5

「おはようございます」

「おはよう、今日の分ね」


 ざっくりと束にした赤いチューリップと、庭のプランターに新しく蒔くためのキンギョソウの種を渡すと呂街くんは思い出したように言った。


「高野さん、お昼食べていきませんか?」


 おっとりした調子で尋ねてくれる呂街くんは、まめなことにシンプルなデザインのベージュのエプロンをしていた。


「え、いいのかい」

「今日は先生がごはん召し上がらないって聞いてたのに、作りすぎちゃって」

「……あれに食事をやってるのか」


 悪魔は飯を食わないはずだ。彼の存在を繋ぎとめるための触媒である生花はあれにとってのエネルギーの役割を果たす。この家ではそのせいか、外よりもずっと早く花が枯れていく。

 毎日毎日両手いっぱいの花束を捧げる分、枯れるか腐るかしてどうしようもなくなったものを引き取って帰るのももう慣れた。


「先生に何も出さずに僕だけ食べるなんてできないじゃないですか」


 ささ、と俺をリビングテーブルにつかせ、眉を下げて笑った呂街くんが、不意にきっと眦を挙げてばしん、と虫を潰すように壁を平手で叩いた。


「うるさいなあ、大丈夫だって言ってるでしょ」


 壁に向かって苛立ち交じりの言葉を吐く呂街くんは、俺の視線にそろそろと振り向く。


「……見えてませんか」

「そうだね」


 呂街くん曰く、彼には人間以外の幽霊も見えていて、なおかつそれらは呂街くんに向って話しかけてくるのだそうだ。なんで犬猫や魚が日本語を喋るのかは謎だが、呂街くんの見解では悪魔が俺と呂街くんにはそれぞれ違う姿で見えているのと同じ理屈ではないかと言うことだ。

 連中が何を言っているのかは敢えて尋ねたことがない。陰口を暴くようで気が引けるし、理解できない内容だったら余計に恐ろしい。


 微妙な空気をごまかすように、ね、と呂街くんが笑みを作る。


「こうやって毎日、ご飯作って買い物して、お掃除して花の手入れして、先生のお世話をしていると、母さんってこんな気分だったのかなあって思って」

「呂街くんのお母さんが?」

「はい、専業主婦ってやつで、一日中こうして家事してたのをちょっと思い出しちゃいました」


 キッチンに一度引っ込んだ呂街くんが持ってきたのはクリームシチューだった。ニンジンもジャガイモも鶏肉も、やたらと小さく刻まれている。それについて俺が何かを言う前に呂街くんは「火が通らなかったら困るなと思って!」と恥ずかし気に弁明してきた。別にごちそうになる立場で文句を言う気も無いのだが。

 食卓には、皿を置いたらもう隙間もないほどに花瓶が置かれ、花が飾られている。周りの棚にも鉢植えや花束が積まれており、様々な花の香りが立ち込めて食欲を奪っていくのに逆らうように、スプーンを口へと運んでいく。


「母さんは僕のこと、脳か精神の病気だと思ってたらしくて」


 自分の分の皿も持ってきて、テーブルの向かい側に座った呂街くんはその弁明の続きのように何でもない口調で言うが、その内容に俺は手を止めてしまった。


 呂街くんは時々こんな風に、俺にぎょっとするような打ち明け話をする。幽霊と生きている人間の見分けがいまいちつかないこと。多分生きている友だちが一人もいなかったこと。お隣さんが飼っていた犬が喋れないのが不思議で日本語を教えようとして気味悪がられたこと。

 呂街くんが俺に感じている距離の近さの表れだろうか。人とまともに関われてこなかったのだろう彼は、それがどれほど扱いかねる話題なのかも分からないのかもしれない。彼が初めて真っ当に、立場を曲がりなりにも共有して会話することが出来たのが俺なのだ。

 彼が見えているものの半分も俺には見えていないが、少なくとも「何かが見えている」という事実を受け止めることは出来る。


 その事実を痛ましく思うと同時に、少しだけ、嬉しく思う。


「あっちこっち、病院に連れていかれて……でも本当に僕のこと心配してそういうことしてたんだからって思うと、なんだか申し訳なくて」


 俺たちが病気じゃないとは言い切れないけど、とは流石に言わなかった。呂街くんを傷つけたくはない。彼の見えているものが彼にとっての現実だ。


「あまり他所で変なことを言わないでって言われたけど、そもそもみんなに何が見えてて何が見えてないのかもよくわからなくて、それで多分変なことばっかり言ってたと思うんです」


 努めて平静ぶって、具が細かすぎる上に煮詰まってシチューというより新種のクリームソースみたいになっているものを口に運びながら呂街くんの話に耳を傾ける。相槌として「分かるよ」と言うと呂街くんは露骨に表情を緩めた。

 彼の見ているものは分からないけど、見えていないもののことを知りたがらない人々のことはよく分かる。


「優しい母さんなんですよ、本当に……僕のこと投げ出さずに育ててくれましたし、それに僕には、先生がいましたから」


 呂街くんが口にする『先生』という言葉には、二種類の意味がある。

 今も地下室でタイプライタを叩いている悪魔、そしておそらくその姿の元になった、本物の「先生」。


「先生は、僕が中学生の時の担任の先生だったんです。僕やっぱり上手く友達が作れなくて、でも何がみんなにとって見えてるもので何が見えてないのかとかもわからなくて、上手く喋れなくて、でも、先生は僕の話を聞いてくれて」


 スプーンをぎゅうと握りしめて、急いて空回る口を落ち着けるように呂街くんもシチューを口に運ぶ。ゆっくりと飲み下す喉の動きを、俺はぼんやり見ていた。


「先生だけは、僕に『他の人と違うものが見えるのは、何も悪いことではないですよ』と言ってくれたんですよ」

「いい先生だね」

「はい、とっても。だからこうして先生と一緒に暮らせて本当に嬉しいです」


 あれはただ単に君の思い出の皮を被っただけの化け物だ。そう断言するのは簡単だけれども、にこにことしている呂街くんの表情を見ているとどうでもいいような気持ちになってきた。彼が何も知らず笑っていることに安心する。


「そうそう、先生にタイプライタはよしてパソコンにした方が便利じゃないですかって言ったんですけど、断られたんです。でもあのタイプライタ、もう古いからrの字が掠れるんですよね、どう思います?」

「……そう、好きにさせておいたら?」


 この家にあるものはみな霊的存在である悪魔が干渉できるように術を掛けられている。逆に言えばそうでないものは触れることが出来ない。俺たち自身であってもだ。もっとも俺がここに住んでいた頃は試そうともしなかったが。

 そんな煩わしい事情を誤魔化した俺の返答は苛立って聞こえたのだろうか。呂街くんはあ、と声を上げ、焦ったように手を振る。


「ごめんなさい、先生と高野さんぐらいにしか会わないから、あんまり面白い話ができなくて」

「いや、いいよ。今楽しそうなら何よりだ」


 つまらない話をしたと気にしてくれるのが、逆に俺の気を良くした。

 この、世界と関われなかったために奇妙な純粋さを保ってきた青年に好かれるのが嬉しかった。

 それが初めて出会った同種の人間に対する刷り込みのようなものだとしても。

 おそらくは、彼のいびつな稚さを愛している。



 玄関口に出ると、庭先のプランターの横に悪魔がしゃがみこんでいた。名前も知らない黄色の花に伸ばしていた指を止め、こちらを振り向く。

 値踏みをするような、鋭い目つき。薄い唇が呆れたようなため息を吐いた。


「また来たのか」

「仕事だからな」

「花を届けるだけなんて、本当は代わりなんていくらでもいるのにな」


 顎を上げ、圧するような視線をよこしながら淡々と悪魔は話す。

 まるで聞き分けのない子供にうんざりしているかのような表情だ。


「いつまでしがみつくつもりだ? お前は自分の力を厭いながら縋りついている。醜いありさまだと思わないのか?」

「……死ね」

「俺が死ぬことは無い、そういうものだ。分かっているだろう」


 俺の口の中での呟きを耳ざとく聞きつけて、悪魔は片頬だけで薄く笑う。あからさまな嘲りが、そこにはありありと浮かんでいた。


「お前が死ぬ方が手っ取り早いだろうに。事実、」


 ばさり、と悪魔は俺に紙束を投げ渡す。むせるような花と水の匂いがした。あれの触れるものすべて、重苦しくこの匂いをまとっている。

 未来の予言の書かれた紙。世界の秘密だ。かつては好奇心を持ちもしたが、読んでも意味が分からなくて興味が失せてしまった。

 どれほどの奇跡がそこで起きていようと、理解できなければそれに意味はない。


「ここからお前が消える可能性を観測したよ」


 口調は冷たく、強張った俺の表情を一瞥した目はどこまでも鋭かった。


「何を厭うことがある。俺を憎んでいるのだろう」

「……お前が俺を憎んでいるんだろ?」

「何を望む、ここにしがみついて、己の歪みを晒しながら、何を求めている」

「お前の知ったことじゃないだろう」


 未来を見ながら、そんなことを俺に問うてくる。

 ここに望むものは、ただひとつだ。

 悪魔は、きっと彼には見せないような酷薄な笑みで告げる。


「お前に見えるのは、お前が見たいものだけだ」

「そんなわけが、」


 反論を聞くこともなく悪魔は去っていく。叫びは間に合わず、俺の喉からは引き攣れたような呻きだけが漏れた。







(高野さんがチューリップをくれた。呂街くんいつもお疲れ様と。チューリップは赤かった。白の方が好きである。先生は捨ててしまえと言ったがゴミに出してはならないのだ。なので僕は庭に埋めることにした。庭を掘ると骨が出てきた。正月の骨つき唐揚げの骨だった。弔ってやると鳥の霊が出てこんなことはやめてしまえと言った。喋るのだから霊だと思えというのは高野さんの教えてくれた見分け方だった。

 

 呂街くん動物は喋らない。いいね?

 

 僕は先生を大声で呼んだ。先生はこなかった。きっと部屋でタイプライタと格闘中であるのだと思っていたがどうやら先生は眠っていた。音がしない。先生が眠られるとまるで死んだようで僕はどきどきする。悪いどきどきだ。先生がお亡くなりになるのかと思うと怖くてしょうがない。先生とお別れすると思うと泣いてしまいそうになる。

 中学校を卒業する時もそうだった。先生が先生で僕が生徒だから仕方がないのだけれど。今は、先生は生徒ではなく僕と一緒に暮らしている。嬉しいことなのだ、きっと。

 あんまり鳥の霊がうるさいので水をかけた。霊はずっと叫んでいた。


 呂街くんおやめあの人は悪魔だよ。


 耳を塞いで蹲っていたらやがて鳥の霊は消えた。僕も確かなものしかいない世界で生きたいとなと考えていたら先生が紫色の薔薇を埋めにきた。

 先生が穴を掘るのをじっと見ていた。穴ではなく溝が出来て先生はそこに薔薇を横たえて泣いた。理由を問うても先生の口からはノイズが走るばかりで僕は黙って横に座っていることしかできなかった。わくわくした気持ちを抑え込んでじっと座っていた。

 先生がお泣きになるところが好きですとは言えない。先生が先生で僕が生徒だったころ先生はお泣きにならなかった。僕が卒業式でとうとう泣き出してしまったときも先生は笑っていらっしゃった。僕は先生が泣いているところを見るとほっとするが、それは言えない。

 それは優しい人のすることではない。)

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