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 チューリップは捨てられるだろうな、という気がしていたし、捨てられるにしてもそれが敷地の中でのこと、例えば庭に埋めるとかであれば何の問題もない。あの屋敷の敷地内に生花があるということが大事なのだから。

 呂街くんにもそのことはしっかりと言い含めているので問題ないし、あれもあれで分かってはいるだろう。あれがいかに俺と折り合いが悪くとも、あれは俺の持ってくる花が無しには生きられないのだと。もっともあれを生きていると評するのはいささか不誠実にも感じる。存在する、と言った方が妥当か。


「あの、」


 遠慮がちに尋ねられたのは、プランターに入れる土を運び込むのを手伝っている最中だった。呂街くんの掬い上げるような下からの目線にどきりとする。


「高野さんはいつ、自分が『見えてる』って気づかれたんですか」

「……小学生の時かな」


 簡潔に答えながら、これはどこまで深い答えを求められているのかと考える。言葉を切って呂街くんを見返すと、好奇心に満ちた目を向けられていて、ああ俺はつくづくこの子に甘いな、と思った。


「家族で住んでたマンションのエレベーターに、女の子がずっといたんだ」

「ずっと?」

「何日も何週間も、何か月も。暗い顔をした、やせっぽちの女の子でさ、話しかけても返事が無くて。それで心配になって親に言ったんだよ。そうしたら『そんな子はいない』って」


 その時の母親が見せていたのは、最初は疑いと苦笑であり、しだいに表情は不快の色を濃くしていった。怯えはなかったと思う。俺の言うことは彼女にとっては不愉快な妄言だったのだ。父親の場合は怒りの相が少し強かったがそれだけだ。


「やっぱりうちの親もさ、俺がおかしくなったと思ってたみたいで。両親からは腫れ物扱いだったよ。俺がおかしくなったことそのものより、『おかしな息子の親だと思われること』が嫌だったみたいだ。余計なこと言わなきゃ放っておいてくれたから、まあ別にいいんだけど」


 思えば元々子供には冷淡な親だった。仲良く遊びに出た記憶もなく、何かを褒められたこともなかった。それを不満に思うことはあったが、親とはそんなものだと当時は考えていたのだ。


「兄貴はさ、俺がこうなる前は優しかったよ。世間並みの親みたいなことは大体兄貴がしてくれた」


 だから、無条件に愛されていると勘違いをしていたのだ。両親が拒絶したことも、兄なら受け入れてくれるのだと。


『そんなものは、いない』


 強張った表情、冷たい断定の言葉。

 期待は何千倍も、拒絶を痛いものにした。

 だからそれきり人に期待することをやめた。とりわけ兄、あのねめつけるような目で俺を見るようになった男に、何かを求めることを俺は止めてしまった。

 適当に話を合わせて笑っていれば、学校でも世間でもそれなりの関係は築ける。理解されようと思わなければいいだけの話だ。拒絶を示されたら速やかに距離をとればいいだけの話だ。

 実家を出ることを決めたその日、相変わらず兄は突き刺すような視線だけを向け、乗り込んだエレベーターには、痩せた少女がいつものように佇んでいた。


「俺にはあいつが兄貴に見えてるんだよ。兄貴から逃げてきて、また兄貴と暮らすなんて無理に決まってる。向こうだってそうだ。あれが兄貴のようにふるまう限り、俺も、あいつも、拒絶しあうしかない」


 あれは俺に拒絶の言葉を吐き、俺もあれに嫌悪の態度を示す。あれが兄貴の形をとり、その拒絶を写し取り続ける限りそれはもう覆しようがない。


「だからさ、少しだけ、君の先生が羨ましい」


 肯定と好意で結ばれた関係がどうしようもなく眩しく思える。心に残る人間とは本来、そういったものであるべきなのだ。

 けれども俺は、それほどまでに強い感情を他人に向けたことも向けられたこともなかった。記憶にあるのはただ、否定と、否定への反発だけだ。

 だから俺の前には、兄貴しか現れない。


 呂街くんは伏せた目の視線をプランターの土へと落とし、呟いた。


「近頃、怖いことがあって」


 その指が意味もなく土の中へと沈んでいく。凍える人のする動作に似ていると思ったし、何かを探り当てようとしているようにも見えた。


「先生、まるで死んだみたいにお眠りになるんです。先生が眠ると、もう起きることは無いんじゃないかと思ってしまって」


 あれが死ぬことは無い。あれは体なき悪魔だ。幽霊と同じようなものだ。

 呂街くんが望むと望まざるとに関わらず、この家にこびりつき続けるだけだ。

 けれど俺はそういう言い方をする代わりに、精一杯の微笑みを作った。 


「呂街くんさえこの仕事を気に入ってくれるなら、ずっと『先生』と一緒にいられるよ」


 俺はわずか半年でこの家を去ったけれども、歴代の観測者の中には十年以上をこの屋敷で過ごした人もいるそうだ。俺の前任は人生の余生とも言える七年間をここで暮らし、そして死んだらしい。

 ある種の人にとっては、この家は救いなのかもしれない。ここは世界から遠ざけられ、記憶に強く刻まれたひとと二人きりで静かに暮らすことのできる箱庭だ。


「……素敵ですね」


 その寂しそうな、いつもの無垢さとはどこか違う笑みが、爪先に入り込んだ泥土のように脳裏にこびりついたまま離れなかった。


 その日に処分した朽ちた花は、いつもよりも少なかった。

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