第18話 金聖
背中から重みが避けた瞬間、エバンは即座に体を起こし、背後にある太い脚へしがみ付いた。
「往生際の悪い」
しかし、抵抗も虚しく文字通り一蹴されてしまう。
仰向けに転がったエバンにゼノが駆け寄ろうとするも、兵士の一人に剣を向けられて足を止めた。
「く……そ……」
顔を上げようとすると蹴られた腹部が痛む。それでもゆっくりと上体を起こすと、目の前でカンザが銀の部屋の中に消えていくところだった。
むなしくも扉は閉じられる。
「リンディ……!」
「おっと。下手に動かないでくださいよ。私がこれを下ろせばどうなるかわかりますか?」
しわがれた声は偽女神のいる部屋の向かい側から聞こえた。そちらにも扉があり、開け放っている部屋の中にボイドがいた。
「何の真似だ」
「あなたたちが不要な動きをすれば、あの檻を開ける、という事ですよ」
カイトスの問いに、ボイドは手をかけている開閉器を示してみせる。
「私のしもべたちは私の指示に従ってくれます。従順な獣たちですよ」
静まった空気に満足したのか、ボイドはくつくつと笑い、大きな丸眼鏡を押し上げる。
時が止まったようにも思えたこの瞬間も、実際にはいくらも経っていないかもしれない。緊張に張り詰めたエバンには、もはや正確な事はわからなかった。
そんな静寂は扉の開く音によって破られる。
「おお、カンザ司令官。成功しましたかな?」
「そうだな……まだ実感はないが……」
部屋から出てきたカンザは、おもむろに逞しい腕を動かし身体を確認した。
そしてエバンの顔を見て、にやりと笑う。
「ははあ、なるほど。娘なら怪我一つない。安心するといい」
視線を巡らせ、今度はカイトスを見やる。
「ほう。貴様、もしかしてグレイか。正気に戻ったようだな」
「使い勝手の良い人形じゃなくなって残念だったな」
睨みつけるカイトスに鼻を鳴らし、カンザは軽く頭を横に振った。
「なかなかに騒がしい力のようだな。しかしこれであの神器に手が届くはずだ……」
「何の、話だ……」
カンザはエバンの問いに答えず、檻の部屋とは逆方向へ歩き出した。
「さて。確認は済んだ。貴様らは無用だ。行くぞ、ボイド」
「はっ」
短く答え、去り際にボイドが蛇のように口角を上げた。まなじりや口元のシワがさらに深くなる。
「せいぜい私の研究の成果を堪能してくださいよ。さあ、行きなさい!私のしもべたち!この部屋の者を喰い尽くすのです」
そう声高に呼びかけ、開閉機を動かした。
「ばかな!!」
「なんてことを……!」
レウナの叫びが部屋に反響し、ロイルが青い顔をして声を絞り出した。
大きな横開きの戸の向こうで、地響きのような音が聞こえてきた。否、実際にわずかに地面が揺れていた。
おぞましい魔物たちの咆哮や足音が迫ってくる。今は戸が閉まっているからすぐに襲われるわけではないが、あの数に体当たりをされ続けていればいずれ打ち破ってくる事は必至だ。
気がつけば、すでにカンザとボイドの姿が見当たらなくなっていた。反対側に出入り口でもあるのだろう。
エバンたちの周りに剣を向けた兵士たちを置いて。
「あいつら、自分の部下をなんだと思ってやがる!」
兵士の父を持つゼノが激昂した。その扱いはまるで使い捨ての道具である。
「こいつらに指示をする者はもういない。抑え込むぞ!」
言いながらカイトスは足元の呈黒天を拾い上げ、後ろの兵士に斬りかかった。刃と刃がぶつかり合い、あっという間に兵士の剣が絡め取られる。
同時にレウナとゼノも同じようにして兵士の武器を奪う。
ロイルは杖を拾って前方へ逃げた。追いかける兵士は、起き上がったエバンによって食い止められる。
「みんな、耳を塞いでいて。謳え翠樹。眠りに誘え、オルフェウス!」
言われた通りに耳を塞ぐと、ロイルの持つ杖の先に付いている新緑の石が輝く。その光の中から竪琴を持った人影が現れた。そして、兵士に向かって片腕に抱えた竪琴を爪弾いてみせた。
すると不思議な事に、次々と兵士が倒れていくのだ。しかし表情は穏やかなまま。
美しい旋律で兵士たちを眠らせると、人の姿をした精霊は杖の中へ戻っていった。
ほっとするのも束の間、重い戸が衝撃で変形するのを目の端に捉えたレウナが叫ぶ。
「まずい!戸が破られる!」
「おい、こいつらどこかに避難させた方がいいんじゃないか!?このままだと魔物たちに襲われちまう!」
眠った兵士らを心配してゼノが辺りを見回す。賛同したカイトスやエバンを中心に、意識のない兵士を開閉機の部屋へ運び込んだ。
「エバン。ここは僕たちに任せて、君はシリウスの女神を……!」
「ああ、わかってる!」
ロイルに頷きかけ、エバンは銀の部屋へ向かった。
今度こそ自分のやるべき事を果たすために。
戸の前で警戒する仲間たちに背を向け、部屋の中へ一歩を踏み出した。
「リンディ!」
部屋の中心に立ち尽くしているのは幼なじみの少女だった。怪我はないとカンザは言っていたが、見たところ真実のようだった。
「無事でよかった。今から偽女神を消滅させるよ。少し離れてて……」
言いながら違和感に気がつく。いつも花咲くような微笑みを浮かべる顔が俯きがちで表情が見えない。何よりも、細腕には不釣り合いな両刃の剣を引っ提げていた。
どうしたのかと問う前に、少女はエバンに剣を振り上げる。とっさに飛び離れて金聖を構えるとすぐさま二太刀目が襲いかかってきた。
「リンディ!?何を……!」
無造作に振り回される剣を金聖で受け止める。そうして初めて少女の瞳を見た。
目を合わせているはずなのに、その淀んだ瞳はエバンを映していない。まるで以前のカイトスのようだった。
(操られている……!?でも、どうして?リンディにはレグルスの加護が──)
いつも胸元に下げている金の鍵。女神の姿を象ったそれは、リンディの心を読む力を抑えるためにレグルスが授けてくれたものだ。
それが今の少女には見当たらなかった。当然、加護もなくなり、偽女神の力で操られてしまったというわけだ。
(自分の意思でカギを開けたのか!?──カンザが脅したのか!でも……)
聡明な少女の事だ。こうなる事をわかっていたのだろう。
(リンディは、信じてると言ってくれた。なら、応えなきゃならないよな……!)
「どうした!もう戸がもたないぞ!」
部屋の外からカイトスの声が聞こえる。地鳴りのような音も絶えず響いている。
「大丈夫だ!」
声を張り上げて答えながら、鍔迫り合いになったままだった少女の手には似合わない剣──おそらくはカンザの剣──を力ずくで跳ね飛ばす。
そして動きを封じるよう思いっきり抱きしめる。少女は腕の中で暴れたが、力がエバンに勝る事はない。片手で充分細い肩を抑える事ができた。
その状態のまま、右手に持つ獅子の顔が施された金の剣へ呼びかける。
「頼む……女神レグルス。力を貸してくれ。偽物の女神を消すために……!」
振り上げた剣を銀の輝きを放つ女神に向かって振りかざす。
「吠えろ、
瞬間、斬撃から金の風が巻き起こり、その風が獅子の姿へと変貌した。すると、黄金の獅子は無表情のままの銀色に部屋を揺るがすような咆哮を上げた。
暴風のような声に、偽女神の姿がボロボロと崩れていく。そのまま数秒と持たずに跡形もなく消え去ってしまった。
途端、腕の中の少女から力が抜け、ぐったりと倒れ込んで来る細い体を今度は両手で抱き止める。
床に取り落としてしまった金聖は、獅子の顔がなくなり、通常通りの形に戻っていた。
部屋の中に満ちていた光もおさまり、壁中のカギも消滅した。
「これで……全部、元に……」
なんだか頭がぼうっとする。景色が真っ白になってゆく。
安心したせいか、あるいは女神を呼び出したためか、体に力が入らなくなってしまった。
立っていられなくなったエバンは、両膝を床に付き、リンディを下敷きにしないよう横向きに倒れ込んだ。
その時、エバンの意識はもうすでになかった。
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