の動きに呼応してうねる。噛み殺せぬならば、丸呑みしてしまおうという魂胆だ。だがそれでもスバキは落ちてこないのか、何度も首を振っている。


 駆け着けたルハナはドラゴンの後ろ脚を斬り付ける。剣にはまだ蒼の魔導の名残があり、雄より少し柔い雌のドラゴンの皮は簡単に裂け、半開きの口からは妙な鳴き声が漏れる。ルハナを睨みつけるその目は、確かに自分の番を殺した相手に向けるに相応しい憎悪を含んでいるのだが、なにぶん口が閉まらない為、どうにも間抜けに見えてしまう。


 尤もルハナにはドラゴンの憎しみの目線に応える余裕も、その締まらない表情に笑う猶予も無い。彼の視線はただドラゴンの口の中に注がれる。


 そこには右手で棒に捕まりながら、ドラゴンの喉奥を覗き込むスバキが居た。彼女の握っている棒の一端は上顎を、もう一端は下顎を抑えており、迫る歯牙の進撃をき止めている。


「スバキ殿!」


 再度ルハナは叫ぶ。同時にドラゴンの喉奥の魔力が活発化する。圧縮された紅の魔力は時折薄い布を風に閃かすように、妖しい赤い光が渦を巻く。口の中のスバキに構わず炎を吐く気なのだ。阻止しようと、ルハナは大剣を構える。だが斬り付ける前に、彼は動きを止めた。


 スバキが左手で何かをかざしたのが目に入ったのだ。彼女の目線は相変わらずドラゴンの喉奥へと送られており、ルハナには背中を向けている。だが彼女の左手の指の間に挟まれているものが一瞬きらめき、彼の注意を引いた。


 それはルハナが彼女に預けたお守りであった。必ずスバキ自身の手で返すようにと念を押したもの。お守りの革紐は相変わらずスバキの首にかけられており、外す素振りも見せていない。


 約束は覚えている。


 彼女の背中はそう語っていた。お守りの魔結晶を胸元に戻し、振り返らずにひらひらと手を振った。脱力感溢れるそれは、心配するなと言いたげである。


 ルハナの攻撃の手が止まった隙を突き、雌のドラゴンは大剣の届かぬ空へと逃げた。大きく開かれた口の中のスバキの姿はルハナからは見えなくなってしまう。そしてドラゴンは炎を吹く為に肺に空気を取り込んでいく。熱気を含んだ魔力が炎と変わる瞬間、その炎を外へと押し出す為の空気である。ルハナはその過程をただ地上から傍観することしかできない。


 しかしドラゴンが火を吹くと思われたその瞬間、半開きの口から真っ白な光が瞬く。それは一瞬のことで、まるで真昼の稲妻のようであった。そしてドラゴンは炎を吐いた。いや、吐く素振りを見せた。膨らみ切った肋骨の檻が一気に収縮し、肺からは確かに空気が吐き出された。だが口からは火はおろか、その空気さえ漏れ出ない。


 代わりにボンッとくぐもった爆発音が草原の空を揺らし、ドラゴンの体が大きく引きる。そして強張った体は一瞬にして弛緩する。力の抜けたドラゴンは白目を剥き、地面に向かって落ちていく。その口から、離れていった影が恐らくスバキであろう。どういう経緯か彼女は無事らしい。


 墜落するドラゴンは鈍い轟で地面を震わせた。土埃が舞う。舞った土埃が暫くして、少し収まる。だが濁りが減った土煙の中でも、ドラゴンは微動だにしない。


 雌のドラゴンは既に事切れていた。 


***


 ルハナがドラゴンの骸まで駆け付けると、すぐさま生死を確認した。遠目からは死んでいるように見えたのだが、確信が持てなかったのだろう。近くに寄ってそれがもう呼吸していないのを見れば、スバキが見事に仕留めたのだという事は明らかであった。


 雌のドラゴンの死体は雄のものと比べて綺麗であった。ルハナが斬り付けた右前脚や後脚の傷を除けば目立った外傷が無い。地面にドラゴンが落ちる前に、スバキらしき影が離れていったのは見えたが、ルハナは一応ドラゴンの口も確かめておこうと、頭の方へ回る。そこで目にした状況から、ルハナはドラゴンの死因に見当がついた。


 開けられたままの口からだらしなく放り出されている舌の根元は赤く塗れており、その下の地面には血だまり。更にドラゴンの口から濃く漂う、肉の灼けたような臭い。


 外は綺麗な死骸だが、恐らく内臓は丸焦げなのだろう。


 ドラゴンが死んでいることを無事確認したルハナは、次いでスバキを探す。落下するドラゴンの口から飛び出た影が下りたであろう場所へ走ると、死体から少し離れた場所にスバキを見つける。


 彼女は自分の足で立っており、武器の棒はスバキの隣で何故か地面と垂直の状態で、宙に浮いている。不思議な光景にルハナは最初そちらに気を取られるも、近づくにつれスバキの左手の異常に注意が移る。


 手首から先が赤黒く変色する程、重度の火傷を負っているのだ。


 スバキは負傷した左手を心臓より高く上げており、右手には茶色い小瓶を持っている。どうやら片手で万能薬の蓋と一人格闘しているようだ。


 駆け着けたルハナは無言のままスバキから瓶を取り上げ、手早く開ける。彼の表情は険しいのと対照的にスバキは暢気に礼を述べる。


「おっ。ありがとう、騎士君。助かるよ」


 スバキは左手をルハナの方に差し出す。ルハナはまるで壊れ物にでも触れる様にそっと自分の手を添え、じれったくなる程そろりそろりと瓶を傾ける。やがて薄緑色の粘性の液体が小瓶の口から覗き、ぽたりと数滴がスバキの左手の甲に零れ落ちる。万能薬が火傷した箇所に触れると、鉄板に落とされた水滴のようにジュッと短い音を立て、一瞬にして白い蒸気と化す。あっというまの出来事だが、確かに薬の触れた部分の肌は赤みが少し残るも、もう黒く焦げてはいない。継続してゆっくりとルハナは万能薬を火傷全体に垂らしていく。


「アテアテアテテテッ……」


 スバキは気の抜けるような掛け声で控えめに痛みを訴える。一方ルハナの表情からは強張りが消えない。それもその筈である。確かに万能薬と呼ばれるその薬は即効性の上、ありとあらゆる傷に効く。火傷から骨折から擦り傷。量さえあって治療時に患者も生きていれば、欠損した臓器や四肢もある程度復元できる。


 ただし、怪我の度合いと比例して痛みを伴う治療法でもある。傷が酷ければ酷い程、直す時の痛みも凄まじいものとなる。スバキの左手の火傷も充分酷いものである。騎士として仲間の治療に何度も立ち会っているルハナからすれば、これらが治るには大の男でも歯を食いしばり、脂汗を流す程痛むと予想していた。それ故、髪の毛が衣服に引っ掛かったと勘違いするような声しか上げないスバキに対しても、実に慎重に手当てを続ける。戦いの興奮からスバキの痛覚が鈍っている今ならば、少しは治療の負担も少ないだろう。


 手当てをしながら、ルハナはスバキの火傷をじっくりと観察する。赤黒い皮膚で簡単に見分けられる負傷箇所は何故かスバキの左手首できっちりと線を引いたように局部的である。正常な皮膚と焼きただれた皮膚の不自然な程明確な境界線は、まるでスバキが赤黒い手袋をはめているように見える。彼女の着ている上着の左の袖口もまた、炎の刃ですっぱり切ったかのように焦げた縁は一直線を描いているのだ。


 ドラゴンの口から流れていた血。灼けた血肉の臭い。白昼の稲妻のようなあの一瞬の白い瞬き。加えてスバキの左手に集結された火傷。ルハナはそれらから導き出される一つの可能性を、静かに、遠慮がちにスバキに問うた。


「スバキ殿は……魔導師なのですか?」

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