第6話 寝起き


 帰って、お風呂に入って、布団に潜り込むと、直ぐに意識は飛んで行った。


 私にとっての現実が蘇るのだ。

 私の夢にはいつも、木更が出てくる。

 それも、車に轢かれる寸前の木更が。


 私はこの目でその情景を見たわけじゃない。

 私が私の中で創り出した勝手な情景が頭の中で繰り返されているのだ。


『木更ぁッッ!!』


 手を伸ばしても、彼女に触れることはなく、いつもその刹那眼が覚める。

 起きると決まってじんわりパジャマの襟が濡れている。

 頰や額を触るとバケツいっぱいの水でも被ったかと思える程の量の汗が流れている。

 眼が覚めると大洪水、脱水症状なんて日常茶飯事。

 それが私の平常となっていたのだ。

 いつも通り、寝床に着く前に枕元に置いておいたタオルで汗を拭い、パジャマのボタンを一つ一つ外していく。


 今日も……あの夢だった。


 自殺を試みて、失敗したあの日から、私の心情は徐々に変化し始めた。

 食欲はちゃんと湧くし、夜はしっかりと熟睡できた。

 それでか、医者は回復の兆しがあると言った。

 私は実感はあったものの、でもやはり何か心に蟠りを抱えていた。

 そう、それをどうにもできなかった事で、私の心は私から会話を奪い取ったのだ。

 病気は感覚だけで判断出来ないものなのだと、よく分かった。


「……あ、あー」


 一人の時は声は出るが、誰かと面と向かって話すとなると、突然脳に何かが詰まった様な気持ちになって、言葉に出来ない。

 考えてた事、伝えたいことが何処かへと飛んでいってしまう。


「でも、何でひかりと二人きりの時は大丈夫なのかな?」


 ——うん、やっぱりよくわからない。

 でもひかりといると、まるで木更といた時、みたいな……暖かさがあって。


 ううん、やっぱ違う。それは違うよね。


 木更は……私の木更は、もういないのだから。

 洗面台で顔を洗って、部屋に戻ると私のベッドの上にひかりが座っていた。


「おはよう、ひかり」

「お、おはよ」


 頰を緩める私を尻目にひかりは窓際の方に立ち上がった。


「あんた……声が出ないのは、やっぱり気にしているの?」

「……え」


 何で、ひかりがその事を……。

 突然過ぎて、急に寒気を感じた。


「ひかり——今、なんて」

「実は私、読唇術が出来るの。だから今まであんたの伝えたい事が口の動きだけで分かってたっていうか」


 口の、動き。

 さっと唇に手を当てる。

 私……喋ってなかったんだ。


 一体、何を期待していたのか。

 何も自分で解決できてないのに、ひかりと会話できてるのは奇跡だと勝手に受け入れて……。


 失声症は、治ってないんだ。


 波音が聞こえる。

 陰った心を急かすように行ったり来たり。

 春の陽気に目を瞑り、窓からその青を見ていた。

 残念なのは期待を裏切られたことへの憎悪でも、ぬか喜びさせられた恨みでもない。

 自分自身の慢心への後悔だった。


 でも、本当に後悔なのかな。


 誰も、私の声を受け取ってくれない、以前はそう思っていた。

 でも……今は違う。

 ひかりだけには、声が届かなくても気持ちは伝わる。


 だから、ひかりと話がしたい。

 声で伝わらない二人だけの意思疎通キャッチボールを。


 ✳︎


 一階では、ひかりが椅子に座りながらボーッとテレビを見ていた。

 背後から声をかけようと試みるが、うんともすんとも言わないあたり、やはり伝わっていないようだ。

 彼女と話すには面と向かって話すしかない。

 雪は迷い無く、ひかりの視界に入って、顔を近づけた。


「あんた、な、なに?」

「……」


 あれ、さっきまでは喋れてたのに。

 会話が成立していないと告白されたからか、口が上手く動かない。

 大丈夫、ひかりは分かってくれるから、だから、落ち着いて、私。


(わ、わたしは)

「……うん」

(ちょっと前に、悲しいことがあって、声が出なくなったの)


 ひかりは目を見開いて、少し驚いた顔を見せたが、雪が口を開くとすぐに顔を戻した。


(それからずっと、誰かと話すことなんて、不可能なのかなって、思ってた。でもひかりに会った時、すごくびっくりした)

「びっくり?」

(だって、会話できたから)

「そう、だったのね。ならごめん、変に期待させたみたいで」

(違う……っ!!」

「……っ!」


 声に表せない迫力が雪の表情から滲み出る。


(正直、分かったときは少しがっかりした、でも……私はそれ以上に会話ができる人がいて、嬉しいと思った)

「そうよね、でもそれ、読唇術が出来る人となら誰でも」

(それがひかりだったのが、一番嬉しいの)

「な、なっ!!」


 ひかりの頰が赤らみ、逆に私は無邪気な笑顔を見せた。

 その笑顔に嘘の色は見えない。


「私は、べ、別に嬉しくないし」

(ガーン)

「ふ、ふんっ」

(……ほんとは嬉しいのかな?)

「からかうならあんたの方、もう見ないで話すわよ」

(えぇっ⁈ちょ、ちょっと)

「だーかーらっ」


 ひかりは椅子から立ち上がると背伸びをしながら両手で雪の頰に触れた。


「あんたはわたしだけ見とけばいいから。余所見したら、聞いてやんないからね」

(……う、うん)


 初めて、いや、懐かしい感情だった。

 キュッと締め付けられて固まっていた心が誰かに温められて、解けていく感覚。

 その日を境に、ひかりと私の新しい生活が始まった。

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バスケと百合と、君の声。 星野星野@2作品書籍化作業中! @seiyahoshino

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