第14話 九級狩人、ドラゴンを翻弄する

 スバキの言葉は、行動は、ルハナにとってあまりにも予想外なものであった。それ故、制止の言葉すら掛けられなかったのだが、彼女の去り行く背中越しにドラゴンの視線がスバキに釘付けである事に気付き、我に返る。己の優柔不断な態度が招いた事態に焦り、彼女を止めるべく、追いかけようとした時には既に手遅れ。


 雄のドラゴンが長い尾をしならせてスバキに鞭の攻撃を仕掛ける。スバキに迫る尻尾が風を切る音は、まるで獲物にありつける大蛇の歓喜の声のようである。


 地面を打つ破裂音。


 先程までスバキが駆けていた場所が深く穿うがたれる。


 しかし撒きあがる土埃の中、反動で少し浮き上がった尻尾にも、それが当たった筈の凸凹な地面にも、彼女の姿は見当たらない。


 代わりに戦場の土埃にぽつんと一つの影が落ちている。その主は尻尾や砂塵の上を宙返りの要領で舞う、スバキであった。棒を使い、魔導で自らを弾き上げたのだろう。


 そのまま地面を打って勢いのなくなった尻尾の上に器用に着地したかと思うと、ドラゴンが払いのける前に尾の付け根に向かって疾駆する。


 気付いたドラゴンは急いで尻尾を乱暴に振り回し、手当たり次第に地面に叩きつけ、身をよじ登る羽虫を振り払おうとした。しかしスバキは階段を二段飛びでもするかのように、楽々と駆け上がっていく。


 尻尾の動きでは無理だと判断したドラゴンはすぐさま凶悪な爪でスバキを迎え撃つ。爪の一本一本が彼女の二の腕程の太さもあり、掠っただけで肉が裂け、骨が砕けそうである。


 スバキは武器の棒を自身が走っているドラゴンの尻尾に突き立て、再び跳ね上がる。横薙ぎに払われていたドラゴンの爪はスバキに触れる事無く、跳んでいる彼女の下を通過する。ビュオッと五本の爪が風を切る音と共に、スバキの靴紐や上着の襟がはためき、彼女は風圧で帽子が飛ばされないようにと左手でつばを抑えている。


 ドラゴンは体を這い回る害虫を駆除できなかったと理解すると、間髪入れずに次なる一手を繰り出す。体を捻り、もう一方の前脚を振りかざしたのだ。横方向の攻撃が避けられたので、次は叩き潰す気でいるのかもしれない。しかしその前脚が振り下ろされる前にスバキは反撃に転じた。


 跳躍からの着地を待たずに、スバキはすっかり足場と化している尻尾に向かって命一杯棒の先端を伸ばした。空中で丸めた体の足の更に下に据えられた右手が掴んでいるのは棒の端、魔石が取り付けられている少し手前である。もう一端は下にあるドラゴンの尾に向かって伸びており、その先端が尻尾に触れるとスバキは棒を掴んでいる右手を前に押し倒す。棒が傾いでいる先には、ドラゴンの顔。そして棒の上に両足を掛けた瞬間、すごい勢いでドラゴンの顔面向かって飛んでいく。


 傾いていた棒は照準を定めた発射台であったのだ。ならば振り下ろされる前脚の爪の間からくるくると縦に回転しながら発射されるスバキは、砲弾と言ったところか。きつく丸め込まれていた体勢で飛び出てきた彼女は窮地を抜けると、手足を伸ばして構えを解き、飛行と回転と遠心力によって生じた威力にかまけてドラゴンの鼻面に棒を叩き込んだ。


 見事だとルハナは感嘆した。騎士としても狩人としても何人もの豪傑と呼ばれる者達の戦闘を見てきた。だがスバキのように自由自在に宙を舞い、一撃も喰らわず、それよか一撃も向かい討つ必要すらないように避けては反撃を繰り出す、軽やかな戦い方は初めて目にした。今までの猛者たちが嵐の中びくりともしないかしの木ならば、スバキは風に逆らわずいなしてしまう柳の木だ。実に鮮やかであるとルハナはいつの間にか魅入っていた。


 ぎゃっと声を上げたドラゴンは怯み、脳を揺さぶられる衝撃からよろめいた。千鳥足で数歩横に流れると、何とか踏みとどまる。転ばずに済んだ雄のドラゴンはしかしスバキの姿を完全に見失ってしまった。きょろきょろと黄色い眼で羽虫を探す。攻撃が当たらぬ苛立ちから低い唸り声を漏らし、尻尾をそこら中に叩き付け、土埃が一層濃くなる。


「ここだよ、トカゲちゃん」


 スバキはドラゴンの背中からからかいの声を掛ける。長い首と体を捩り、捉えたスバキの姿は棒を右脇に挟み込み、猟銃のように両手を添えて、先端を振り返ったドラゴンの顔に向けて構えていた。


 両者の目線が交わった瞬間、向けられていた先端から魔石が放たれ、ドラゴンの頬に直撃する。スバキも撃った玉の反動からか、後ろ向きにとんぼ返りしながらドラゴンの背中を飛び降り、撒きあがった粉塵の中へと姿を消した。


 ドラゴンは怒り心頭である。羽虫一匹相手にこんなにも手こずるとは、空の王者の名折れである。格の低い狩人であれば耳にしただけで腰を抜かしてしまうような咆哮を上げ、尻尾はびしびしと辺り構わず地面を穿つ。


 そして縦長の目を細め、改めて魔力を練り始めた。砂塵の中でもぼぉっと赤い陣が灯る。先程の大きな陣ではなく、小さい物が五つ、六つと散らばっているようだ。


 ルハナは少し離れた位置からその様子を注視していた。やはりドラゴンは魔力があまり残っていないのだろう。陣の光が強くなるにつれ、その身を包む魔力の層が薄れていく。防御力を高めている魔力に手を出してでもスバキを骨まで燃やし尽くしたい程怒っているのが手に取るように分かる。


 しかしこれは逆にルハナにとっても好機である。あれ程まで紅の魔力が引き伸ばされてしまえば、ルハナの蒼の初等魔導を施した剣で首を落とせる。握っている大剣に神経を向け、蒼の魔力を込めた。それはルハナ自身が持っている最後の魔力でもあった。あとはスバキの合図とやらを見逃さないよう、彼は神経を尖らせ、いつでも駆け出せるように低い姿勢を取る。


 場に異様な静けさが漂う。雄のドラゴンは不機嫌な呻き声を発しながら砂煙の中をギョロリギョロリと見回し、スバキを探している。しかし彼女は頬への一撃以来、姿を現しておらず、その間が延びれば延びる程、緊張感から一巻き二巻きと空気が張り詰めていく。


 遠くから雌が番を呼んでいるが、肝心の雄のドラゴンは頭に血が昇っており、全く反応を示さない。或いは聞かぬ振りをしているのかもしれない。このまま逃げ帰る事がドラゴンとしての誇りが許さないこともあり得る。


 時が経つにつれ、ルハナに少しばかしの不安が過る。スバキはドラゴンに攻撃を仕掛けないのであろうか。このままではドラゴンの魔導が発動してしまう。発動まで至れば、確かに発現のみより多めの魔力を使わせる事となるので、また一段とドラゴンの防御力は下がる。だが小さいながらも紅のドラゴンの高等魔導六つをスバキは一体どう対処する気でいるのか。彼女の装備の防御力は、ルハナが渡したお守りを除いて皆無と言っていい。その状態の彼女が魔導による攻撃を受けてしまった場合。


 ルハナの背筋を震えが走る。お守りが作動するのは対象が命を落とす程の攻撃を受けた際、一度だけ。それで何発か凌いだとしても、六発全ての魔導を捌き切れるのだろうか。


 やはりここで自身がドラゴンに討ち入り、魔導の発動を止めるべきかとルハナは頭を悩ませる。しかし直ぐに彼はその考えを頭から追いやった。


 スバキ一人に身を隠すように進言した時、彼女はそれをルハナの悩みからきた悪策と一瞬で見破り、彼に問うたのだ。彼の意志を、本心を。二頭とも始末したいという願いを口にした際、彼女は迷いなく簡潔な作戦を言い残し、堂々とドラゴンに向かって行ったのだ。あの背中は間違いなく古強者ふるつわもののそれであった。


 スバキを信じ、合図を待とう。ルハナは決心した。


 ドラゴンの六つの赤い陣は土埃の中でもはっきり見える程の光を帯びていた。いつ発動してもおかしくない。準備が整ったからか、或いは全く手を出さないスバキに痺れを切らしたのか、黒い雄ドラゴンは動く片翼で体をきつく包み込み、独楽こまが引かれた紐から解き放たれる勢いを以て広げた。魔力が混じった爆風が起き、ドラゴンを包む魔力が更に弱まる。


 押し返された砂埃はドラゴンの周りの視界を晴らした。同時に少し離れていたルハナの姿は上手く砂塵に隠される。土煙に乗じてドラゴンに一撃を与えられそうである。上手くスバキの位置を確認し、彼女に気を取られているドラゴンの懐に潜り込めれば、首を狙える。土色にぼやける視界の中、ルハナはスバキを探す。


「だいぶ鈍った牙をお持ちだこと」


 きりきりと音を立てそうな程に張り詰めた空気をスバキの明るい声が破る。彼女の声につられて、ドラゴンは勢い良く振り向く。彼女はルハナが思っていたよりも近くに居た。足音に気付けなかったと驚く反面、充分駆け付けられる間合いである事に彼は安堵する。ケラから借りている疾走の魔具を使えば、一瞬で辿り着く。


 挑発されたドラゴンはスバキに向けて殺気を放ち、吠え猛ぶ。六つの陣は地面から浮き上がり、手持ち花火のように弾けたかと思うと燃え盛る火の車輪となり、回転しながらスバキ目掛けて飛んでいく。しかしそれだけでは怒り狂うドラゴンの気が済まないのか、地を蹴り、自らも六つの炎の車輪を追いかける形で突進する。


 好機である。ルハナは思わず浮足立った。スバキ程の狩人であればこの機会を逃さない。地面を踏み締めるルハナの足に力がこもる。合図を見逃さぬようスバキを食い入るように見詰める。


 だが彼女はなかなか動かない。同時に嫌な考えがルハナの脳裏を掠める。


 まさかスバキは己の命と引き替えにルハナにドラゴンを討伐させるつもりではないだろうか。考えたくは無いが、彼女の言っていた合図とはまさか彼女の死ではあるまいか。


 再び葛藤がルハナを襲う。スバキを信じようという先程の決心がぐらぐら揺らぐ。彼をその場に留めたのは、果たして揺らいではいたが崩れはしなかった決意だったのか、それとも単に行動を起こすにはあまりにも時間が足りなかったのか。結果として丸い火の刃が二つ同時にスバキに迫るのを、ルハナは避けるようにと心の中で強く祈る事しかできなかった。そしてその願いが聞こえはしなかっただろうが、スバキは軽い身のこなしで襲い掛かる紅の魔導を二発避ける。空振りした車輪はそのままスバキの後方へと飛んでいく。


 ルハナがほっと息を着いたのも一瞬の事。次の二つの炎の車輪をスバキが棒を使って避けている中、彼女が躱した最初の二発の魔導がくるりと方向転換したのである。背後から襲われてしまう。ルハナがそう思った、その時。


 ピーッと笛が響いた。スバキの口笛。合図である。


 ルハナが地面を力一杯蹴り、スバキの元へ向かう。彼女に突進しているドラゴンの首さえ落としてしまえば、発動している魔導も恐らく消失する。しかしルハナがドラゴンに辿り着くのが先か、スバキが紅の魔導に前後から挟み撃ちにされるのが先か、かなり際どい。


 当のスバキはやはり力の抜けた状態で待ち構えており、背後の二発が舞い戻っているのに気付いているのかどうかすら、ルハナからは分からない。だが彼が注意を促す為に声を上げれば、ドラゴンに気付かれ、魔導で吹き飛ばされたり、狙った首を局部的に防御され、折角スバキがお膳立てしてくれた好機を逃してしまうかもしれない。歯を食いしばり、ルハナはひたすら駆ける。


 するとスバキは武器である棒を右手で握り込み、胸の前で片手で拝むように構えられた左手の掌に押し当てる。棒は地面に垂直に立てられ、その姿は瞑想でも始めるのではないかというように穏やかだ。背後の攻撃はおろか、前方からの攻撃すら避ける気が全く窺えない。


 まさか本当に、とルハナ焦燥に駆られる。同時に切願した。もう少しなんだ。もう少しで辿り着く。それまでどうか。


 後ろからも前からも燃え盛る火の陣がスバキの身を焼き切るかと思われたその時、彼女の周りの空気が歪んだ。まるで見えない小さな波動に当てられたの様に四つの陣の動きがほんの一瞬だけ、鈍った。


 その一瞬で充分だった。


 ルハナはドラゴンの首元まで駆け着け、跳んでいた。薄っすら青白く光る大剣は振り上げられており、彼の落下と共に振り下ろされれば、その威力を止める為の魔力も、時間も、ドラゴンは持ち合わせていない事だろう。スバキばかりに気を取られていた雄のドラゴンがルハナに気付き、目だけは己の命を狩る剣士の姿を捉えていた。その瞳には、殺気も怒りも無く、突然姿を現したルハナに対する驚きと、己が狩るものではなく狩られる側であると自覚したことで生まれた恐怖が映り込んでいた。


 大剣が振り下ろされる。


 ザシュッという鋭く、まるで何かが裂けるような音。はらはらと灰と化す、六つの陣。一瞬遅れて飛び散る血飛沫。一つ一つがルハナには緩やかに見えた。


 間に合ったのだという実感と共にルハナの中の時間の感覚が平時のものに戻ろうとしていたその時。ルハナは自身の背後の殺気に身震いする。


 弾かれるように目を向けると、雌のドラゴンがその赤茶色の巨体で低空飛行で迫っていた。存外近い間合いであり、ここまで近づくまで察知できなかった己をルハナは責めた。


 大剣に宿る魔力の残滓を紅色に変えれば、或いは雄の時程ではなくても弾くなりいなすなりできるかもしれないと思い当たり、彼は大剣に神経を巡らせる。しかし雌のドラゴンが口を大きく開いて彼らに向かっており、喉の奥は熱気を帯びた魔力が蜃気楼を作り上げている。


 体当たりの前に炎を吹くつもりであるのだ。ルハナの防具であれば大丈夫であるという事は、先程の雄の攻撃を諸の受けた時に実証されている。対してスバキの軽装では、炎に身を焼かれてしまう。それでも彼女ほど身軽であれば、今からでも火炎の届かぬ範囲まで逃げおおせるかもしれない。


 鋭い声で彼女の名を呼びながら、ルハナは振り向く。雄のドラゴンの死骸は突進の惰性から、未だ黒い雪崩のように流れている。首の断面から溢れる血にはまだまだ勢いがあり、その赤い垂れ幕の向こう側にいるスバキはルハナから見えない。


 それほど一瞬の出来事だった。ルハナからはスバキが見えなかった。だが瞬きもしないうちに、その血飛沫の中から、スバキは姿を現した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る